ロンドン ギャラリー。 美の殿堂!ロンドン・ナショナル・ギャラリー展

『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』オンラインガイドツアー公開

ロンドン ギャラリー

広告 3ヶ月遅れで開幕 「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」は、文字通りロンドン・ナショナル・ギャラリーの収蔵物を日本で展示する企画展で、同館の西洋絵画のコレクションのうち61点を紹介します。 ナショナル・ギャラリーの海外巡回展は珍しく、2020年の企画展で国内トップクラスの注目を集める存在となりました。 当初は2020年3月3日に開幕するはずでしたが、新型コロナウイルス感染症の影響で延期に。 政府の緊急事態宣言が解除されたことなどから、新たに会期を設定しなおし、6月18日~10月18日で開会の運びとなりました。 入場は日時指定の事前予約制のみで、当日券はありません。 6月21日までは、前売券および招待券を持っている場合と、無料観覧対象者のみ入場が可能で、日時指定による入場は6月23日から。 筆者は日時指定入場が始まってから間もない平日の15時30分~の回で訪れてみました。 1日最大3,000人 指定時間の少し前に西洋美術館に到着したのですが、大型企画展にみられがちな大行列はなし。 当日券販売がないので、チケット売り場もガラガラです。 入場時に、ほんの少し整理のため並びましたが、ほぼ待ち時間ゼロで指定時間に入場できました。 入場指定時間は30分単位で、たとえば筆者の場合は、15時30分~16時。 遅れると入場はできません。 スタッフに尋ねてみると、30分間の入場者数は最大で200人程度だそうですが、「今日はもっと少ない」とのこと。 入場時間区分は1日15回なので、1日あたり最大3,000人程度の入場者数に制限しているわけです。 2018年に開幕した「フェルメール展」(上野の森美術館)の1日平均入場者数が5,649人、ムンク展(東京都美術館)が8,391人、ルーベンス展(国立西洋美術館)が4,090人ですから、通常の大型企画展の4分の3から半分程度に入場者数を抑えていることになります。 大型企画展では週末には1日1万人以上入れることも珍しくありませんから、1日の上限が3,000人程度だとすれば、ピーク時にはかなり少ないといえます。 広告 ヨーロッパ絵画の旅 「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」は展示室7室の構成。 最初の「1. ルネッサンス」ではクリヴェッリやティツィアーノでイタリア気分になり、次の「2. オランダ絵画」ではフェルメールとレンブラントでオランダ気分に浸れます。 イギリス肖像画」で18世紀の優雅な時代を垣間見て、「4. グランドツアー」ではローマやベネチアの在りし日の旅を楽しめます。 スペイン絵画」ではベラスケスやゴヤの重みのある絵を味わい、「6. 最後が「7. フランス近代美術」で、モネ、ルノワールといった人気の印象派の作品を楽しめます。 フィナーレとして、一番奥にゴッホの「ひまわり」が鎮座していました。 上野にいながらにして、ヨーロッパ絵画の旅を楽しめるという構成。 美術に詳しい方に言わせれば「ナショナル・ギャラリーで印象派なんて」とか「たいした作品は来ていない」など見方はいろいろあるでしょうが、筆者のようなミーハーな素人の旅好きには満足のいく内容でした。 さすが、ナショナル・ギャラリーと国立西洋美術館の組み合わせです。 「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」の感想としてひと言にまとめれば、とても質の高い企画展だと思います。 画像:国立西洋美術館ウェブサイトより 広告 じつにゆったり 人気作品が、ある程度ばらけて配置されていることもあり、各室にいた観客は常時10~20人程度でした。 観覧時間を1時間半とすれば、600人が会場内に滞留していてもおかしくありませんが、実際はその半分もいなかったでしょう。 夕方で閉館時間が迫っていたからかもしれませんが。 61枚の絵に200~300人程度の入館者しかいなければ、じつにゆったりと見ることができます。 筆者が訪れたときは、目玉のフェルメールやゴッホ、モネの前にすら、誰もいないタイミングがありました。 これほどの大型展で、これほど人が少ないのは珍しいでしょう。 「フェルメール展」との違い 2018年の「フェルメール展」も日時予約制でしたが、最後のフェルメールの部屋の押すな押すなの大混雑を思い起こすと、詰め込み方がまるで違います。 『』(新潮新書)のなかで、著者の古賀太さんは次のように書いています。 ----- フェルメール展は日時指定だったが、実際に言ってみたところ1時間に千人は押し込んでいた。 これは入口で長時間待つことがないだけで、場内は大混雑だ。 ゆっくり見られるはずの日時指定のメリットはあまりない。 (中略)「押すな押すな」のなか8点や9点を一瞬ずつ見たと喜ぶのはどこか馬鹿げていないか。 ----- これに比べると、「ロンドン展」は人が密集しない範囲でのチケット販売にとどめていたわけで、「押すな押すな」は発生しておらず、意味のある日時指定だったと感じられます。 「新常態」になるか 「ロンドン展」は当初から今回の形のようなチケット販売を予定していたわけではなく、快適な鑑賞環境は、新型コロナウイルス感染症がもたらした副産物ともいえます。 新型コロナの深刻な感染状況をみると、無邪気に喜ぶべきことではありません。 とはいうものの、これまでの大型企画展の混雑の状況が、美術鑑賞の環境として適切であったかを考えると、「ロンドン展」の鑑賞環境こそが、本来の美術展の姿ではないかと思わずにいられません。 感染症対策が発端とはいえ、こうした鑑賞環境が「新常態」になることを希望する美術展ファンは多いのではないでしょうか。 収益の問題などがあり、そう簡単な話ではないのかもしれませんが、これを機会に、美術館の企画展のあり方が見直されてもよさそうです。 (鎌倉淳) 【参考図書】.

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「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」がガラガラで快適。企画展の「新常態」にしてほしい!

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セントラルロンドン内の位置 施設情報 専門分野 来館者数 6,262,839人(2016年)• 世界第4位 館長 ニコラス・ペニー 開館 1824年 所在地 、、、WC2 位置 外部リンク ナショナル・ギャラリー(: National Gallery)は、の、に位置する。 では 国立美術館とも訳される。 1824年に設立され、13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵している。 登録適用除外チャリティ の一つで、 の 非政府部門公共機構 である。 そのコレクションは大衆に広く公開されており、特別な企画展示をのぞいて入館は無料となっている。 ただし、維持管理費用の一部を寄付でまかなうため、寄付を募る箱が入り口ほか数カ所に設けられている。 ナショナル・ギャラリーは、コレクションの基礎が王室や貴族のコレクションの由来ではないという点で、ヨーロッパでもあまり例のない美術館となっている。 コレクションの基礎となったのは、保険ブローカーで美術後援家だったジョン・ジュリアス・アンガースタイン が収集していた38点の絵画である。 初期のコレクションは個人からの寄付によって、 Charles Lock Eastlake をはじめ、その当時の館長たちが購入したものが3分の2を占めている。 その結果、他のヨーロッパ諸国の国立美術館と比べてコレクション数は多くはないが、西洋絵画が大きな革新を見せた「からまで 」美術史上重要な絵画が収蔵されている。 常設展示されているコレクションが少ないとされたときもあったが、現在ではそのようなことはなくなっている。 現在の建物は3代目のもので、1832年から1838年にかけて建築家ウィリアム・ウィルキンス がデザインした。 その後ナショナル・ギャラリーは少しずつ拡張されていったため、現在ではトラファルガー広場に面するだけが唯一当時の面影を残している。 ウィルキンスのデザインにしたがって建設された当時の建物は、美的センスに欠けている、手狭であると酷評されたこともあった。 事実建物が手狭で収蔵に限界があったため、1897年にイギリス美術専用の分館ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(現在の)が開設されている。 1991年に西側に増築されたとデニス・スコット・ブラウン の設計によるセインズベリー棟はイギリスを代表する建築となっている。 『ラザロの蘇生』(1517年 - 1519年) 1824年にアンガースタインのコレクションから購入された最初の絵画の一つで、ナショナル・ギャラリーの最初のコレクションとして収蔵番号「NG1」が与えられている 18世紀後半のヨーロッパでは美術品の王室、貴族コレクションの国有化が進んでいた。 現在のの基礎となったバイエルン王室コレクションは1779年に、の基礎となったのの歴代コレクションは1789年ごろに一般公開されている。 フランス王室コレクションも1793年に一般公開されとして現在に至っている。 しかしながら当時のではヨーロッパ大陸におけるこのような潮流とは無関係であり、現在でもイギリスのは王室の私的所有物となっている。 1777年にイギリス政府は、世界的な評価が高かったコレクションを購入する機会を得た。 イギリス初代首相を務めたの子孫がウォルポールの美術コレクションを売りに出したのである。 当時のイギリス市長で庶民院議員はイギリス政府に、この「貴重な宝物」を購入するよう強く求め「の広大な庭園に気品あふれるギャラリーを建てて」収蔵することを提案した。 しかしウィルクスの主張は通ることなく、ウォルポールのコレクションは20年後にロシア女帝が全て購入し、現在はに収蔵されている。 『』(1636年頃) オルレアン・コレクション由来の絵画 1798年に、オルレアン公の美術コレクションだったがロンドンに持ち込まれ、国王も首相も購入に興味を示したが、結局このときも美術品の購入は実現しなかった。 ただし、現在のナショナル・ギャラリーには所蔵品番号「NG1」の『ラザロの蘇生』など、様々な方法で集められたオルレアン・コレクション由来の作品が25点収蔵されている。 1799年には画商のノエル・デザンファンからイギリス政府に既存の絵画コレクション売却の打診があった。 もともとはデザンファンと共同経営者だったスイス系イギリス人画家フランシス・ブルジョワ が国王のためにそろえたものだったが、1795年にが行われ、国家自体が消滅してしまったために引き取り手がいなかったコレクションである。 しかしながらこの打診は拒否され、結局このコレクションはブルジョワが死去する際に自身の母校に遺贈した。 このコレクションはイギリスで最初の公立美術館として1814年に開設されたの前身となっている。 1803年にスコットランド人画商ウィリアム・ブキャナンと美術収集家ヨーゼフ・カウント・トゥルホゼスが、それぞれ美術コレクションの購入を打診し、どちらも拒否されているが、後にこれらのコレクションはナショナル・ギャラリーの主要なコレクションとして所蔵されている。 準男爵ジョージ・ボーモント。 が描いた肖像画。 英国美術振興協会の一員でナショナル・ギャラリーの創設に尽力した ウォルポールの美術コレクション売却話の後、ジェームズ・バリー やジョン・フラクスマン など多くの芸術家たちが、イギリス絵画が発展するためには他のヨーロッパ諸国の優れた絵画と接する機会が不可欠であるとして、イギリスでの国立美術館の創設を求めた。 1805年に貴族階級の美術愛好家たちによって英国美術振興協会 が設立されている。 この協会のメンバーは所持していた絵画を、美術学校の夏季休暇時に展示会を開催するために年一回貸与し、芸術家たちが絵画に接する場を提供した。 しかしながら貸与された絵画には二流以下の作品も多く 、英国美術振興協会を不快に感じ、協会のメンバーたちが所有するの絵画の売却価格を吊り上げる、詐欺まがいの展示会ではないかと考える芸術家もいた。 しかし、英国美術振興協会の創設メンバーの一人準男爵ジョージ・ボーモント のように、自身が所有する16点の絵画の寄贈を申し出て、ナショナル・ギャラリーの創設に大きな役割を果たした人物もいる。 1823年には死去したばかりのロシアからロンドンに亡命してきた銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインが生前収集していた著名なコレクションが市場に出た。 このコレクションは38点の絵画で、の作品やの『 当世風の結婚』シリーズなどが含まれていた。 1823年7月1日にホイッグ党の政治家で後に初代ドーヴァー男爵を受爵するジョージ・エイガー=エリス が庶民院でこのコレクションを購入する提案を出した。 この提案はボーモントの絵画寄贈の申し出によって弾みがつき、政府によるアンガースタインのコレクション購入と、このコレクションを収蔵するのに相応しい建物の建設が議論された。 最終的にはオーストリアからの予期せぬ戦時公債の返済があったことによって、イギリス政府はアンガースタインのコレクションを57,000ポンドで購入することを決定した。 設立と初期 [ ] ペルメル街100番を描いたドローイング。 1824年から1834年にかけてナショナル・ギャラリーがあった場所 1824年5月10日に、アンガースタインが以前所有していたロンドンの100番のにナショナル・ギャラリーが開館した。 1826年にボーモントがナショナル・ギャラリーに寄贈を申し出ていた絵画コレクションが、続いて1831年には著名な画商で美術品収集家でもあったウィリアム・ホルウェル・カー が遺贈した35点の絵画が収蔵された。 開館当初の絵画管理は画商で画家でもあったウィリアム・セギエ 一人が担い、同時にギャラリー全体にも責任を負わされていたが、1824年7月に新しく評議員会が結成され、役割と責任が分担されることとなった。 ペルメル街のナショナル・ギャラリーは常に入場客であふれており、人いきれで蒸し暑く、パリのルーブル美術館などに比べて建物の規模が小さかったこともあって、国を代表する美術館としては相応しくないのではないかという世論が高まった。 しかしナショナル・ギャラリーの評議員に就任していたエイガー=エリスは、ロンドン中心部のペルメル街という場所が美術館の存在意義に正しく合致していると評価していた。 後にペルメル街100番が地盤沈下を起こし、ギャラリーは一時的に105番に移設されたが、作家アンソニー・トロロープ は105番の建物を「薄汚く重苦しいちっぽけな建物で、素晴らしい絵画を展示する場所としてはまったく不適格だ」と酷評している。 その後、100番、105番ともに、 へと続く道路を敷設するために取り壊されることが決定した。 1832年にウィリアム・ウィルキンスの設計による新しい美術館の建築が始まった。 の以前王室厩舎があったところで、1820年代にトラファルガー広場として改装された場所である。 この場所は、富裕層が住むと、貧困層が住む東地域との中間に位置するという点に意味があった。 その一方で1850年代には、階級階層とは関係なく優れた芸術には誰もが接することができるべきであり、薄汚れたロンドン中心部や欠点だらけのアンガースタイン邸などではなく、サウス・ケンジントン に移転すべきではないかという現実的ではない議論もあった。 1857年の議会で「絵画のコレクションそれ自体が目的ではなく、人々に高尚な楽しみを提供する目的にのみ絵画を収集する」という声明が出された。 歴代館長による発展 [ ] ナショナル・ギャラリー歴代館長 チャールズ・ロック・イーストレイク 1855年 - 1865年 ウィリアム・ボクサル 1866年 - 1874年 フレデリック・ウィリアム・バートン 1874年 - 1894年 エドワード・ポインター 1894年 - 1904年 チャールズ・ホルロイド 1906年 - 1916年 チャールズ・ホームズ 1916年 - 1928年 オーガスタス・ダニエル 1929年 - 1933年 ケネス・クラーク 1934年 - 1945年 フィリップ・ヘンディ 1946年 - 1967年 マーティン・ディヴィス 1968年 - 1973年 マイケル・レヴィ 1973年 - 1986年 ニール・マグレガー 1987年 - 2002年 チャールズ・ソマレス・スミス 2002年 - 2007年 ニコラス・ペニー 2008年 - 15世紀から16世紀にかけては、イタリア絵画がコレクションの中心だった。 開設以来最初の30年間にわたり、絵画収集の権限を持っていた評議委員会が購入したのはの画家たちの作品がほとんどだったためである。 この評議員会の保守的な嗜好が貴重な絵画の購入機会を逃すことにもつながり、後にナショナル・ギャラリーが1847年から1850年は1点の絵画も購入できなくなるという混乱の原因にもなっている。 これらの事態を憂慮した1851年の庶民院のレポートでは、評議員会を上回る権能を持った館長職の設置が求められた。 識者の多くは、以前ナショナル・ギャラリーの照明やコレクションの展示方法について顧問の役割を果たした、ドイツ人美術史家のグスタフ・フリードリヒ・ワーゲン が館長として着任するのではないかと考えていた。 しかしながら、その王配、首相らに、ギャラリーでの絵画管理の仕事ぶりを認められていた画家チャールズ・ロック・イーストレイク が館長に任命された。 イーストレイクはヨーロッパ絵画の研究会アランデル・ソサエティ 創設に大きな役割を果たした人物で、当時のロンドンでも一流の美術専門家として知られていた。 『キリストの洗礼』(1450年頃) , イーストレイクの購入絵画 『愛の勝利の寓意』(1545年) イーストレイクの購入絵画 新館長イーストレイクが好んでいたのはとだった。 どちらもそれまでのギャラリーの評議員会から無視され続けていた作品群だが、美術研究者からは徐々に注目されつつあった分野だった。 イーストレイクは毎年1回ヨーロッパ大陸に渡り、特にイタリアを訪れてナショナル・ギャラリーに相応しい絵画を捜し求めた。 そしてイーストレイクはの『 サン・ロマーノの戦い』のような重要な148点の絵画を諸外国で、46点の絵画をイギリスで購入した。 イーストレイクは、評議員会からは興味をもたれなかった類の絵画を集めた自身のプライベート・コレクションも持っていた。 ただし、このプライベートコレクションの最終的な目的はナショナル・ギャラリーの所蔵に加えることであり、イーストレイクの死後に、友人で後任の館長となったウィリアム・ボクサル とイーストレイクの未亡人エリザベス・イーストレイク によって正式にナショナル・ギャラリーのコレクションとなっている。 ギャラリーが狭く、収蔵、展示スペースが少ないことは依然として深刻な問題だった。 1845年にロバート・バーノンから大量のイギリス絵画の遺贈があったが、ウィルキンスが設計した建物には収容しきれず、当初はペルメル街50番のバーノン邸に展示され、後にマールバラ・ハウス に移動された。 1851年に国民的イギリス人画家が死去し、1000点以上の絵画を残したときにも十分な対応が出来ず。 ナショナル・ギャラリー本体ではなく、バーノンの遺贈絵画とともに離れたサウス・ケンジントンで展示される始末だった。 このことはイギリス絵画をナショナル・ギャラリーではなく別の場所で展示するという先例となり、1897年の分館ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(現在の)開設につながった。 1790年以降に誕生した画家たちの作品をミルバンク に建設されたナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アートへと移されることになったため、(1697年 - 1764年)、J. ターナー(1775年 - 1851年)、(1776年 - 1837年)らの作品はイギリス絵画ではあるが、現在でもトラファルガー広場のナショナル・ギャラリーに展示されている。 ターナーの遺言には、フランス人画家の作品に自身の絵画を2点並べて展示することとした条項があるが 、現在これらの絵画はナショナル・ギャラリーと、1985年にテート・ブリテンに増設されたクロア・ギャラリーに分散して収蔵されている。 第3代館長フレデリック・ウィリアム・バートン は18世紀絵画コレクションの基礎を作り、イギリスのプライベートコレクションから傑出した絵画の購入に成功した。 1885年にのコレクションから、ルネサンス盛期イタリア人画家の『 (アンシデイの祭壇画)』とバロック期フランドル人画家の『 チャールズ1世騎馬像』の2作品を過去最高額の87,500ポンドで購入している。 この高額な買い物はナショナル・ギャラリーの「絵画収集黄金時代」に終止符を打つことになり、これ以降数年間ナショナル・ギャラリーは絵画を購入することができなくなった。 20世紀前半 [ ] 『』(1647年 - 1651年) 20世紀初頭の農業恐慌で、多くの貴族階級が個人所有の絵画を手放したが、アメリカ人富豪、財閥の持つ潤沢な資金力にイギリスの美術館は対抗できず、多くの作品がアメリカへと流出した。 これを教訓として設立された、イギリスへの絵画購入を目的とする基金がアート・ファンド である。 ナショナル・ギャラリーがアート・ファンドを利用して、1906年にの『 』、1909年にはホルバインの『 クリスティーヌ・ド・ダヌマルクの肖像』をそれぞれ購入している。 また、貴族階級の多くが財政的危機にあったが、その後10年間に渡ってプライベートコレクションから重要な絵画の寄贈が相次いだ。 1909年には実業家から、ラファエロの『 キリストの磔刑(モンドの十字架)』を含む42点のイタリアルネサンス絵画がナショナル・ギャラリーに寄贈された。 その他重要な絵画を寄贈した人物として、1910年のジョージ・ソルティング 、1916年の、1917年のヒュー・レーン があげられる。 ヒュー・レーンにはコレクションをナショナル・ギャラリーへ寄贈するという遺書と、コレクションをダブリンのヒュー・レーンギャラリーに寄贈するという証人の署名のない遺書があり、どちらが正しい遺書なのか大きな議論を巻き起こした。 『傘』(1883年) 政治的な抗議行動でナショナル・ギャラリーの絵画が損傷を受けるという珍しい事件が1914年5月10日に起こった。 過激婦人参政権論者のカナダ人女性メアリー・リチャードソン が、数日前に仲間の婦人参政権論者であったが逮捕されたことに対する抗議として、ディエゴ・ベラスケスの『鏡のヴィーナス』を肉切り包丁で切り裂いたのである。 また、同じ月に別の過激婦人参政権論者がの5点の絵画を傷つけた。 の開始までナショナル・ギャラリーは閉鎖されるべきだという理由からで、パンクハーストが結成した婦人社会政治連合 , WSPU が絵画に対する攻撃を止めるよう呼びかけた声明は無視されていた。 ナショナル・ギャラリーへのの収蔵は、異例ともいえる波乱含みで開始された。 1906年にヒュー・レーンが、印象派フランス人画家の『 傘』など、39点の作品をナショナル・ギャラリーに自身の死後に寄贈すると発表した。 ただし、レインが住んでいたのに、これらの絵画を展示するのに相応しい美術館が建てられなかった場合には、という条件がついていた。 この発表は当時の館長チャールズ・ホルロイド から大歓迎されたが、ギャラリーの評議員会からは激しい反対を受けた。 評議員の一人は「芸術の聖域たるナショナル・ギャラリーに醜悪な現代フランス絵画が展示されているのを見るくらいなら、セント・ポール大聖堂に行ってモルモン教の伝道演説を聴くほうを選ぶ」としている。 おそらくはこのような評議員会の言動に嫌気が差したレーンは、絵画は全てアイルランドにのみ寄贈すると遺言書を修正したが、この遺言書には立会人も、証人の署名もなかったということは重要な点である。 1915年にレーンが乗船していた客船が、ドイツ海軍からの攻撃を受けて沈没、レーンもこのときに死亡し、その後遺言書を巡る議論が1959年まで続いた。 現在ではレーンが残したコレクションの多くがヒュー・レーン・ダブリン市立美術館 に常設展示されており、一部の絵画は数年置きにロンドンとダブリンで交互に展示されている。 実業家サミュエル・コートールド が1923年に創設した現代絵画を購入する基金が、イギリスに新印象派フランス人画家の『 』など重要な絵画をもたらした。 これらの絵画は1934年にナショナル・ギャラリーからテート・ギャラリーへと移管されている。 移動先に選ばれたのはペンリン城 ()、、アベリストウィス大学 などだった。 1940年にしたため、より安全な保管先が必要とされ、絵画をカナダへと移す案が検討された。 しかしこの案は首相によって即時却下され、チャーチルは当時のナショナル・ギャラリー館長に「洞窟や地下壕にでも隠せ。 一枚の絵画もイギリス諸島から出て行くことはありえない」という電報を出している。 チャーチルからの命令を受け、北ウェールズのブラナイ・フェスティニオグ 近郊の採石場が絵画の隠匿場所に選ばれた。 この新たに提供された場所で当時絵画管理の職に就いており、後にギャラリー館長に就任するマーチン・ディヴィス が、同時に保管されたギャラリーの蔵書を参照しながらコレクションの学術的目録の編纂を始めている。 保管場所に選ばれた採石場が、絵画を保存する上で重要な要素となる気温と湿度が一定であったかどうかを長く疑問視する修復技術者もいたが、現在ではそれらの要素を再確認することは不可能である。 ナショナル・ギャラリーに最初に空調管理設備が設置されたのは1949年になってからであり、絵画がそれ以前にギャラリー内で何らかの悪影響を受けた可能性もあったためである。 絵画が全て避難した空っぽのナショナル・ギャラリーでは、一般国民の戦意高揚のためにイギリス人ピアニストが毎日演奏会を開いた。 この当時ロンドン市内のあらゆるコンサート・ホールが閉鎖されていたためでもあった。 、、スタンリー・スペンサー ( ら、当時を代表するイギリス人画家たちが戦争画家 に任じられ、彼らの描いた戦争絵画の展示が1940年から開始された。 戦争芸術家諮問委員会 War Artists' Advisory Committee はギャラリー館長のクラークに、「どんな名目でも構わないから画家たちに戦争絵画を描き続けさせる」ように求めている。 1941年に一人の画家から、近年ギャラリーの所蔵となったレンブラントの『 マルガレータ・デ・ヘールの肖像』を見たいという要望が出た。 この要望から「今月の一枚 Picture of the Month 」の構想が生まれ、毎月採石場から1点の絵画が運び出され、ナショナル・ギャラリーで大衆に展示されることになった。 美術評論家はこの年にナショナル・ギャラリーのことを「爆撃され荒廃した大都市の中心部にある、芸術の最前線基地」と評している。 絵画が無事にトラファルガー広場のナショナル・ギャラリーに戻ってきたのは、終戦した1945年のことだった。 第二次世界大戦後 [ ] 『』(1556年 - 1559年) 2008年にと共同で購入した 終戦後、ナショナル・ギャラリーでは徐々に新規の絵画購入が困難になっていった。 や印象派、の画家たちの作品の相場が、ギャラリーの資金力を上回って高騰したためである。 終戦後にナショナル・ギャラリーが購入した重要な絵画には、1962年に購入したルネサンス期イタリア人画家の『 』 1499年 - 1500年)や、1972年に購入したヴェネツィア派イタリア人画家の『 アクタイオンの死』など、一般大衆への訴えかけと助力が無ければ入手不可能だったものもある。 ナショナル・ギャラリーに政府から交付される絵画購入補助金は1985年に凍結されたが、同じ年に大富豪の篤志家ジョン・ポール・ゲッティ から5,000万ポンドの寄付を受け、有名な絵画の購入準備が整った。 しかしながら皮肉なことに、ナショナル・ギャラリーの絵画購入に極めて大きな脅威となったのは、ジョン・ポール・ゲッティの疎遠になった父親で同名のJ・ポール・ゲッティ がに設立した、潤沢な資金力を持つで、両美術館のこの関係は現在でも変化していない。 1985年には実業家でにも議席を持つ大富豪ジョン・セインズベリ と弟のサイモン・セインズベリ からの寄付で、セインズベリ棟がギャラリーに増設された。 1987年にギャラリー館長に就任したニール・マグレガー のもとでコレクションが再分類され、イーストレイク以来続けられてきた絵画の展示方法が変更され、絵画は年代順に配置された。 これは国別の特徴よりも、19世紀以降主流となった美術史観である、様々な文化がそれぞれに影響を及ぼし、交じり合っていく過程の重要性を強調する意図だった。 『』(1507年頃) 1999年にイタリア美術の専門家デニス・マホン からイタリアバロック絵画26点が遺贈された。 20世紀初めごろにはは不当に低く見られており、1945年にはギャラリー評議員会は、バロック期イタリア人画家の絵画を、わずか200ポンドで売却したいというマホンからの申し出を断っている。 しかし2003年にその絵画には400万ポンドの価値があるとされた。 マホンのコレクションは、ギャラリーがそれらの絵画を売却することも、観覧者から入場料をとることもないという条件の下で遺贈されている。 アソシエイト・アーティスト 1989年 - 1990年 ケン・キフ 1991年 - 1993年 ピーター・ブレーク 1994年 - 1996年 アナ・マリア・パチェコ 1997年 - 1999年 2000年 - 2002年 ジョン・ヴァーチェ 2003年 - 2005年 アリソン・ワット 2006年 - 2008年 マイケル・ランディ 2009年 - 1989年以来、ナショナル・ギャラリーは現代芸術家たちにアトリエを提供し、ギャラリーでの常設展示を前提とした作品制作を促進している。 選ばれた芸術家は通常2年間「アソシエイト・アーティスト」と呼ばれる立場に任ぜられ、在任期間の最後にナショナル・ギャラリーで個展を開くことができる。 ナショナル・ギャラリーと、もともとナショナル・ギャラリーの分館として設立され、1955年に独立組織となったテート・ギャラリーとの権限、役割分担は長期間あいまいになっていたが、1996年に明確に定義された。 1900年以前の絵画をナショナル・ギャラリーの所蔵とすることが決定し、それまでナショナル・ギャラリーが所蔵していた60点以上の1900以降の絵画がテート・ギャラリーへと移管され、テート・ギャラリーからは返礼としてらの絵画がナショナル・ギャラリーに移されている。 しかしながら、今後ナショナル・ギャラリーが増築されてスペースに余裕ができれば、これらの絵画が再度ナショナル・ギャラリーに戻ってくる可能性もある。 21世紀になってから、ナショナル・ギャラリーは絵画購入のために大規模な資金集めのキャンペーンを2度行った。 2004年のラファエロの『 』と2008年のティツィアーノの『 』で、『ディアナとアクタイオン』は、第7代サザーランド公フランシス・ロナルド・エジャートン から、5,000万ポンドでと共同購入した。 さらに両美術館は、エジャートンのコレクションから『ディアナとアクタイオン』と一対となっているティツィアーノの『 』についても2012年に購入を予定している。 現在のナショナル・ギャラリーは価格が暴騰しているオールド・マスターの絵画を単独で購入できるだけの資金力はなく、広く公衆に呼びかけて資金協力を求めないとそのような絵画を購入することはできない。 2007年に当時の館長だったチャールズ・ソマレス・スミス は、この状況に対する失意を表明した。 ギャラリー [ ] ナショナル・ギャラリーの1階平面図。 増築された箇所が年代別で色分けされている ウィリアム・ウィルキンスの設計 [ ] チャリング・クロス王室厩舎跡の広場(後のトラファルガー広場)にナショナル・ギャラリーを建設するというアイディアは、当時ので後の国王から、王室厩舎跡を再開発するへの参加を命じられたから来ている。 当時広場の中心部にはを模したが建てられていた。 景気後退によってこのときの構想は挫折したが、コンペティション自体は1831年まで継続されており、ナッシュはチャールズ・ロバート・コックレル を副建築士とした設計書を提出した。 しかしながら当時のナッシュの名声は低下しており、ナショナル・ギャラリーの設計は、ウィリアム・ウィルキンス に任せられることになる。 ウィルキンスは建設用地の選定に関与しており、コンペティションの最後に数枚のドローイングを提出した建築家だった。 ウィルキンスは「歴史的な絵画を通じて次代の芸術家を育てる美術の神殿」を建てたいと考えていたが 、極度の資金不足と妥協を余儀なくされた結果、建てられたギャラリーはほとんど全ての点で失敗作と見なされてしまった。 ウィルキンス設計による1836年当時のナショナル・ギャラリーの1階と2階。 陰になっている箇所は1868年までロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが使用していた 限られた用地面積のために展示室は一列しか作ることが出来ず、ギャラリーのすぐ後ろには救貧院と軍隊の兵舎が存在していた。 そして、これらの施設へ向かう公衆通行権がギャラリー敷地内に設置されており、ファサード東西両側のの利用者のかなりの割合を占めたことも大きな問題となった。 ギャラリーの利用者と他の施設の利用者の流れを分けるために、移設のため取り壊されていたカールトン・ハウス に使われていた列柱を流用したが、ポルチコに使用されていた列柱とはスタイルが全く異なっており、さらにギャラリーの評価を下げる結果となった。 広場北部でもっとも威厳があり中核的な建築物という当初の目標とは全く異なるものとなってしまったのである。 また、ファサードの装飾に使用されていた彫刻も他から流用されたものだった。 もともとはナッシュがデザインした大理石の凱旋門マーブル・アーチ に使用される予定であったものが、経済的な問題でそのまま放棄されていた彫刻だった。 ギャラリー西半分は1868年までロイヤル・アカデミー・オブ・アーツが使用しており、スペースに余裕のないギャラリーをさらに手狭にしていた。 ギャラリーは建物完成以前の、そのデザインが文芸雑誌『リテラリー・ガゼット 』誌にリークされた1833年以来冷笑の的となっていた。 ギャラリーが完成する2年前の1836年に『コントラスツ』誌の口絵に悪名高い「胡椒壺 pepperpot 」の正面図が掲載され、が古典建築の堕落と紹介したことが大きく広まり、悪影響を及ぼしたこともある。 イギリス国王もギャラリーを「薄汚く、小さく狭苦しい穴ぐら」と呼んだ記録が残っており 、小説家は「ちっぽけなジン売り場」と評した。 20世紀の建築史家ジョン・サミュエルソン はこのような先人たちの意見に賛意を示し、ギャラリーの半円形のドームと屋根の輪郭線に沿った2本の小さな小塔との配置を「暖炉に置かれた時計と花瓶で、何の役にも立っていない」と酷評した。 建築家チャールズ・バリー が1840年から開始したトラファルガー広場の改造案にはギャラリーの北側テラス改築も含まれており、不評の原因の一つを解決し、ギャラリーの評価を高めようとする計画があった。 ギャラリーに関する様々な悪評は、1894年にがウィルキンス設計のファサードを、当時提案されていた増築計画(後のセインズベリ棟)のデザインと対比して「大好きな優雅な友人」と語って以来大幅に緩和された。 ペネソーン、バリー、テイラーによるギャラリーの増築 [ ] バリー・ルーム(1872年 - 1876年)、E. バリー設計 ナショナル・ギャラリーが最初に増改築されたのは1860年から1861年にかけてで、建築家ジェームズ・ペネソーン による改築だった。 ウィルキンスの設計よりも凝った装飾がなされたが、改築前のエントランス・ホールに比べ、窮屈感はよりいっそう悪化してしまっている。 当然、ギャラリーを完全に建て替える(1853年のチャールズ・バリー )、環境のいいの収容能力の高い施設にギャラリーを移設するなどといった提案もあった。 1867年にチャールズ・バリーの息子の建築家エドワード・ミドルトン・バリー が、4つのドームを持つ大規模な古典的建物にギャラリーを建て直すという設計案を出した。 しかしこの構想は受け入れられず、当時の評論家にその外観は「のデザインからの盗用」として非難されている。 ステアケース・ホール(1884年 - 1887年)、ジョン・テイラー設計 しかしながら、ギャラリーのすぐ背後にあった救貧院が取り壊されることになり、ギャラリーを増築する建設用地に余裕が生まれた。 そして、バリーが1872年から1876年にかけて、最初に大規模なギャラリーの増改築を担当することになった。 色鮮やかな でデザインされており、バリー・ルームと呼ばれる大きな八角形の部屋を中心としたギリシア十字を模した設計となっている。 悪評高かったウィルキンス設計のギャラリーを補ったバリーの増築だったが、ナショナル・ギャラリーの職員からの評価は低かった。 壮大な外観はギャラリーの本来の目的である絵画を展示する場所という機能とは相いれず、さらに室内を飾り立てることが将来の絵画購入資金を圧迫すると考えられたのである。 例えば、15世紀から16世紀のイタリア絵画が展示されていた部屋の天井には装飾や天井画ではなく、19世紀のイギリス人芸術家たちの名前が彫られていただけだった。 このような不評もあったが、バリー・ルームはギャラリーの展示計画の中心となった。 バリーのデザインは、その後の数世紀にわたるギャラリー増改築の際に踏襲され、その結果現在のナショナル・ギャラリーは全体として調和のとれたデザインとなっている。 ペネソーンが増築したギャラリーは、ジョン・テイラー が中央エントランスから北へギャラリーを増築する際に取り壊されている。 ガラスのドームを持ったエントランスホールは、以前バリー・ルームの装飾も手がけたインテリア・デザイナーのジョン・ディブリ・クレイス が天井画を描いている。 南側の壁に絵がかかれる予定だったは完成しておらず、現在のその壁にはフレデリック・レイトン が所有していた、ゴシック期イタリア人画家の絵画が、1990年代から王室コレクションより貸与されて飾られている。 20世紀の近代化と修築 [ ] ナショナル・ギャラリーの鳥瞰画像(2006年4月) ギャラリー西側への増改築も徐々に行われていたが、バリーが東側に増築したギャラリーのデザインを踏襲し、全体としての統一性を持たせることを主目的としていた。 バリーのデザインと同様にエントランスの戸枠には暗色の大理石が使用され、内装もバリー・ルームと整合性が取れるように増築されている。 古典的様式は引き続きギャラリーの増改築に使用されており、1920年代にも画商ジョゼフ・デュヴィーン の寄付によって、のギャラリーが増築されている。 しかしながら、への過度な感傷に対する反発が、ギャラリー内部でも高まってきた。 1928年から1952年にかけてテイラーが設計したエントランス・ホールの床が、と親しかったロシア人芸術家ポリス・アンレプ が制作したで敷き替えられている。 これはに施された凝ったパルナッソス・フリーズ に代表されるような、公衆の建築物の装飾における19世紀の伝統的慣例への皮肉であると読み取ることが出来る。 「ミューズの目覚め」が表現されたモザイクの中心部にはイギリス人女流作家、スウェーデン人女優の肖像があり、ヴィクトリア朝の先人たちの高尚趣味を覆している。 アンレプはキリスト教的七つの美徳の代わりに、自身が考える「現代の美徳」を描き出した。 それは「ユーモア」や「偏見のない広い心」などであり、これらを示す寓意として、ウィンストン・チャーチル、、らの肖像が使用されている。 20世紀になって、ギャラリーのヴィクトリア朝後期のインテリアは、多くの評論家から支持されなくなっていった。 クレイスが描いたエントランス・ホールの天井画は、1916年に館長に就任したチャールズ・ホームズ の趣味に合わず、白い塗料で塗りつぶされた。 1975年に改築された北ギャラリーは、ナショナル・ギャラリーで採用された初めてのという点で意義がある。 これ以前に建てられた展示室ではオリジナルの古典的装飾が、間仕切り、壇、吊り下げ式天井板などの設置のために取り除かれていた箇所もあり、新設された展示室は絵画に対する集中力をそらさないことを目的とした、無個性の内装が施されていた。 しかしナショナル・ギャラリーのモダニズムに対する傾倒は短かった。 早くも1980年代にはヴィクトリア朝様式は忌み嫌われてはいないとして、元通り19世紀から20世紀の内装に戻すことを目的とした修復計画が始まっており、同時にバリー・ルームも1985年から1986年にかけて改修されている。 1996年から1999年には北ギャラリーも「優れた建築的特徴が欠けている」とされて、簡素化はしているものの古典的様式に改築された。 セインズベリ棟 [ ] トラファルガー広場側から見たセインズベリ棟 近年ナショナル・ギャラリーに加えられた増改築でもっとも重要な建物はセインズベリ棟である。 アメリカ人建築家と北ローデシア出身の建築家デニス・スコット・ブラウン がで設計し、ルネサンス絵画を展示するギャラリーとして1991年に完成した。 ギャラリー本館の西に位置し、第二次世界大戦時にで破壊されるまではデパートが建っていた場所である。 ナショナル・ギャラリーはこの場所にギャラリーを増築する計画を長くもっており、1982年になってギャラリーのコンペティションが開かれた。 参加した建築家には過激なを提案したたちも含まれている。 もっとも多くの支持を受けたのはアーレンズ・バートン・アンド・コラレク建築事務所 が提案したデザインで、のちにその提案にロジャースの提案によく似た塔を追加している。 このデザインは王太子チャールズの「好ましい優雅な友人の顔にできた醜悪な吹き出物」という発言が原因で評価が下落している。 この「醜悪な吹き出物」という表現は、周囲の景観を破壊する現代建築を表す言葉として常用されるようになっている。 1982年のコンペティションにはいくつかの提案条件があったが、そのなかに新築する棟には展示場所のほかに実務オフィスも含むことという項目があった。 しかし1985年に、ジョン 、サイモン 、ティム のセインズベリ兄弟から5,000万ポンドの寄付があり、新築する棟は全て展示空間に充てることが可能となった。 その後非公開のコンペティションが開かれたが、提案されたデザインは以前のものと比べてはるかに地味なものばかりだった。 豊かな装飾が施されていたギャラリー本館と比べて、セインズベリ棟の展示室の装飾は最小限でくつろげる場所となっており、小規模な絵画を展示するのに相応しい雰囲気になっている。 これらの展示室は18、19世紀のイギリス人新古典主義建築家が設計したと、ルネサンス期イタリア人建築家がデザインした教会内装飾からの影響を強く受けている。 セインズベリ棟最北端の展示室は、バリーがデザインしたギャラリー本館東の十字形の展示室と一直線に並んでおり、ギャラリー全体を端から端まで見通せる設計になっている。 トラファルガー広場が歩行者専用区域に指定されて以来、ナショナル・ギャラリーは現在ギャラリー1階にあるオフィスをギャラリー外に移設する計画を進めている。 この計画は現在使用されていない中庭と、隣接するから2000年に譲渡された土地の有効活用を意図したものである。 計画の第1段階として、ジェレミー・ディクソンとエドワード・ジョーンズ がデザインした「イースト・ウィング・プロジェクト」が2004年に完成した。 このプロジェクトによってギャラリー東に新しく設置された、トラファルガー広場に面した新しいエントランスは、ナショナル・ギャラリーに金銭面で多大な貢献をしたポール・ゲティにちなんで名づけられた。 中央エントランスも修復され2005年9月に公開されている。 今後の計画には「ウェスト・ウィングプロジェクト」もあり、「イースト・ウィング・プロジェクト」と同様な新しいエントランスと、さらに小さな展示室が予定されている。 ギャラリー東側のファサードに新しく半円形の階段が設置される可能性もあるが、これら新しいプロジェクトの予定は未だ公式には発表されていない。 絵画修復と作者の特定を巡る論争 [ ] 1847年に『』誌に掲載されたジョン・リーチ の風刺画。 修復を巡る論争が終わらない様子を揶揄している 建物に関するものを除いて、ナショナル・ギャラリーに対してもっとも長く続いている批判は絵画の保管方針である。 とくに絵画の修復時に過度なまでに手を入れているという非難が多い。 ナショナル・ギャラリーが最初に絵画修復を手がけたのは、イーストレイクが絵画管理者に任命された後の1844年だった。 このときに修復対象となったのはルーベンス、、ベラスケスの絵画で、修復後の1846年に公開されたが、マスコミから大きな批判を浴びている。 もっとも激しくナショナル・ギャラリーを攻撃したのは『』誌に連載を持っていたJ・モリス・ムーアで、「Verax」というペンネームを用いてナショナル・ギャラリーの絵画修復が粗雑すぎると激しく批判した。 1853年には議会の小委員会が開かれ、ナショナル・ギャラリーの修復手法に問題がなかったどうかの調査が行われている。 『』(1523年 - 1524年) ティツィアーノ 1967年から1968年にかけてナショナル・ギャラリーで修復が実施されたが、絵画全体のバランスを壊したと批判された ナショナル・ギャラリーの絵画保管について、第二次世界大戦集結直後に大きな議論が巻き起こった。 主任修復家ヘルムート・ルヘマンが、第二次世界大戦中に絵画が保管されていた採石場での管理が適切だったかどうかについて疑義を呈したのである。 そしてルヘマンによる戦火の汚れを洗浄修復された絵画が1946年に再公開されているが、大戦前に公開されていたときの絵画とは状態が異なっているのではないかという声が上がった。 主な批判点は絵画を覆っていたの除去に対するもので、このワニスは19世紀に絵画表面を保護する目的で塗布されたものだったが、経年変化で黄ばみ、オリジナルの彩色を見えなくしてしまっていた。 しかしワニスを除去したことによって全体の調和が損なわれ、画家たちが自身の作品に与えていた艶までも除去されてしまったと批判された。 ヘルムートの修復手法に対しての異議を主導したのはロンドン大学の付属機関教授の美術史家で、後にナショナル・ギャラリーからの書簡がいかに攻撃的で傲慢なものだったのかを暴露した。 ナショナル・ギャラリーは、絵画の作者特定の点でも批判されている。 1939年に当時の館長ケネス・クラークは、ギャラリーが所蔵する作者不明の一連のヴェネツィア派絵画を、その作品数の希少性で大衆の関心を集めていたルネサンス期イタリア人画家の作品であるとした。 しかしこの作者特定は誤っており、クラークとギャラリーの学芸員の評価を落としている。 近年では1980年に購入した17世紀の絵画『サムソンとデリラ』をの作品としているが、多くの美術史家はこの作品はルーベンスではないと考えており、ナショナル・ギャラリーは間違いを認めたくないだけだとしている。 彫刻、工芸品は、西洋以外の美術品、版画、ドローイングは、近現代の絵画はが主に所蔵している。 ナショナル・ギャラリーにはイギリス絵画もあるが、主要なコレクションはが所蔵している。 現在のテート・ブリテン()はナショナル・ギャラリーの分館ではなく、独立した美術館となっている。 詳細は「」を参照 d. ギャラリー東側にあったセント・マーチン救貧院はバリーがギャラリーを拡張する際に取り壊されているが、兵舎は1911年までトラファルガー広場での争乱を鎮圧するための軍隊宿舎として存在していた , 401。 中央エントランス上部の2体の女性像と東側ファサード上部のミネルヴァ像に使用されている。 出典 [ ]• The Art Newspaper. 2017年10月16日閲覧。 The National Gallery. 2011年7月5日閲覧。 , 7• Chilvers, Ian 2003. 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『ロンドン・ナショナル・ギャラリー展』オンラインガイドツアー公開

ロンドン ギャラリー

日時指定入場券を購入する• 展覧会の会期末は避ける• 平日は午後の 15時以降の遅い時間がおススメ• 毎週金・土曜日の夜間開館時間( 17時以降)を狙う こちらの展覧会は、混雑緩和のために 「日時指定入場券」を導入しているため、 確実に入場するためには必須アイテムと言えるでしょう。 また展覧会が始まった6月18日(木)~21日(日)の間は、前売券や招待券持参者、無料観覧対象者のみしか入場できなかったのですが、それでもかなりの混雑、長蛇の列などがありました。 実際に、開催直後の混雑状況をご紹介しますね! 西美のロンドンナショナルギャラリー展、今日からだけど長蛇の列だ…整理券配布してるけど… 中は混んでないのかな — しらす2 pdb0203 ロンドンナショナルギャラリー展 朝6:00起きで来た!! もう見れないかと思ってました。 — bakera byutan 待ちに待ったロンドンナショナルギャラリー展。 オープンから4日間は前売券、招待券限定入場期間ということで、国立西洋美術館へ。 整理券もらうまでの待機時間は小一時間だったけど、大雨辛かった💦人数を仕切っての入場だったので、ゆっくりゆとりもって観覧できてよかった👍 — ふみまる fumimaru0112 ロンドンナショナルギャラリー展、みてきた~! 雨だし平日だし夜間開館日だし、整理券チャレンジしよ~と九時すぎに並びはじめ、三十分くらいで整理券ゲット。 わくわくしながら近くのカフェで文庫本を読みつつ時間を潰した。 11時半だと整理券の列全然なかったなぁ。 場内はそこそこ密な気がした。 また 整理券も配布枚数に限りがありますので、 必ず希望した日に行けるとは限りません。 しかも、混雑緩和のため、 これから購入するチケットはすべて入場日・入場時間を指定してしなければなりません。 そのような日時指定のない 「前売券」や「招待券」をお持ちの場合、入場するには2通りの方法があります。 できたらお得に鑑賞したいけど、どっちで行ったらいいの? 整理券について 整理券については、混雑状況によって配布があったり、なかったりということで、 平日や週末の午前中など人気の時間帯を避ければ、整理券なしで入場できそうです。 グッズ一覧• A4 クリアファイル• 一筆箋• 署名トートバッグ• シェニール織タオル• マルチクリーナー• すみっコぐらし てのりぬいぐるみ(全5種)• パディントン ベア マスコット(ひまわり)• 和田ラヂヲ コラボTシャツ(ひまわり/ゴッホの自画像)• 和田ラヂヲ コラボマグカップ(ゴッホの自画像)• — 2020年 1月月8日午前2時27分PST なかなかイギリス国外でこれだけの作品数を直接目にすることができませんので、一度は私も見に行ってみたい!と思う展覧会ですね。 ロンドンナショナルギャラリー展の音声ガイド もう一つの見どころ?としては、 古川雄大さんによる音声ガイドです。 いろいろと調べてみましたが、 所要時間は おおむね2時間前後という意見が多かったです。 平日なら日時指定なしの方が気軽に行けるかなあ。 もう少し安くチケットを手に入れたい場合は、や、などのオークションでも出品されてことがありますので、チェックしてみると良いですよ! 一番安い駐車場は? 国立西洋美術館には、専用のはありません。 公共交通機関を利用するか、近隣のを利用するしかありません。 整理券配布についても! 」と題してお送りしました。 ロンドンナショナルギャラリー展の 混雑を回避するポイントは以下の通りです。

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