弘前 ねぷた。 ねぷたの製作

弘前ねぷた本|公益社団法人 弘前観光コンベンション協会

弘前 ねぷた

ねぷた囃子の大合奏で笛合同演奏者数ギネス記録更新を達成! 歴史と文化に溢れる街・津軽で永年に渡り伝え受け継がれてきた郷土芸能「ねぷた囃子」。 3,742名の演奏で見事ギネス記録更新を達成したイベント当日の模様を中心とした、当実行委員会制作の公式動画を配信しております。 津軽が熱狂と歓喜に包まれた、あの夏の感動を想い出させるドキュメンタリー映像です。 津軽が、ねぷた囃子が世界一になった瞬間をぜひご覧ください! 動画は、動画配信サイト「Youtube」にて公開しております。 動画は(Youtubeサイトへジャンプします)。 閉店案内用「蛍の光」を津軽の囃子で制作しました! 2011年、見事に笛合同演奏ギネス記録を達成した津軽の横笛を、津軽を訪れる方や地元の方々にもっと味わってもらいたい、という想いから、当実行委員会では店舗の閉店時によく使用される「蛍の光」を津軽の囃子で演奏した「津軽の囃子版 蛍の光」を制作し、この音源を弘前市内の店舗に無償配布することにしました。 曲中には、外国語や津軽弁による閉店案内用アナウンスも収録しています。 「津軽の囃子版 蛍の光」は当ウェブサイトからも無料でダウンロードすることができますので、ぜひご活用ください。 「蛍の光 津軽の囃子版」についての詳細は 大人も子どもも、世代や地域を超えて囃子方が津軽に集結!! 今回の「ねぷた囃子でギネスに挑戦」では、津軽各地域をはじめ、県内・県外の多くの方々にご参加・ご協力頂き、ギネス記録更新を達成することができました。 ねぷたを、囃子を、そして津軽を心から愛し参加・協力して頂いたすべての皆様、本当にありがとうございました。 このプロジェクトでは津軽の小・中・高校等の学校や各種団体に、塩ビ管で制作したねぷた笛の寄贈や練習用DVDの寄贈、ねぷた囃子の講習会の開催などを行い、その結果、イベント当日は、多くの子どもたちが参加してくれました。 「次世代ねぷた笛伝承プロジェクト」については 公式ブログで、ねぷた団体を紹介!「突撃!隣のねぷたさん」 「ねぷた囃子でギネスに挑戦」では、多くの「ねぷた団体」の方々にご参加・ご協力頂きました。 そこで皆様に各「ねぷた団体」の方々の、ねぷたにかける想いを広く知って頂こうと、公式ブログにて、弘前市の主な「ねぷた団体」をご紹介しています。 ガイドブックには載っていない、「ねぷた団体」の生の声。 どうぞお楽しみください。

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ねぷた囃子でギネスに挑戦公式ウェブサイト 弘前城築城400年記念事業

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これはこの弘前でも昔から行われていた習俗の一つでした。 その際、燈火なども用いられていましたが、江戸時代に入り燈籠などが用いられ、徐々に手が込んできて大掛かりな美麗なものへと進化し、そして現在の「ねぷた」へと進化してきたといわれています。 【伝説】平安時代初期、征夷大将軍・坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折、敵をおびき出すために大きな人形を作った。 (1750年ごろから言われているとされます) 【伝承】1593(文禄2)年7月、藩祖・津軽為信が、京都の盂蘭盆会(うらぼんえ)での趣向として大燈籠を作らせた。 六日 四半過 織座江 被為成候 御供廻り 例之通 於同所 祢ふた 高覧 被遊候 祢むた 罷出候 順 左之通 一番 本町 親方町 鍛冶町 弐番 茂森町 三番 土手町 四番 東長町 本寺町 五番 和徳町 六番 紺屋町 七番 亀甲町 田茂木町 八番 荒町 右之通 祢むた流 紺屋町より 春日町江 罷通候 屋形様 夜五時過 被遊 御帰城候 「祢むた」あるいは「祢ふた」と記載されているのは、当時「ぷ」という半濁音の表記がなかったためで、当て字をしたといわれています。 尚、四半過(AM11時)から夜五時(PM8時)まで9時間も殿様がご覧になったというのですから、多数の立派な燈籠であったことが想像できます。 実はその2年前の1720(享保5)年7月6日の「御国日記」には、津軽信寿公が夜、報恩寺で「眠流」を高覧したと記載されています。 夜ですから燈籠であったと推測されます。 今晩 於同所 眠流 被遊高覧候 この記載は享保7年のそれとは違ってわずか12文字の表記ですので詳細はわかりません。 2年後の「祢ふた流し」と同様なものなのかどうかわかりません。 ただ、当時の報恩寺境内は藩主の廟地であり、町人はもちろんのこと御家中も格式高いものしか入れないことから2年後のそれとは趣向の異なるものだったのかもしれません。 この行事を観て、いたく感動した津軽信寿公が、参勤交代から戻った2年後の1722(享保7)年に、藩主の命ということで、大々的に12の町会に「祢ふた流し」をするよう町衆に促し、それを高覧したというのがねぷたまつりの始まりかもしれません。 尚、この「祢ふた流し」とは水辺に流すのではなく、町内を練り歩くことになります。 (以上、松木明知氏著を参照) 現在でも運行そのものに重きが置かれ、元来の悪霊を流すといった行為は衰退していったのはこの頃が始まりなのかもしれません。 彼は茶道のみならず神学・兵学・儒学にも通じていたといわれ弘前に大きな影響を与えたとされています。 道玄は1700(元禄13)年、養蚕業の普及や絹織物を広めるべく京都から職人を招いています。 数年間で80-90人の京都人を連れてきているそうで、その職場が紺屋町の織座だったのです。 彼らは京都の風習である盆燈籠のために、盂蘭盆に燈籠をつくり、それを門前に飾ったと思われます。 そして燈籠を飾る時期がねぷた流しの時期とちょうど重なるために、織座の人たちはこの燈籠をねぷた流しで持ち歩く明かりの代わりに使うようになったのではないかと推測されます。 信政公のお声がかりではじめられたこのお祭りでは、城内、町中を踊り練り歩いたとされています。 1705年には、若様(信寿公)が御覧ということで4台の山車が出ていたようです。 (田澤正氏著より一部参照) このようにして山車をして練り歩くという文化が1600年後半から1700年前半に根付いていったものと思われます。 また、山車の華やかさを町内の豪商らが競ったのではないでしょうか。 1728(享保13)年、1739(元文4)年には「祢ふた流し」中の乱暴を禁ずるお触れが出たと御国日記に記載されています。 さらに1748(延亨5)年には「祢ふた流し」中の喧嘩口論を禁じ、「祢ふた流し」も7月6日のみに限定したと記されています。 町人のねぷたは役人の手に負えないくらい賑わっていたということでしょうか。 1775(安永4)年にはついに御家中が町人に刃傷ばたらきを起こし、翌年には「祢ふた」の運行は町内限りと規制しています。 町印などを他町に持ち込み、「祢ふた」同士が道で対峙した際に口論の火種が飛び散ったのだと思われます。 さかのぼること1764(明和元)年には御家中が「祢むた」をすることを禁じており、町人と御家中の子供は認められていたようですが、お触れはよくよく破られていたようです。 (田澤正氏著より参照) (比良野貞彦著 「子ムタ祭之図」「奥民図彙」天明8年(1788年)国立公文書館内閣文庫蔵) 10人くらいで担がれた燈籠には七夕祭、織姫祭、二星祭などの大きな文字が描かれており、側面には石打無用という文字も見られます。 現在のように三国志や武者絵といった描写はありませんし、太鼓やお囃子もみられません。 運行は弘前八幡宮の祭礼にならい、町内ごとで運行され、照明はロウソクでした。 ここに1683年依頼の弘前八幡宮祭礼、眠り流しが融合した様子がわかります。 1793(寛政5)年、大型の「ねふた」が出陣します。 幅一丈八尺(5m40cm)、高さ五間(9m)の額だそうです。 (「封内事実苑」と「本藩明実録」より) 1801(寛政13)年には「ねふた」の差し止め令(町内運行のみ可)もでています。 絶えない喧嘩が理由なのか、1797(寛政9)年からの松前へ警備兵派遣など藩政上の問題なのかは不明です。 弘前では、4万5千石から7万石、さらに10万石に昇格したことを機に、天守閣も再建され、城下は華やいでいました。 そして、その頃の町民には圧倒的な経済力があり、燈籠の大型化・人形化も行われました。 1813(文化10)年には「ねふた」は3尺以下、太鼓は1尺以下の大きさとし、太鼓はねふたに同行でなければ罰せられるというお触れが出ています。 このようなお触れが出るということは大衆化し定着していたことの表れです。 (「御国日記」) 1828(文政11)年、津軽信順公は金木屋の出した「人形祢ふた」をご覧になっています(「封内事実苑」より)。 町人文化が発達した時代、町人らの様々なアイディアがねぷたにとりいれられたのでしょう。 1829(文政12)年には遂に、津軽信順公の指示で3尺という大きさ制限もうやむやのうちに取り払われています。 取り締まる側の奉行も、規則はあれど、お屋形さまには逆らえず大変だったのではないでしょうか。 津軽信順公もまた、五代・津軽信寿公に負けず劣らずねぷたが好きのようで、「竹長屋」という御見物所を整備させています。 ここに人形ねぷたへの広がりと、再度の大型化が始まりました。 津軽信順公のねぷた好きが後世の弘前ねぷたに大きく寄与したのでした。 また、当初は単純な造りであった人形ねぷたも、徐々にその技術が高まり、やがては組ねぷたとなっていったのではないでしょうか。 江戸後期に描かれた平尾魯仙の「津軽風俗画巻」のねぷたまつりの様子を見てもわかるように、組ねぷたは4代藩主・津軽信政の時代、1682(天和2)年の弘前八幡宮祭礼の山車飾りの影響を受けて発達してきたものです。 台の上に組まれた「人形」、人形部背面の「見送り」と台部の「高欄」「蛇腹」「板隠し」「開き」「額」からなり、それらが互いに調和し、品よく迫力を感じさせながらも、華麗をさ醸し出しています。 写真:紺屋町 扇ねぷたが登場したのはその後の為、伝統のねぷた=組ねぷたといわれています。 その後、藩祖・為信の幼名「扇丸」と末広がりを意味した「開き」を応用して、扇ねおぷたが登場しました。 「額」の上に「開き」をつけ、それを扇と結合してできた新しい扇ねぷたは、ユニークであるとともに意外な新鮮さを感じさせました。 弘前は明治維新で混乱期に陥っていました。 そんな中、経費も手間もかかる組ねぷたよりも、斬新な扇ねぷたが数の上では祭りの主役の座を占めていったのです。 1980(昭和55)年弘前ねぷたは青森ねぶたとともに、重要無形民俗文化財の指定を受けました。 現在では扇の曲線や横幅も長い年月をかけて洗練され、バランスのとれた扇ねぷたと伝統ある華やかな組ねぷたが、津軽の短い夏の夜に悠々と城下町弘前を練り歩きます。 今でも、小扇や金魚ねぷたは見られますが、女の子が持つ巾着ねぷたはほとんど姿を消してしまいました。 金魚ねぷたが健在なのは、藩政期の津軽で飼育されていた「津軽錦(つがるにしき)」という金魚の形を模した歴史性と、人形ねぷたの骨組みの基本構造を示しているという製作技術面からの位置づけ、この2点の理由によると思われます。

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[広告] 前燈篭コンテストは、運行するねぷた団体が桜ミクをテーマに製作したねぷたを審査するというもの。 13団体が参加を発表。 審査はまつり1日目と2日目に行い、2日夜に結果を発表する。 1日は6団体が運行した。 「桜ヶ丘ねぷた愛好会」では小型ねぷたを作り、鏡絵(表のねぷた絵)と見送り絵(裏のねぷた絵)で表情の違う2種類の桜ミクを描いた。 「盟友會(めいゆうかい)」では桜ミクの組ねぷたを製作するなど、団体によって趣向の異なるねぷたを披露した。 2日に運行予定の「青柳ねぷた愛好会」はねぷた絵師・木村邦仙さんのねぷた絵を使ったねぷたで参加する。 ねぷた小屋では1日に届いたねぷた絵を急ピッチで貼り付ける作業が行われていた。 同団体は2016(平成28)年の漫画「ふらいんぐうぃっち」キャラクターねぷたコンテストでグランプリを受賞しており、今コンテストにも期待がかかる。 各団体の運行日は弘前観光コンベンション協会ホームページで確認できる。

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