いとう ひとし。 向峠 仁志(むかいとうげ ひとし)様

伊原凛

いとう ひとし

Q :立命館への進学を目指された理由やきっかけなどをお教えください。 向峠 (敬称略) 父と叔父が立命館大学法学部のOBであったこともあり、早くから立命館大学を進学先の一つとして考えていました。 父たちの時代は、学生紛争真っ盛りの頃だったようです。 ただ、その中でも、「学生のやりたいことに対して寛容で、学問に関しても名だたる先生方の講義を受けることができた素晴らしい環境だった」という話を聞いていました。 私は「せっかくなら弁護士を目指してみてはどうか」という父の言葉をきっかけに、弁護士に興味を持ち、高校生の頃には明確に志望するようになっていたのですが、この立命館大学の取組みは、私にとってかなり大きな動機付けとなりました。 結局、地元の国立大学にも合格しましたが、立命館大学の合格発表当日に京都市内で物件を探していました(笑)。 現在、立命館大学では、公務員試験(主に国家公務員採用総合職試験)・公認会計士試験・司法試験を難関試験として位置づけ様々な支援を行っています。 学生生活にまつわるエピソード Q :どのような学生生活を送られたかお教えください。 向峠 入学後も父から聞いていた大学の様子に変わりはなく、非常に充実した日々でした。 大学1回生の時から弁護士資格取得を意識して、エクステンションセンターの講座を週2~3日受講していました。 また、「法友会」という他大学との法律討論会に参加するサークルに所属していましたので、日々、忙しく活動していました。 当時の勉強仲間やサークルの同級生や後輩とは、今でも旅行をしたり食事をしたりと、交流が継続しています。 大学から大学院に進学し、研究する楽しさも経験することができました。 2年間の短い期間でしたが、博士課程前期を修了する際に作成した研究論文は、『立命館法政論集』という論文集の創刊号に掲載していただきました。 大学の公式論集であるためか、実務家になった後も「論文、読みましたよ」と言われることがあり、そういうときは嬉しく感じます。 父は学生当時、経済的理由などで大学院に進学できなかったという思いがあったようです。 私が大学院で学ぶことに対して、厳しくも心強く後押ししてくれたことに、今でも感謝しています。 ご卒業後のエピソード Q :これまでのご経歴および現在のお仕事についてお教えください。 向峠 私は、いわゆるロースクールの第1期修了生です。 弁護士の資格を取得した後は地元の石川県に戻り、弁護士業務は現在で8年目となります。 地元での弁護士業務は、離婚・相続などの家族の問題、パワハラ・解雇などの労働問題、債務整理・破産など金銭問題、交通事故など、日常生活に潜む様々な問題を受任しております。 2014年4月には独立開業し、さらに様々な案件を受けることが増えました。 職務内容は、決して楽しいことばかりではありませんが、依頼者から「相談して良かった」と言ってもらえると、非常にやりがいを感じますね。 Q :ご卒業後の立命館とのつながりについてお教えください。 向峠 結婚する際に、たまたま立ち寄ったインテリアショップのオーナーが、産業社会学部出身の校友の方でした。 石川県では、同窓会総会(年1回)と、例会(偶数月)が開催されていますが、その方に例会に参加することを勧められ、それ以降、毎回参加するようになりました。 実は、例会に初めて参加した後、すぐに父を誘いました。 世代が違うと話しかけづらいこともありますが、父と子で参加することで、色々な世代の方が声をかけてくださり交遊の幅が広がります。 様々な年代の、様々な職種の方とのお付き合いが増え、今ではいつも父子で例会に参加しています。 同じ立命館大学の校友ということで、グッと距離感は縮まります。 「今までは別の弁護士に依頼していたけど、せっかくなので是非とも相談したい」という機会も増えました。 そこからさらに様々な交流が増えますので、仕事の幅も広がっています。 校友には、非常に助けられています。 ご支援について Q :立命館(未来人財育成基金)にご支援くださった「きっかけ」を教えてください。 おかげで自分の勉学に専念できたことに非常に恩義を感じ、将来、何かのかたちで恩返しができればと考えておりました。 石川県校友会の例会では、「未来人財育成基金」の趣旨説明と活動状況の報告、寄付の協力依頼が毎回あります。 その際の「皆さんで、ゆるくながく母校を応援しましょう」という掛け声に賛同し、 2013年 4月から寄付を開始しました。 石川県校友会には、フェイスブックページがあります。 例会のお酒の勢いで寄付を開始し、「最年少の僕が開始したから、皆さんも寄付しましょう」と書き込んだ記憶があります(笑)。 エクステンションセンターの講座を受講し、成績・人物ともに優秀な学生を支援することを目的として、 1994年度から 2003年度まで設けられた。 2001年度 松本仁介奨励賞授与式で目録を受け取る向峠様 Q :今の立命館や学生(後輩たち)にメッセージをお願いします。 向峠 今から振り返ると、学生生活はあっという間だったと思います。 立命館は、全国から多彩な方が集まっています。 これほどまでに色々な経験ができる環境は貴重です。 学生生活では、早いうちに、自分のやりたいことや打ち込めることを見つけて、是非とも意義のあるものにしていただければと、切に願います。 掲載日:2015年2月6月.

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Q :立命館への進学を目指された理由やきっかけなどをお教えください。 向峠 (敬称略) 父と叔父が立命館大学法学部のOBであったこともあり、早くから立命館大学を進学先の一つとして考えていました。 父たちの時代は、学生紛争真っ盛りの頃だったようです。 ただ、その中でも、「学生のやりたいことに対して寛容で、学問に関しても名だたる先生方の講義を受けることができた素晴らしい環境だった」という話を聞いていました。 私は「せっかくなら弁護士を目指してみてはどうか」という父の言葉をきっかけに、弁護士に興味を持ち、高校生の頃には明確に志望するようになっていたのですが、この立命館大学の取組みは、私にとってかなり大きな動機付けとなりました。 結局、地元の国立大学にも合格しましたが、立命館大学の合格発表当日に京都市内で物件を探していました(笑)。 現在、立命館大学では、公務員試験(主に国家公務員採用総合職試験)・公認会計士試験・司法試験を難関試験として位置づけ様々な支援を行っています。 学生生活にまつわるエピソード Q :どのような学生生活を送られたかお教えください。 向峠 入学後も父から聞いていた大学の様子に変わりはなく、非常に充実した日々でした。 大学1回生の時から弁護士資格取得を意識して、エクステンションセンターの講座を週2~3日受講していました。 また、「法友会」という他大学との法律討論会に参加するサークルに所属していましたので、日々、忙しく活動していました。 当時の勉強仲間やサークルの同級生や後輩とは、今でも旅行をしたり食事をしたりと、交流が継続しています。 大学から大学院に進学し、研究する楽しさも経験することができました。 2年間の短い期間でしたが、博士課程前期を修了する際に作成した研究論文は、『立命館法政論集』という論文集の創刊号に掲載していただきました。 大学の公式論集であるためか、実務家になった後も「論文、読みましたよ」と言われることがあり、そういうときは嬉しく感じます。 父は学生当時、経済的理由などで大学院に進学できなかったという思いがあったようです。 私が大学院で学ぶことに対して、厳しくも心強く後押ししてくれたことに、今でも感謝しています。 ご卒業後のエピソード Q :これまでのご経歴および現在のお仕事についてお教えください。 向峠 私は、いわゆるロースクールの第1期修了生です。 弁護士の資格を取得した後は地元の石川県に戻り、弁護士業務は現在で8年目となります。 地元での弁護士業務は、離婚・相続などの家族の問題、パワハラ・解雇などの労働問題、債務整理・破産など金銭問題、交通事故など、日常生活に潜む様々な問題を受任しております。 2014年4月には独立開業し、さらに様々な案件を受けることが増えました。 職務内容は、決して楽しいことばかりではありませんが、依頼者から「相談して良かった」と言ってもらえると、非常にやりがいを感じますね。 Q :ご卒業後の立命館とのつながりについてお教えください。 向峠 結婚する際に、たまたま立ち寄ったインテリアショップのオーナーが、産業社会学部出身の校友の方でした。 石川県では、同窓会総会(年1回)と、例会(偶数月)が開催されていますが、その方に例会に参加することを勧められ、それ以降、毎回参加するようになりました。 実は、例会に初めて参加した後、すぐに父を誘いました。 世代が違うと話しかけづらいこともありますが、父と子で参加することで、色々な世代の方が声をかけてくださり交遊の幅が広がります。 様々な年代の、様々な職種の方とのお付き合いが増え、今ではいつも父子で例会に参加しています。 同じ立命館大学の校友ということで、グッと距離感は縮まります。 「今までは別の弁護士に依頼していたけど、せっかくなので是非とも相談したい」という機会も増えました。 そこからさらに様々な交流が増えますので、仕事の幅も広がっています。 校友には、非常に助けられています。 ご支援について Q :立命館(未来人財育成基金)にご支援くださった「きっかけ」を教えてください。 おかげで自分の勉学に専念できたことに非常に恩義を感じ、将来、何かのかたちで恩返しができればと考えておりました。 石川県校友会の例会では、「未来人財育成基金」の趣旨説明と活動状況の報告、寄付の協力依頼が毎回あります。 その際の「皆さんで、ゆるくながく母校を応援しましょう」という掛け声に賛同し、 2013年 4月から寄付を開始しました。 石川県校友会には、フェイスブックページがあります。 例会のお酒の勢いで寄付を開始し、「最年少の僕が開始したから、皆さんも寄付しましょう」と書き込んだ記憶があります(笑)。 エクステンションセンターの講座を受講し、成績・人物ともに優秀な学生を支援することを目的として、 1994年度から 2003年度まで設けられた。 2001年度 松本仁介奨励賞授与式で目録を受け取る向峠様 Q :今の立命館や学生(後輩たち)にメッセージをお願いします。 向峠 今から振り返ると、学生生活はあっという間だったと思います。 立命館は、全国から多彩な方が集まっています。 これほどまでに色々な経験ができる環境は貴重です。 学生生活では、早いうちに、自分のやりたいことや打ち込めることを見つけて、是非とも意義のあるものにしていただければと、切に願います。 掲載日:2015年2月6月.

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教育長及び教育委員の紹介

いとう ひとし

[生]1905. ,炭焼沢 [没]1969. 東京 小説家,評論家。 本名,整 ひとし。 1925年小樽高等商業学校卒業。 教員となり百田宗治主宰の詩誌『椎の木』に参加,北海道の自然と交響する抒情を素朴なスタイルでうたいあげた詩集『雪明りの路』 1926 を自費出版。 上京して東京商科大学本科に入り 27 ,友人らと批評誌『文芸レビュー』を創刊 29 し,小説『感情細胞の断面』 30 で川端康成に認められた。 商大中退後,ジョイスの『ユリシーズ』 31~34,共訳 ,ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』 35 を翻訳する一方,「内的独白」や「意識の流れ」を重んじる精神分析法を取入れた文学論『新心理主義文学』 32 や,その実践としての小説『幽鬼の街』 37 などを書いた。 その後,戦時下の知識人の生き方をさぐる『得能五郎の生活と意見』 40~41 ,『得能物語』 42 を書き,敗戦後の退廃,混乱期の知識人の姿を『鳴海仙吉』 50 に戯画化した。 完訳『チャタレイ夫人の恋人』 50 で猥褻罪により起訴されたのを機に芸術表現の自由をめぐる法廷闘争を展開,その体験から得た組織と人間の主題を『裁判』 52 ,『花ひらく』 53 ,『火の鳥』 49~53 に展開する一方,『伊藤整氏の生活と意見』 51~52 ,『女性に関する十二章』 53 などの成功もあって,人気作家となった。 風刺,諧謔を多用し交響曲的効果をねらう小説形式が特色で,『若い詩人の肖像』 55 ,『誘惑』 57 ,『氾濫』 56~58 などでより成熟した。 また物語的手法で『日本文壇史』 52~69 をまとめ,の創立にも寄与した。 『伊藤全集』 24巻,74 がある。 67年日本芸術院賞受賞。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 詩人、小説家、評論家。 本名整 ひとし。 明治38年1月17日、北海道松前郡炭焼沢村(現、松前町白神)に生まれる。 小樽 おたる 高等商業学校(現小樽商科大学)時代から詩を書き始め、百田宗治 ももたそうじ 主宰の『椎 しい の木』同人となり、詩集『雪明りの路 みち 』(1926)を出版。 1928年(昭和3)、小樽市中学校教諭を辞めて上京、東京商科大学(現、一橋大学)に入学。 詩から小説、批評に転じ、フロイトやジェームズ・ジョイスの影響を受けた「新心理主義」の代表的理論家兼実作者として文壇に登場し、評論集『新心理主義文学』(1932)、小説集『生物祭』(1932)を出した。 その後、20世紀文学の方法を利用して詩や私小説の芸術的エッセンスを作品化することを試みた。 『街と村』(1937~1938)、『得能 とくのう 五郎の生活と意見』(1940~1941)などの小説を経て、第二次世界大戦後、詩、小説、評論、戯曲などのさまざまな形式を組み合わせた現代知識人文学の代表作『鳴海 なるみ 仙吉』(1946~1948)を発表すると同時に、日本近代小説の私小説的性格を西欧と対比しながら明らかにした評論集『小説の方法』(1948)を出して注目された。 1950年(昭和25)に翻訳・出版したD・H・ローレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が猥褻 わいせつ 文書の疑いで起訴され、いわゆるチャタレイ事件が起こった。 結果は有罪に終わったが、この裁判闘争の体験を生かして戯文エッセイ『伊藤整氏の生活と意見』(1951~1952)、『女性に関する十二章』(1953)、長編『火の鳥』(1949~1953)などを書き、ベストセラー作家になった。 その後の長編に自伝小説『若い詩人の肖像』(1954~1956)、人間のエゴイズムと俗物性を追求した『氾濫 はんらん 』(1956~1958)や『発掘』(1962~1964)、老年の性を描いた『変容』(1967~1968)、父の生涯を記録した『年々 ねんねん の花』(1962~1963)などがあり、ほかに大著『日本文壇史』(1952~1969)、『太平洋戦争日記』(1983)がある。 1968年、芸術院会員。 昭和44年11月15日、胃癌 いがん のため死去。 【佐竹 昭広】 【心理学・精神医学における〈愛〉】 愛とは,自分にとって価値のある対象を慕い,いつくしみ,またはそれに引きつけられていく精神的過程と考えることもできよう。

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