フランス 革命 レポート。 緊急・フランス革命についてまとめています。

歴史の大学生向けのレポートの書き方について教えてください。西洋史のレ...

フランス 革命 レポート

「」から、世界は様変わりしたといいます。 どういう意味かというと、それは2点あって、まずひとつは「国は王家のもの」という考え方から、「国は国民のもの」という原則に切り替わったこと。 そしてもうひとつは、それ以前の時代においては「生まれ」や「身分」による差別は当然と考えられてきたが、その価値観が、によって転覆されてしまったこと。 要するに、でなおかつ平等なされた社会は、からスタートした、ということです。 最近、歴史を少し学んでみようと思って、何冊か歴史の本を手にとって読んでみています。 これは読む分には非常におもしろく、ドンドン自分の中に知識が入ってくるように感じます。 歴史は勝者によってしか書かれませんから、必然的に成功事例の集合体になります。 すなわち、歴史を学ぶことは成功事例を学ぶことなのです。 問いを立てながら歴史を読む しかし、最近では、歴史はただ読むだけでは8割損をしていると考えるようになりました。 以前まではただなんとなく読んでいて、物知りにはなっていったのですが、何か物足りない感じがありました。 そこで最近では、自分の疑問に思った点について、適当でもいいから問いを立てるということをしています。 ところで、問いを立てるとは一体どういうことか。 これは、別の似た言葉と対比することでわかりやすくなります。 「疑問」と「問い」とは何が違うのでしょうか。 「疑問」という言葉は、ただ「思う」だけであって、それ以上突き詰めない状態のことをいいます。 要するに、考えて、それ以上のことはしないわけです。 したがって、疑問は「感じる」といいますね。 一方で「問い」という言葉は、思うことはもちろんですが、立てた疑問に対して、自らアクションを起こして答えを出しにかかる作業のことをいいます。 疑問では「感じる」だけですが、問いは「立て」、それに対して答えを出すところまでするのですね。 歴史に対して問いを立てることは、それほど難しいことではないと思います。 たとえば、「はなぜ起きたのか?」とかんがえることも、ひとつの問いですね。 の後の社会的な影響はどうだったのでしょうか?あるいは、戦国時代での民衆の暮らしは、安定したものだったのでしょうか?戦時期の一般大衆の暮らしについてはとても気になるところですね。 このように、問いはいくらでも立てられるわけです。 そして、もしその視点を元に、歴史資料から自分で再構成を行ったとしたら、その視点の歴史ができあがると思います。 これは、歴史の良い点ではないでしょうか。 哲学や数学などでは「主観」によって理論が成り立つなど、まずありえない話ですからね。 結局とはなんであったか 結局とはなんであったか。 僕の解釈で、一言で表すとしたら、「一般大衆の熱狂が引き起こした誤解による悲劇」となります。 つまり、お互いの疑心暗鬼が生んだ悲劇だったということです。 国民と王室の間にきちんとした意思疎通のパイプがなかったから、お互いに胸中を推察でしか推し量ることができず、結果として誤解が誤解を呼び、その誤解によって最後まで行き着いてしまった革命だった、という評価をしています。 これは、あとで「との呑気さ」という問題に直結してきます。 は、「」などで妙に美談化されているような気がしますが、冷静に考えて、同じ時代に居合わせたとしたら絶対に遭遇したくはない出来事ですね。 なぜなら、国王が処刑されてから王妃が処刑され、さらにが実権を握るなどして、毎日のように人が殺されるからです。 そして、その殺された数も半端ではない。 また、公正な裁判がまったく成立しておらず、裁かれたらすぐに死刑という状況もまた、恐怖を覚えますね。 家から一歩たりとも出ないことが安全な時代なんて、僕は御免だからです。 更にいうと、はほかのヨーロッパ諸国から見れば大迷惑な事件なわけです。 こう言えるのは、バークの『に関する』という本を読んだからですが、バークを始めとするイギリスの議会の一部は、真剣にに対する対処について考えている。 なぜなら、バークらは、に触発されたイギリスの市民が、イギリス国内で革命を起こしかねないと考えたからなのです。 こういう点で、は、ほかのヨーロッパ諸国の上流階級から見れば迷惑以外の何者でもなかった。 もっとも、現代の日本において、そのような影響を心配する必要はあまりないかもしれません。 中国がたとえ革命を起こしたとしても、それはに対する革命であって、への革命です。 一方で、すでに日本はもうを果たしている。 隣国に触発されて日本国内でも革命が起こる可能性はそれほど高くはないかと。 ただ、をした場合どうなるかはわかりません。 あるいは、が失敗した場合もまた、どうなるかはわかりません。 は、にたんを発した革命でしたから、時代状況としては非常に日本と近いわけですね。 またさらに、陥っている状況も非常に現代日本と似通っている。 は、「国は国王のもの」という思想から、「国は国民のもの」という思想への転換期だった。 なぜ転換したかというと、ルイ王政の敷いていた政治体制が、もはや時代の潮流にあっていなかったから。 そして、これは日本にも似通っていますね。 現代の日本は資本主義というシステムを導入しているわけですが、資本主義の本質は「労働者の再生産」にあるわけです。 ところが、という現象によって日本では「労働者の再生産」が難しい状況になっています。 したがって、現行の資本主義のシステムは現代日本には少し時代遅れになりつつあると思います。 となると、ここまでの事実を考えると、前夜に非常に近い状況ではないでしょうか。 歴史は未来の人が決めますから、もし日本に革命が起きたとしたら、未来の人はこういう分析をするのではないかと思います。 と、ここまで見てきたところで、というイベントは、そんなに「昔の遺物」などではなくて、「現代でも十分起こりうるのでは?」という実感を持って考えられたと思います。 では、への問いについて、僕の考えたことを少しメモさせていただきたいと思います。 への一つの問い ここまで社会分析のようなことを書いてきましたが、僕のへの興味は、実は人にあります。 それは、とに対してです。 今回読んだ本『物語 』では、とマリーアントワネットについてよく取り上げられており、彼らのをそれなりに知ることが出来ました。 はとても冷静によく考えて行動するタイプの国王で、は想像通りの豪快さを持ちつつも、人生の後半においては、その豪快さに加えて冷静な状況判断力も身についてきたように思います。 これほどの資質をもった人たちであれば、革命期もそれなりに安全に切り抜けられたはずです。 しかし、実際にはふたりとも処刑されてしまった。 これはなぜかというに、とが国民や社会の潮流に対してあまりに鈍感だったからです。 これは、本書の中で何度も出てきた二人の欠点でした。 どうもプライドが高く、状況をゼロベースで考えようとしない。 で、なぜ「彼らは危機感を抱けなかったのか」というのが、僕の根本的な疑問なんですね。 だって、普通に考えて、外をちょっと見れば「あ、これはヤバイな」と気づくはずなんですよね。 少なくとも、今の日本のであれば、もし革命が起きて国民が反逆しようとしたら、お気づきになるはずなんですよ。 ところが、本の中では、革命の最後の方になって、自分たちの命が危ない段階になってもまだ、呑気なことをやってる国王と王妃の姿が描かれています。 「早く逃げろよ!」と、一般人の僕などは思ってしまうわけですが、そうは行きませんでした。 僕が思うに、の頑固さはよくわかるんです。 彼女は、それもの出身で、生まれた時から国を保持する立場にあった。 したがって、国民が何か戯言を言っている、くらいにしか思われなかったのはわかります。 ですが、に関しては、このことはなかなか当てはまらないんじゃないかと。 彼はなかなか切れ者だったようで、頭もよかった(と思う)。 したがって、国民が何を考えてるか?という思考ができたはずだったんですよね。 いまどきの言葉で言えば「相手の立場に立って考えられる」人だったはずなのです。 しかし、それができなかった。 それはなぜか?という問題ですね。 ひとつの仮説としては、「宮殿には情報が入りにくい状況だったのではないか?」というものが考えられます。 つまり、新聞やニュースが入ってこない状態だった。 当時はすでに風刺雑誌のようなものがあったようで、そこで実際にが散々な言われようをしているわけですから、そういうジャーナリズムは存在していたわけです。 しかし、それらはまず、宮殿に届かなかったのでしょう。 なんで、新聞を届けなかったんでしょうね。 これはひとつの疑問です。 もっとも、その当時の時代状況的に「王家は世間のことなど気にしない」というような暗黙のルールがあったのかもしれません。 あるいは、世間のことを気にしなさいというような教育を受けていなかったのかもしれません。 そうなってくると、一生「国民の皆様の為に」という感覚を持ち得ないわけですから、時の国民の動きに対して鈍感であったとしても致し方ないのかもしれません。 またもう一つの仮説としては、「革命の動き・国民の気持ちを意図的に見ないようにしていた」という点です。 少なくとも自分が国王だったとしたら、そういう現実逃避をしていたかなと思います。 しかしながら、にしてもにしても、革命後期で自分たちの命が危なかったとしても、どうも国民や身分の低い人達を見下していた節があります。 それは、を始めとする様々な自分たちよりも立場のだいぶ低い人達への態度にもあらわれているんですね。 この点から、意図的に見ないようにしていたというのは少し信ぴょう性が低く、むしろ、ただ単に国民をの如く、「なんかだから大衆はバカなんだ!!!」と考えていたような節を感じます。 革命後半になると、「国民は王政を廃止せよ!と求め、王政側はなどもってのほかだ!」という状況が訪れます。 完全に利害が対立しているんですね。 お互いに疑心暗鬼になるあまり、「疑わしきは罰せよ」の精神のもと、国王と王妃を処刑してしまったわけです。 これこそが、最大の悲劇でした。 yukisalto.

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フランス 革命 レポート

絶対王政の反発 15世紀のヨーロッパは、絶対王政というものが広がっていました。 フランスにおいてももともとは全国三部会というものが開かれていましたが、15世紀から絶対王政が中心となり、平民の意見に聖職者や貴族たちが耳を傾けるなどということが起こらなかったのです。 しかし、農業がうまくいかず、人々が食べるものに困り、国家として財政困難な状況に陥った時に平民から税金を取ろうとした貴族たちは平民から強い反発を受けました。 同時に特権階級にあった貴族からも税金を取ろうとし、貴族たちからも反発を受けたのです。 それによってフランス革命が起こり、絶対王政が廃止されました。 国王は王権を取り上げられ、共和政が訪れたのです。 絶対王政というシステムに反発が起こったからこそ、近代市民社会が訪れたのです。 啓蒙思想の広がり この頃のヨーロッパでは、ロックの抵抗権、モンテスキューの三権分立、ルソーの社会契約論という啓蒙思想が広がりつつありました。 つまり、人権という理論が出来上がりつつあったのです。 この啓蒙思想の広がりもフランス革命に大きな影響を与えたと言えるでしょう。 また、1789年にフランス革命が起こる直前、アメリカでは合衆国独立宣言というものが発布されていました。 これにもこの啓蒙思想というものが影響しており、この独立宣言もフランスの人権宣言に大きな影響を与えたと言えるのです。 この啓蒙思想の広がり、人権の広がりこそ、近代市民社会をもたらしたものと言えるでしょう。 ナショナリズムの誕生 もともと、この頃のヨーロッパは今のような国境線で分かれていたわけではありません。 例えば、今のドイツは神聖ローマ帝国の1部とプロイセンと王国の1部であり、今のようなドイツというものは存在しなかったのです。 また、自分はこの国の人間であるという国民主義の考え方も存在しませんでした。 しかし、第3身分であった平民が自分たちの生活を守るために立ち上がったことにより、ナショナリズムが誕生したのです。 まとめ いかがでしょうか。 この頃はフランスの啓蒙思想が発展していたことにより、人権というものが意識され始めた時代でした。 ですから、フランス革命だけが近代市民社会をもたらしたというわけではありません。 しかし、フランス革命は現代につながる重要なきっかけとなったと言えるでしょう。

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フランス革命とナポレオン時代を追う!【1】(全体編) 革命の意義と歴史的背景

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アンシャンレジームを風刺した画(第三身分者が聖職者と貴族を背負う) フランス革命は世界史上の代表的なであり、的なを変革して社会を樹立した革命である。 を通して、からまで戦争が波及した。 歴史家はフランス革命を世界史の中でもっとも重要な出来事のひとつであるとみなしている。 にのに対するの反抗に始まった擾乱は、から全社会層を巻き込む本格的な革命となり、政治体制は絶対王政から立憲王政、そして共和制へと移り変わった。 さらに1794年のののち退潮へ向かい、1799年にによるクーデターと帝政樹立に至る(の )。 一般的には、1787年の貴族の反抗から1799年のナポレオンによるまでが革命期とされている。 フランスの王政とが崩壊する過程で、諸特権が撤廃されて近代的が確立される一方、紙幣をめぐって混乱が起こった。 経緯・展開 [ ] 当時のフランスでは家であるやであるにより、が多くのに影響を与えた。 それに共感した国民が当時の社会体制()に対する不満を鬱積させた。 政府、特にはこれを緩和するために漸進的な改革を目指したが、特権階級と国民との乖離を埋めることはできなかった。 のを契機としてフランス全土に騒乱が発生し、第三身分()らによる国民議会()が発足し、革命の進展とともに絶対王政と封建制度は崩壊した。 革命の波及を恐れる各国の君主たちはこれに干渉する動きを見せ、反発する革命政府との間でが勃発した。 フランス国内でも、制度の見直し、ルイ16世の処刑などのの嵐、といった内乱、の、繰り返される、それらにともなう大量殺戮などによって混乱を極めた。 革命はのによるジャコバン派の粛清で転機を迎えたが、不安定な状況はのや、にフランス政府がとを結んで和解するまで続いた。 最終的な決着はの成立を待たねばならず、革命勃発より80年以上かかった。 その後、多くの国家がフランス革命時に掲げられた理念を取り入れている。 、など、フランス革命が生み出した制度も後世に受け継がれた。 革命前夜 [ ] 時代背景 [ ] ヴォルテール フランスでは、18世紀後半でもが唱えられ、ブルボン朝による絶対君主制の支配()が続いていた。 アンシャン・レジーム下では、国民は3つの身分に分けられており、第一身分である聖職者が14万人、第二身分である貴族が40万人、第三身分である平民が2,600万人いた。 第一身分と第二身分には年金支給と免税特権が認められていたのである。 一方での各国では、や、、論など理性による人間の解放を唱えるが広まっていた。 責任内閣制を成立させが起こりつつあった、自由平等をで掲げてを達成したは、他国に先駆けて近代国家への道を歩んでいた。 やでも、の枠を超えるものではなかったものの、政治に啓蒙思想を実践しようとしたが現れた。 アンシャン・レジームに対する批判も、やといった啓蒙思想家を中心に高まっていたのである。 深刻な財政危機 [ ] ジャック・ネッケル 1780年代、フランスでは45億(2017年時点の日本円で54兆円相当 )にもおよぶ財政赤字が大きな問題になっていた。 赤字が膨らんだおもな原因は、時代以来続いた対外戦争の出費と宮廷の浪費、時代の財務総監の開発バブル崩壊など、先代、先々代からの累積債務がかさんでいたことで、それに加えて新王ルイ16世が後述の財政改革の途中にへの援助などを行い、放漫財政を踏襲したことで破産に近づいた。 当時の国家財政の歳入は5億リーブルほどであり、実に歳入の9倍の赤字を抱えていたことになる。 そこで国王ルイ16世は、1774年にを財務長官に任命し、財政改革を行おうとした。 第三身分からはすでにこれ以上増税しようがないほどの税を徴収していたため、テュルゴーは聖職層と貴族階級の特権を制限して財政改革を行おうとした。 しかし貴族達は猛反発し、テュルゴーは十分な改革を行えないまま1776年に財務長官を辞任する。 ルイ16世は次に銀行家を財務長官に任命した。 ネッケルは反対の大きい税制改革よりも構造改革によるリストラと募債によって財務の改善を目指したが、失敗して赤字幅を逆に増やし、続いて免税特権の廃止によって税務の改善を図ったが、特権身分の反対にあってやはり挫折し、1781年に罷免された。 また大きな背景要因として、1783年にの地で起きていた噴火噴煙によるヨーロッパ全域での日照量激減によってもたらされた農作物不作が挙げられ、これは収穫量減少と飢饉を引き起こした。 これにより都市部への穀物供給は滞り、食糧事情を悪化させただけでなく、小麦の価格が前年に比べて4割も高騰し パンの価格の上昇による貧困を生み出した。 国庫収入も激減し、債務償還も暗礁に乗り上げた。 詳細は「」を参照 全国三部会の召集 [ ] ネッケルの後任財務長官たちも課税を実現しようとしたが(1783年、 - 1785年、)、特に貴族階級の抵抗で辞職に追い込まれ、、再び招聘されたネッケルは三部会の開催を就任の条件とした(参照:)。 は、 のみが課税の賛否を決める権利があると主張して、第三身分の広い範囲から支持を受けた。 国王は7月に全国三部会の開催を約束した。 翌1789年に各地で選挙が行われて議員が選出され、5月5日、で開会式が行われた。 国王は三部会を主導しての問題解決を目論んでいた。 しかし税の不平等負担への第三身分の鬱積はすでに頂点に達しており、複雑化・多様化した国内事情ゆえ、従来の身分制では問題を解決できなかった。 三部会が始まるとすぐに議決方法で議論が紛糾した。 特権階級である第一、第二身分は利害を同じにするためほぼ同じ意見を持っており、身分ごとに議決を行う方法を主張した。 つまり第一、第二身分の部会が同じ議決を行えば、第三身分の部会が否決しても、2対1で可決されるという方式である。 これに対し第三身分はすべての議員1人が1票を持つ、三部会合同の議決を主張した。 第三身分の議員の人数(621名)が、第一(308名)・二身分(285名)の合計よりも多かったことから、第三身分の総意が議決を決めるというわけである。 議決方法をめぐる討議は40日間も堂々巡りを続けた。 球戯場の誓い [ ] による『球戯場の誓い』 議論が進まないことに愛想をつかした第三身分の代表たちは、三部会に見切りをつけ、自分たちだけの議会「」を発足させる。 そしての室内球戯場に集まり、憲法を制定することと国王が国民議会を正式な議会と認めるまで解散しないことを誓った(・テニスコートの誓い)。 ただし、や一部の議員の中には、国王の承認なしに議会をフランスの代表とすることに懸念を示す者もいた。 第一身分、第二身分代表の中にも、アンシャン・レジームに無理があることを理解している者がおり、そうした者たちも国民議会に参加した。 国民議会との軋轢を避けたいルイ16世は、国民議会を正式な議会として承認し、王の説得によりほかの第一身分・第二身分の議員も合流した。 承認を得た国民議会はと改称して憲法制定に着手する。 内心では議会を承服しかねるルイ16世ではあったが、事態を収拾し、改革の芽を残すにはやむを得ない手段であった。 しかし特権貴族や王族はこれに反対し、第三身分に圧力をかけるため、軍隊をヴェルサイユとパリに集結させることを国王に強要した。 革命勃発 [ ] 詳細は「」および「」を参照 国王政府の軍隊集結によって緊張が高まるなか、に国民に人気のあったが罷免された。 これに怒った民衆は、、当時は火薬庫であったを襲撃した。 パリでの事件が伝えられると争乱はフランス全国に飛び火し、暴動を起こした農民たちが貴族や領主の館を襲って借金の証文を焼き捨てるという事件が各地で発生した。 これらの動きを受け、は8月4日に封建的特権の廃止を宣言し、にを採択した。 この時点ではまだ国王が者であり、法律の制定には国王の承認が必要であった。 しかしルイ16世は、民衆が主導する法令を拒絶し、これらの宣言を承認しなかった。 王妃が第三身分を侮蔑していたのをはじめ、国王の周囲は強硬派で占められていたのである。 政治的な混乱と前年の不作の影響でパリの物価が高騰しはじめると、、パリの数千の女性たちが武器を持って雨の中前の広場に集まり、ヴェルサイユ宮殿に乱入、国王と議会に食糧を要求した。 一部は暴徒と化したため、ルイ16世はこの圧力により人権宣言を承認し、彼女らに連れられてパリのに家族とともに移り住む。 これ以降、ルイ16世一家はパリ市民に監視されて暮らすことになる。 この時期の革命は、、らによって指導されていた。 市民軍は自由主義貴族のラファイエットを総司令官に任命し、、彼の提案により三色旗(現在の)が革命の旗となった。 ヴァレンヌ事件 [ ] ブルジョワに扮したルイ16世とその家族が逮捕される場面 革命勃発により、やなど特権階級の多くが国外へを始めていた。 、国王と民衆との仲介者であったミラボーが死ぬと、過激化する革命を嫌ったルイ16世は、マリー・アントワネットの愛人とされる貴族の助けを借り、王妃の実家であるへ逃亡しようと企てた。 、ルイ16世一家はパリを脱出するが、国境の手前ので国民に見つかり、6月25日にパリへ連れ戻される。 この事件はフランス国民に衝撃を与え、同時にルイ16世の反革命思考が暴露される。 革命の波及を恐れるオーストリアととがを発表し(8月27日)、ルイ16世の地位を保証しないと戦争をしかけると脅したため、ルイ16世は国王に留まることとなった。 しかし、それまでは比較的多数を占めていた国王擁護の国民からの支持を失った。 9月、正式にが制定された()。 この憲法は君主制のもとで、平民であっても一定以上の税金を納めたものには選挙権を認めた。 10月になると最初の選挙が行われ、新しい議会「」が成立した。 立法議会では、立憲君主制を守ろうとすると、を主張するの2派が力を持った。 ジロンド派は裕福な商工業者をはじめとした上層・中層の市民()を支持層としていた。 革命戦争と8月10日事件 [ ] 詳細は「」を参照 ピルニッツ宣言や王党派亡命貴族(エミグレ:移民という意味)による扇動活動は、革命政府に対する重大な脅迫であると受け止められた。 ジロンド派内閣は革命維持のため対外戦争に踏み切る。 4月、革命政府はオーストリアに対して宣戦布告し、が勃発した。 しかしフランス軍の士官たちは貴族階級のため革命政府に協力的ではなく、フランス軍は各地で戦いに敗れた。 マリー・アントワネットは敵方にフランス軍の作戦を漏らしていた。 プロイセン軍が国境を越えてフランス領内に侵入すると、政府は祖国の危機を全土に訴え、それに応じてフランス各地で組織されたたちがパリに集結した。 このときの義勇兵が歌っていた歌『』はのちのフランス国歌となった。 パリ市民と義勇兵は、フランス軍が負ける原因はルイ16世とマリー・アントワネットが敵と内通しているからだと考え、にテュイルリー宮殿を攻撃し、王権を停止して国王一家を全員に幽閉した()。 この事件の際、テュイルリー宮殿において国王一家の身辺警護を行っていたは、ルイ16世から民衆への発砲を禁止されたためにその多くが民衆に虐殺された。 スイス衛兵隊以外にも一部の貴族や兵士が国王一家の身を守るために奮戦したが、その中にはや、 ()、など、のちのにおいて指導的役割を果たす面々が含まれていた。 その後、の演説をきっかけに、9月2日から反革命派狩りが行われ、数日間にわたる虐殺が行われた()。 フランス軍は(9月20日)を期に反攻に転じ、敵軍を国境外まで押し戻した。 この過程で、義勇兵に参加した多くの下層民階級()の政治的発言権が急速に増大した。 サン・キュロットは急進的政策を掲げるを支持し、革命は極左化していった。 ジャコバン派には、、、らが所属していた。 このときの革命戦争の開始にともなうアシニア(Assignat)紙幣(教会の土地などを担保とした不換紙幣)の増発(額面の57パーセントに急落)は、のちに1794年の最高価格令廃止とともに発生した急激なインフレーションの一因となった。 一方、農業により、全ヨーロッパのの半分以上をしたやの栽培により、フランスに多大な利益をもたらしていたののでは、人権宣言によって(白人と黒人の)の自由人に選挙権が認められるか否かをめぐって現地の白人 [ ]とムラートの間で抗争が発生していた。 1791年8月22日にの高僧 ()が黒人奴隷を率い、解放を求めて反乱を起こすと、サン=ドマングは、の介入を招いて大混乱に陥った。 混乱するサン=ドマング情勢の最中、フランスのは1792年4月4日に有色人自由人の平等を決議し、ムラートを味方につけようとしたが、植民地の大多数を占めた黒人奴隷の不満は収まらなかった。 共和政の成立 [ ] ルイ16世の処刑 9月、1年前に制定されたである「1791年憲法」に基づいていた立法議会が廃止された。 そして財産や納税額によらずすべての男子に選挙権が与えられるが制度化され、選挙によって新しい議会「」の議員が選ばれた。 、国民公会は、王政廃止との樹立を宣言した。 これにより「1791年憲法」はわずか1年で廃止された。 共和政府はルイ16世を革命裁判にかけた。 国王が戦争の際にフランス政府と国民を裏切っていた証拠が数多く提出され、の国民公会は賛成387対反対334でルイ16世の死刑を議決した。 、2万人の市民が見守るなか、ルイ16世はパリの革命広場(現在の)でによって処刑された。 10月にマリー・アントワネットも、後ろ手に縛られ肥料運搬車で市中を引き回された末に処刑された。 国王に死刑票を投じた議員たちは、「国王殺し」としてのちに報復を受けることになる。 彼らは、のちのにおいて、権力の座に復帰したから仇敵としての標的とされるのである。 詳細は「」を参照 ルイ16世の処刑を機に、、などを反革命に立たせることになった。 イギリスを中心にが結成され、各国の軍がフランス国境を越えた。 革命政府は「30万人募兵」を布告するが、これへの反発からが発生し、と結びついて拡大した。 も続発し、国内情勢は不安定になっていた。 これらの危機に加えて、ジロンド派が下層市民の食糧危機に対して何ら政策を講じないことを宣言すると、下層市民の怒りが爆発する。 1793年、下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、が権力を掌握した。 ジャコバン派はを開始する。 ・保安委員会・革命裁判所などの機関を通してを実行し、反対派を次々とギロチン台に送った。 さらにロベスピエールは、派と派をして、農民に対する土地の無償分配など、自己の理想とする独立小生産者による共和制の樹立を目指した。 法律による保護や人身の自由、所有の権利をうたった「」は、空文にすぎなかった。 ジャコバン派は、1793年8月23日に「国家総動員」を布告してを実施し軍備を整え、諸外国の干渉戦争への反撃に成功した。 このように、フランス本土では恐怖政治が進んだが、他方でサン=ドマングでは1793年8月29日にフランス本土から派遣された国民公会議員の ()が奴隷制の廃止を独断で宣言し、この宣言を追認したロベスピエールとジャコバン派は1794年2月4日に国民公会でを可決、西欧世界初の植民地も含めた全面的なが決議された。 こうして、、、、などの広大な地域で ()(: )の下農業に縛られていたは解放され、自由人となった。 このことはイギリスに走っていたサン=ドマングの黒人実力者のフランス復帰をもたらした。 テルミドール9日 [ ] 詳細は「」を参照 すでに参政権を得た下層市民、無償で土地を得て保守化した農民、さらにはインフレによる生活圧迫や恐怖政治によって自らの生命をも脅かされていた反ロベスピエール派は、密かにその打倒を計画する。 (テルミドール9日)午前11時、国民公会に側近のを伴って出席したロベスピエールは、議長や議員、らによって糾弾される。 場内から「暴君を倒せ」と野次が上がるなか、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求し、午後3時、ロベスピエール、、サン=ジュスト、、オーギュスタン・ロベスピエール(ロベスピエールの弟)らを逮捕する決議が通過した。 翌28日、ロベスピエールら22人はで処刑された。 その後 [ ] ロベスピエール一派の粛清によって革命は転換点を迎えた。 過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。 、国民公会が解散されてが成立したが、による陰謀が持ち上がるなど体制は不安定であった。 、によってがを樹立した。 革命によって生まれたは、ナポレオン独裁によるの開始によって約10年で終わった。 さらに、ナポレオンによるを経て、ナポレオンの失脚後にはブルボン王朝が復活した()。 革命思想・制度 [ ] 『最高存在の祭典』(1794年、ピエール・アントワーヌドゥマシー画) 1790年8月3日、政府はの権利を全面的に認めた。 1792年5月から1794年10月まで、は徹底的に弾圧された。 当時の聖職者は特権階級に属していた。 革命勃発以来、聖職者追放と教会への略奪・破壊がなされ、1793年11月には全国レベルでの禁止と教会の閉鎖が実施され、祭具類がことごとく没収されて造幣局に集められ、溶かされた。 こうして、やなどの由緒ある教会・修道院が破壊されるとともに、蔵書などの貴重な文化遺産が失われた。 破壊を免れた教会や修道院も、のように、牢獄や倉庫、工場などに転用された。 エベールらは「」を神聖視し、これを神として「」を挙行した。 ロベスピエールは、キリスト教に代わる崇拝の対象が必要と考え、「」を開催した。 しかし、ロベスピエールが処刑され、一度きりに終わり定着しなかった。 その後もカトリック教会への迫害はしばらく続いたものの、にナポレオンがとを結んで和解した。 なお、このような経緯を経たが、「革命は宗教を否定するものではない」とする主張もある。 革命暦 [ ] 革命暦に基づくカレンダー として当時から採用されていたはに()によって制定されたものである。 革命政府は、グレゴリオ暦は既存宗教()とのつながりが深く不合理であると考え、にこれに代わる(「共和暦」とも)を制定した。 しかし革命暦はを年始とするほか、10日周期の週や、1日を10時間、1時間を100分とする時間の単位などを用いて合理性を追求しており、これまでの生活習慣と大きく異なるものであった。 このため革命暦は不評で、が即位したあとのに廃止され、グレゴリオ暦が復活して今日に至っている。 メートル法 [ ] 当時のフランスでは度量衡が統一されていなかったが、単位制度として1791年にが定められた。 メートル法は定着までには時間を要したが、今日ではとして世界における標準的な単位系となっている。 貴族制について [ ] 革命によってが一掃されたわけではなく、貴族たちの中にも革命側に加わった者や、一旦は亡命したもののナポレオン時代以後にフランスに復帰した貴族も多い。 奴隷制について [ ] ルーヴェルチュール が発せられた際に、すべての人間にとって普遍的で権利であるはずのは、などによって「理性を持たない半人間」とされたフランスの植民地に住む(白人と黒人の混血)や黒人(そして、)には認められず、1791年にブークマンに率いられた黒人奴隷が大反乱を起こすまで奴隷制についての真剣な努力はなされなかった。 1793年の ()による奴隷制廃止宣言や、1794年のによる正式な決議は、1791年に始まったの黒人大反乱による植民地喪失の危機から植民地を防衛するためになされたものであり、決して人権宣言の理念に直接基づいてなされたものではなかったが 、それでもジャコバン派による植民地をも包括した全面的な奴隷制廃止は西欧世界史上初となる画期的なものであった。 この後、はが実権を掌握していたサン=ドマングの再征服を計画し、奴隷制の復活を画策したが、解放された黒人の支持を得られなかったため、サン=ドマングは1804年1月1日に世界初の黒人共和国として独立を達成した()。 この結果として、ハイチ革命後のフランス人の頭の中では、奴隷制の廃止が植民地の喪失とイコールで結ばれることになり 、のちのフランスにおける奴隷制は1848年に下でが廃止を実現するまで続くことになった。 フランス革命を扱った作品 [ ] 「」も参照 小説 [ ]• 『』(、)• 『』(、)• 『』(、)• 『神々は渇く』(、)• 『王妃マリー・アントワネット』(、 - )• 『フーシェ革命暦』(、)• 『黒い悪魔』(、) - 軍人として革命に加わった、の父の生涯を描く。 『小説フランス革命』(佐藤賢一、 - )• 『クロコダイル路地』(、) ミュージカル [ ]• 『』(演出・主演:、)• 『』(日本初演2006年)• 『』(日本初演2015年)• 『』 バレエ [ ]• 『 ()』(初演) オペラ [ ]• 『』(作曲、初演)• 『』(作曲、初演) 映画 [ ]• 『』(監督、)• 『 ()』(監督他、主演他、) 漫画 [ ]• 『』() マリー・アントワネットの生涯を描くが、その背景としてのフランス革命を描いている。 『』()• 『杖と翼』()• 『静粛に、天才只今勉強中! 』() - をモデルにした男が革命からナポレオン時代までを生き抜く話。 『マリー・アントワネット』() - 「週刊」()で連載が開始された全4話の構成の漫画。 史上初のによる。 当時の中傷ビラと新聞で捏造された、愚鈍で気弱な夫と浪費家の悪妻という汚名を着せられたルイ16世とマリー・アントワネットの事実を描く漫画。 『』() - 「」()で連載されていた漫画。 アニメ [ ]• 『』(、) - フランス革命を背景に主人公シモーヌ・ロランが虐げられる民衆を救うべくの「ラ・セーヌの星」と名乗り、「黒いチューリップ」ロベール・ド・フォルジュとともに戦うアニメーション作品。 コンピュータゲーム [ ]• 『』(、) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• Linda S. Frey and Marsha L. Frey, The French Revolution 2004 , Foreword. Palmer and Joel Colton, A History of the Modern World 5th ed. 1978 , p. 341• 117—30• [ ]• Mayumi 2017年6月26日. Mayumiの日々綴る暮らしと歴史の話. 2020年2月29日閲覧。 高橋誠一郎「」『三田学会雑誌』第136巻第2号、慶應義塾理財学会、1942年2月、 39頁、。 110。 , p. 111。 Parlement de Paris• [ ],「全国三部会」。 , pp. 28-32。 , p. 参考文献 [ ]• 『歴史を変えた火山噴火 - 自然災害の環境史』〈世界史の鏡 環境 1〉、2012年1月。 岡本明『ナポレオン体制への道』、1992年7月。 『フランス植民地主義の歴史』、2002年2月。 『1789年 - フランス革命序論』・・訳、〈〉、1998年5月。 『フランス革命』ポール・ニコル著、金沢誠・山上正太郎共訳、白水社文庫クセジュ• 文献リスト [ ] さらに理解を深めるための文献を以下に紹介する(発行年順)。 『フランス革命史1〜6』柳田泉訳、春秋社、1947年、48年 [原著1837年]。 『革命祭典』立川孝一訳、岩波書店、1988年7月 [原著1984年]、。 『フランス革命の心性』ほか訳、岩波書店、1992年5月 [原著1985年]、。 松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・・編『フランス史 2 16世紀 - 19世紀なかば』〈世界歴史大系〉、1996年7月。。 『革命について』筑摩書房〈〉、1995年6月 [原著1963年]。 遅塚忠躬『フランス革命 - 歴史における劇薬』岩波書店〈 295〉、1997年12月。。 『旧体制と大革命』筑摩書房〈〉1998年1月[原著1856年]、。 『フランス革命事典 2』、モナ・オズーフ編、ほか監訳、〈人物 1 みすずライブラリー〉、1998年12月 [原著1988年]。。 柴田三千雄『フランス革命』岩波書店〈 学術 189〉、2007年12月。。 『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』訳、〈 649〉、2008年9月。。 「フランス絶対王政の統治構造」(『二宮宏之著作集 3 ソシアビリテと権力の社会史』岩波書店、2011年12月、。 柴田三千雄『フランス革命はなぜおこったか 革命史再考』福井憲彦・編、山川出版社、2012年4月。。 関連項目 [ ] ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 ウィキクォートに に関する引用句集があります。 に に関するのテキストがあります。

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