横山やすし 死因。 コント「やすしくん」が引き起こしたダウンタウンへの猛烈バッシング

横山やすし破天荒伝説!ダウンタウンにブチギレ!西川きよしとも大喧嘩!

横山やすし 死因

ほら吹き漫才の第一人者の漫才師、横山たかし(本名・山高孝=やまたか・たかし)さんが1日午前3時51分、多臓器不全のため、大阪市内の病院で亡くなっていたことが2日、分かった。 70歳。 昭和の上方演芸界を代表した漫才師、故横山やすしさんの弟子。 たかしさんの相方、横山ひろし(72)らがこの日、追悼コメントを寄せた。 相方の横山ひろしは、たかしさんが入院中にも見舞っており「お見舞いに行ったときに、YouTubeで2人の漫才を見せたら、それまでうつろやったのに、パッと元気な顔になって見入っていた」。 今年4月の検査入院後、体調が悪化していた、たかしさんだが、漫才と舞台復帰への思いは強かった。 映像が終わると、ひろしが「さっ、舞台やで」と声をかけたといい、すると、たかしさんは「大きな声で『わかった、はいはい』と答えてくれた」と明かした。 その後「ありがとう」と互いに言い合い、別れたのが、コンビとしての最後の会話だったという。 たかしさんには「今まで楽しい人生やったと思う。 自分たちにしか出来ない漫才が出来て、本当に幸せだった。 いい夢を見させてくれた。 55年間大きなけんかはしたことがなかった」と感謝。 ベテランコンビの中には、舞台以外では口もきかないコンビもあるが、このコンビは同じ愛媛出身ということもあって、仲は良かった。 ひろしは「仕事場に2人で一緒に行くことも多く、同郷ということもあり、お互いに思い合えた関係だった。 松竹芸能で最長のコンビ歴漫才師として頑張っていこうな-と、言ってたところなのに、最後の最後に『大ぼら』ふかれました」と、大きな存在を失った哀しみを表現した。 たかしさんは弟子に「ひろし頑張れよ。 漫才続けてや」と伝言を残していたことも明らかになり、ひろしは「日本一の漫才師であり、最高の相方でした」と締めた。 また、同じ松竹芸能所属で、大御所の落語家、桂福団治(78)は「味わい深い芸で多くのファンに愛され、関西の演芸をしっかり支える大きな存在でした。 芸人としての生き様も素晴らしく、感謝の念に堪えません。 一緒に仕事をした楽しい思い出が多く残念でなりません」とコメント。 たかしさんがかわいがっていた後輩の森脇健児(52)は、東京進出から関西へ戻り、仕事に苦しんでいたころ、励まされたという。 「関西に戻り仕事が激減していた時に『健ちゃん、辛抱や。 また輝く時が来るから今は辛抱や』といつも励ましてくれました。 たかし師匠の生き様から、芸人として多くの事を学ばせて頂きました。 ありがとうございました」と感謝していた。

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横山たかしさん死去 相方ひろしが最後の会話明かす

横山やすし 死因

横山やすしの晩年 昭和という時代のお笑い界の象徴でもある やすきよコンビの 横山やすしさんが当時まだ 子供だった私の記憶にも相当な破天荒な人記憶が ハッキリと残っています。 そんな漫才界のスターであり天才漫才師と言われた 彼はわずか51歳でその生涯を閉じました。 1996年1月21日享年51歳。 死因は 「アルコール性肝硬変」。 『やすしきよし』としてコンビを組んだのは 1966年でやすしさんがきよしさんを口説いての コンビスタート。 その後瞬く間に人気漫才師となった二人ですが そのきっかけを作ったのはきよし氏曰くやすしが きっかけでコンビが売れたと言われています。 でも諸刃の剣で、そんなやすしの破天荒な性格が わざわいして、数々起こす事件でコンビ解消の 危機にも何度もあいます。 最初の事件は 1970年のタクシー運転手への暴行事件。 これがきっかけでコンビ解消とはならないものの 結局ピン芸人として活躍の場を司会業などに広げて いくしかなかった西川きよしと、横山やすしに少しずつ でも確実にほころびが出始める。 1982年秋から出演していた 『久米宏のTVスクランブル』 にコメンティターとして活躍の場を広げるも結局肌に合わな かったやすしは暴言や無言などの暴挙を繰り返し 2年で降板 となる。 そして 1986年には相方の西川きよしが国会議員へと 出馬。 師匠である横山ノックも大阪府知事へと当選します。 この頃から相方きよしには 『裏切り』と言い出し コンビでの仕事がなくなるきっかけとなる国会議員 を選んだきよしとの間にも溝が出来始める。 1988年には自身の長男木村一八がタクシー運転手に 対して暴行を働き脳挫傷など全治1ヶ月の怪我を負わせ 1年間刑務所に服役する事件もあった。 そして酒の量がどんどん増えて言ったやすしは 1989年謹慎明けの復帰直後またも飲酒運転での 人身事故を起こし吉本興行から解雇となる。 この吉本解雇の直後には暴漢に襲われ 言語障害が 残る程の致命傷を負ったやすし・・・ この最後の吉本興行からの解雇から2度と表舞台に 上がる事のなかった横山やすしだったかその後の 最期は糸が切れたような状態になっていたといわれて いる。 1994年頃からは腹水が溜まるなど体調はかなり悪化。 死去前日大量のビールを飲んで吐き出し倒れていいた 所を妻が発見して病院に運ばれるが血液からもアルコールが 検出されたそうです。 この亡くなる前日まで大量のアルコールを飲んでいたことが 元々弱っていた肝機能の低下に繋がり死への原因となった と言われている。 既に亡くなる10年前に 『今すぐ酒を辞めないと あと10年で死ぬ』と言われた宣告通りの10年後 わずか51歳でアルコール性肝硬変との診断だった。 それでも酒を辞める処か酒量が増える一方で最後まで 関係者に電話しては 『キー坊とまた漫才がしたい』が 口癖だったそうです。 たった51歳で彼をここまで追いつめてしまった 原因とは一体何だったのか? Sponsored Link 横山やすしの伝説は酒とギャンブルと! それが横山やすしたる伝説の逸話になる数々の エピソードから垣間見える。 漫才の稽古でも 『ビールはお茶替わりや』と言い張り 2時間で500mを3.5本空ける程だった。 セスナを 8000万円で購入するもやすしが支払った 金は 800万円。 個人でセスナを購入するも当時 無免許でのセスナ 購入だった….. 全盛期の年収は5億と言われた横山やすしだが 家には30万の金しか入れず競艇選手に同級生の野中和夫 がいた事もあり競艇場に足しげく通い、舟券を買うのは 勿論ボートにも興味を持ち当時 2000万円と言われた ボートを何台も所有していた。 そして当時の妻は全盛期でもヤクルトやNHKの集金の 仕事を行っていたと言われている・・・ 横山やすしの本当の性格 横山やすしと言う破天荒で天才漫才師と言われた 彼の本当の 性格はとても几帳面で臆病だったと 言われている。 そしてとても漫才に対してもストイック。 満足いく漫才が出来ない時はいつも酒に溺れ そして理想のレベルに達することのできない 自分を責めては酒に溺れていたと言われている。 本来の気が小さい分思い通りにならない事は 酒に逃げ横山やすしと言う虚栄を無理して演じ 続けていたのでしょう・・・ Sponsored Link 横山やすしの虚栄を演じ続けて~ マスコミが作りあげた横山やすし像を演じ続けた 横山やすしは自身の口からもこう言っていたという。 「わし酒やめたいねん。 身体ボロボロや」 『いつまで横山やすしを演じなあかんのやろ! 』 恐らくとても不器用で生真面目で気の弱い自分だった からこそ横山やすしと言う世間が認知する、どこまでも 破天荒な希代の漫才師を演じる必要がある~ 世の中は本名の(木村雄二)ではなく横山やすしを 求めている~と一時代の寵児となった男はその思いを 拭いきる事ができなかったのかもしれない。 あまりにも短命であまりにも残酷な横山やすしと 言う男を演じたばかりに彼は奇しくも見事に演じ切って 51歳の若さでこの世を去る事になる・・・ 天は二物を与えぬとはまさにこのことでしょうか・・・ 悲し過ぎる結末です・・・ おわりに 横山やすしの破天荒すぎる波乱万丈な生き様は彼の芸人としての全てだったのでしょう。 そうして(横山やすし)として世間に出てきた芸人として最後まで横山やすしとしての人生を全うした彼の人生はあまりにも儚く不器用でした。 もっと器用にもっとズルく生きられる術を知っていたら~と思うととても残念です。 不器用が故の早死にが死して20年弱の今も尚語り継がれる由縁なのかと思うと尚更いたたまれなく思います。

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横山やすし破天荒伝説!ダウンタウンにブチギレ!西川きよしとも大喧嘩!

横山やすし 死因

「毎度っ! 横山や。 日本一の天才漫才師・横山やすし(享年51)は波乱の後半生を送り、玉砕するかのように早世した。 今なお関西を中心に人気は絶大。 デビュー前からの「恩師」であるプロデューサーの澤田隆一氏が追想する。 澤田 いや、もっと早くて彼が中学1年生の時。 僕がやっていた 「漫才教室」(ABC)というラジオ番組に、本名の木村雄二で応募してきたけど、すでに天才だったね。 彼の相方が何にもできない子だったから、木村君が1人で「ツッコミボケ」をやって、ネタも自分で書いていたよ。 ラジオ、テレビともにお笑い番組を多く手がけ、特に「てなもんや三度笠」は60%以上の視聴率を獲得。 以降も「新婚さんいらっしゃい!」や「花王名人劇場」など、ヒット作を量産した。 澤田 ところが 最初は「コンビ別れの名人」と言われるくらい、相方が定着しなかった。 西川きよしさんに白羽の矢が立った時も、周りは「やめとけ」言いよったけど、きよしさんもヘレンさんに子供ができて、金が必要。 それで組んだら、あっという間にトップに立った。 澤田さんが手がけた「花王名人劇場」も、ブームに大きく貢献した。 澤田 だけど、最初はやすきよを推していない。 当時は「プロポーズ大作戦」など司会ばっかりで、漫才はほとんどやってなかった。 番組で「激突!漫才新幹線」という企画を立てた時も、東は星セント・ルイス、西は圧倒的におもしろかったWヤングに決めていた。 澤田 ところが、Wヤングの中田治雄が野球賭博の借金苦から命を絶った。 誰か代わりを探さないといけない。 そこで、やすきよにって話になったんです。 やっさんは野球なんか知らへん。 ボートはやるけど、賭けるんじゃなくて乗るほうやと。 澤田 それまで1桁だった視聴率が10%を超えて、以来、漫才と「裸の大将」が両輪となって長寿番組になりました。 久米宏と組んだ「TVスクランブル」(日本テレビ系)では酔って暴言を吐いたり、ドタキャンをしたために降板。 86年に相方が参院選で当選すると、さらに荒れていたように思います。 澤田 ボタンの掛け違いはあったでしょうね。 結局、スポーツ紙で出馬が明らかになると「自分に言わんと新聞に先に言うた」とキレた。 実際は西川さんがリークしたんじゃなく、別のルートから入ってきた話だったんですが。 澤田 医者から「このまま飲んだら死にますよ」と。 ただ「ビールならええでしょ」と言われて、ずっとビールばっかり。 それから息子(木村一八)の件もあって謹慎を繰り返し、たまたま私と作家の小松左京さんがホテルで打ち合わせていたら、やっさんが通りかかった。 酔った小松さんが「お前は正しい」と言うと、やっさんは「酒飲んで言わんでください」と照れくさそうに言った。 ところが、その3日後にビール飲んで車を運転して、バイクに乗った男をはねてしまった。 澤田 あれでやっさんは糸が切れてしまった。 何者かに殴られて、ロレツも回らんようになったけど、電話をかけてきては「キー坊と漫才やりたい」と言い続けてた。 人生の前半でラッキーを使い果たしたけど、亡くなってもやっぱり人気があるのはやっさん。 あれだけの天才というのは二度と出てこないでしょうね。 解剖の結果、 死因は「アルコール性肝硬変」 と判明、さらに血液からもアルコールが検出された。 亡くなった翌日のスポーツ紙の見出しには、自宅の玄関前にビールの空き缶が多く入ったごみ袋が写し出されており、亡くなる前日までビールを多量に飲んでいたことが、弱っていた肝機能を急激に低下させ、急死に至った原因であることが裏付けられた。 やすしは1986年に仕事先の徳島県で吐血し、その時に医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にます」と酒を止めるよう警告されていたが、警告を無視して酒を飲み続け、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化し、入退院を繰り返していた。 奇しくも前述の医師の『警告』通り、10年後の1996年にこの世を去る結果となった。

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