チンギス ハン と 源 義経。 モンゴル帝国を築いたチンギスハンは源義経だったって本当?

源義経を5分で!牛若丸の伝説やチンギス・ハーン説について│れきし上の人物.com

チンギス ハン と 源 義経

史上最大のモンゴル帝国の基礎を築いたチンギスハン。 それなのに彼に関しての資料が少なすぎるのはご存知でしょうか? 生年月日さえわかっていないんです。 ただ、これは当時のモンゴルなら普通だったのかもしれませんが。 二人の共通点を見てみましょう。 義経は31歳で死亡17年後にチンギスハンが歴史に登場。 この時41歳と言われています。 大体同年代なんですね。 さらに当時のモンゴルで大型の弓を使っていたのはチンギスハンただ一人。 普通は小型の弓を使うのがモンゴル人なんです。 ちなみに大型の弓を使っていたのは日本人です。 義経がモンゴルに渡ったなら頷けますね。 大河ドラマでやりましたが、義経はこの動画のような鎧兜を着ていたと思われます。 ずいぶん前のドラマですが、石原さとみさん出演されていたんですね。 当時から綺麗。 Sponsored Links それはいいんですが、そもそもこの説、【義経はチンギスハンになった】はヨーロッパから日本に来た医者、シーボルトが言い出したものです。 「歴史を見直したほうがいいですよ〜!」って。 彼は大陸から渡ってきたわけなので、そこの事情に詳しかったのかもしれません。 でも、衣川で自害させられた義経の首は鎌倉にいる頼朝の元に送られています。 これでは言い逃れができそうにありませんが・・・ 鎌倉に義経の首が届いたのは6・13と言われています。 今でいうと真夏です。 当時でも20日でいける平泉と鎌倉の距離。 それにもかかわらず、実は義経の死から鎌倉まで43日もかかっています。 なぜでしょうか? なぜだと思いますか? 真夏なら首が腐らないように急ぎそうなものです。 それにも関わらずいつもよりも倍以上の日数がかかっています。 ここで一つの仮説が浮かんできます。 送られた首って・・義経じゃなかったんじゃないの? 義経じゃないから頼朝が首検分をした時にばれないようにわざと時間を稼いで腐らせたのでは? ではその首は誰のものだったのか? 実は義経の死を境にその記録が途絶えた男がいます。 名を杉妻太郎。 義経の世話役の男性です。 二人は見間違うほど似ていたと言われています。 つまり、 影武者ですね。 彼の首が鎌倉に送られたのです。 一応義経の位牌はあります。 平泉に。 戒名【館を捨て、山を越えた義経】 ん? 「平泉を捨て、山を越えてさらに北へ向かった。 」ということでしょうか? 実はその後北を目指す義経を目撃し、風呂を貸した人物までいるのです。 風呂を貸したことで義経に「風呂」と言う名字まで与えられています。 ただ、兄頼朝もバカではありません。 腐った首では信用できなかったのでしょう。 平泉に刺客(畠山重忠)を向けたようです。 兄弟なのにそこまでしますかね -。-; ちなみに北に逃げて行く義経の痕跡が今でも残っています。 例えば、岩手県石見氏には源義経と弁慶の名が記された木片が残されています。 岩手県普代村には、北を目指す義経一行が不行道(現在の普代村)で道を断たれて一週間ほど滞在したと記録があります。 刺客が迫っていたのです。 つまり、義経の足取りを確実に追っていたことがわかりますね。 義経が生きてることは源頼朝自身が半分証明してくれてるわけです。 なんだか義経が本当は生きていた事に信憑性が湧いてきましたね。 他にも義経は北を目指し、モンゴルにたどり着いた証拠にモンゴルで義経のものとよく似た家紋が見つかっています。 話を日本に戻しますが、義経を追っていた刺客、名前が分かっています。 と言うか結構有名人です。 彼の名は畠山重忠。 源平合戦では義経の腹心だった侍です。 実は岩手で追いついたのです。 で、どうしたか? これは証拠が残っているんですが、畠山重忠は源義経と弁慶の追いつき・・・ 矢を放ちました。 放たれた矢は二人に当たらず、そこにあった木に突き刺さったそうです。 そして矢は岩手県久慈市にある諏訪神社に、今も御神体として祀られています。 畠山重忠は義経を殺したくなかったのでしょう。 そのまま北上した源義経・・・北海道に行き着くわけです。 さて、ここまで源義経=チンギスハン説を検証してきましたが・・ ここからですよね。 北海道、当時でいう蝦夷(えぞ)にたどり着いたはいいですが、モンゴルまでどうやっていくの? と疑問が浮かんできます。 それはないだろ。 しかしよくよく当時のことを調べてみると、なんとあったんです。 12世紀に日本からモンゴルへ行くルートが。 源義経はどうやってモンゴルに渡った? その頃の蝦夷では海洋民族が築いた文明が栄えていました。 船を使って大陸と交流していたのです。 これは仮説ではなく、ほぼ確定です。 もし源義経が北海道までたどり着けていたなら、そこから彼らの力を借りて大陸へいけます。 あとは陸路ですから、モンゴルに行けないとは言い切れないのです。 そもそもこの説を唱えたのはドイツ人医師のシーボルトでした。 義経は、チンギスハンです。 ほぼまちがい無いでしょう。 しかし、それが認められる日は、永遠にやってこないと思われます。 残念ですが。 私は小学生の頃、邪馬台国は、畿内にあると確信しておりました。 当時は九州説が優勢だったのです。 現在は、畿内説で、固まりつつあります。 私はこういった能力が、有り、世間に認められなくとも、私の推測は正解なのです。 大乗仏教は、キリスト教、中国語は、インド ヨーロッパ語族 と、専門家から、一笑に付されてしまう学説を持っております。 これは正解なんです。 わかる人にはわかるのです。 しかし、学会が認めないからという事でキチガイ扱いをされてしまいます。 しかし、つい70年前まで、野球の変化球は、錯覚であると言うのが、学会の常識だったんですよ!血液型と性格の関係は有り得ないとされていたのも、そんなに昔のことでは有りません。 学問の専門家の見解が、絶対では全然無いのか現実なんですけど、仕方ないですね。 義経イコール チンギスハンは、まちがい無いんですけれど、現段階ではとても厳しいですね。 改めて残念です。 Shinさん、時間がありましたらヒットラーとナポレオンも取り上げてみて下さい。 この二人共通点があります。 ヒットラーは生粋のドイツ人とは言えませんし、ナポレオンもまあフランス人ですが実はアイデンティティはかなり希薄、ということです。 ヒットラーは生まれはオーストリアでドイツ国籍を取ったのは10代になってからだったと思います。 ナポレオンはコルシカ島出身で、ナポレオンの誕生前にコルシカ島が当時イタリア半島にあった領主国である王国に対し反旗を翻し、フランス側に寝返ったという経緯があります。 つまりナポレオンがフランス人になったのは結構偶然だったんですね。 本人も生涯自分をコルシカ人と自覚していたそうです、フランス人ではなく。 こういう、外部者がある文化圏でトップに上り詰める事例を外部者の過剰適応というらしいです。 チンギスハンも例外ではないような気がしています。

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源義経=チンギスハン説はどうやって生まれたの??

チンギス ハン と 源 義経

モンゴルを世界最強の国にした チンギス・ハンは、 ナポレオンと並ぶほどの戦いの天才だと語り継がれており、モンゴルの偉大な英雄です。 全モンゴルを統一したあと、アジアからヨーロッパにまたがる大帝国を築きました。 そして 「最も広い領土を征服した」として世界史上一位の人物がこのチンギス・ハンになります。 凄い事ですよね! ですが最初からこんなに順風満帆だったわけではなく、族長の父が毒殺された後、部族から追放され、母と親戚合わせて10人に満たない少人数で生きるか死ぬかの生活を長年続けていたという経緯もあります。 また、チンギス・ハンがモンゴルの文化に与えた影響はとても大きく、モンゴル国内にチンギス・ハンの所縁の地が今も数多くあるほどです。 そんなに強かったチンギス・ハン、一体死因はなんだったのでしょうか? この記事では、チンギス・ハンの生い立ちや強さの秘密、戦略的な戦い方など、逸話も交えて分かりやすく紹介していきたいと思います。 それについてはをどうぞ 関連記事 目次• チンギス・ハンの生い立ち チンギス・ハン とは本当の名前ではない? 12世紀中ごろ、モンゴル民族はいくつもの部族に分かれて戦いを繰り返していました。 そんな中、1162年に 「テムジン」が生まれました。 テムジンとはのちのチンギス・ハンの事です。 チンギス・ハンという名前は本名ではなく、本名は 「テムジン」といいます。 テムジンの名づけ親は父・イェスゲイです。 イェスゲイはモンゴル部族の一部族ボルジキン氏族の長(おさ)で、英雄でした。 当時、対立していた別の部族の長の名前がテムジンで、それが息子の名づけの由来だそうです。 敵対する人物の名前をそのまま息子に名付けるとは、変わっていますよね。 母の名前は ホエルンといい、もともとはイェスゲイが敵対するメルキト部族の族長の妻でしたが、イェスゲイに略奪されてその妻となりました。 テムジンが産まれた時、体に特徴がありました。 テムジン、大きくなったら裏切者たちに復讐するのです! このような苦難の中、テムジンは必死に生きながら辛抱強く勇敢な戦士に成長していきました。 そして、ライバル部族たちを次々に倒していきました。 ボルテと結婚 17歳で結婚 テムジン17歳の時、 セチェン・ボルテという女性と結婚をしました。 テムジンの母のふる里であるオンギラート族のデイ・セチェンの娘です。 この二人の結婚の際、デイ・セチェンの頭に浮かんだのは、 ケレイト族の族長 ワン=ハン (テムジンの父の親友)を2人の支援者にすることでした。 当時ワン=ハンはとても力をもっている族長でした。 テムジンは、妻セチェン・ボルテの母が結婚祝いに娘に送った黒貂の毛皮を贈り物にワン=ハンを訪ねました。 「ハン」とはモンゴル部族の長を表す言葉です。 盟友ジャムカとの戦い モンゴル高原で力をつけていく中で、テムジンにとって特に大きな敵となったのが「ワン=ハン」と「ジャムカ」です。 ジャムカに関してはかつての戦友であり盟友です。 しかし、互いに覇者を目指し合うもの同士として、決戦せねばならない宿命だったのでしょうか。 二人は壮絶な戦いを何度も行ないテムジンは戦に負け続けますが(十三翼の 戦い)冷徹非道なジャムカに部下たちがついていけず、負け続けのテムジンの元に仲間が集結していき、1205年、ついにテムジンは宿敵ジャムカを捕らえることに成功します。 かつての盟友ジャムカを惜しんだテムジンは助命を提案しますが、ジャムカはそれを拒否。 ジャムカは革袋に包んで馬の大軍に踏みつぶされるという処刑法で殺されます。 これは、大地に血を流さない貴族のための処刑法で ジャムカの名誉を考えてのことでした。 とても残虐な殺し方に感じてしまいますが、 最大限相手を敬った処刑方法だったのですね。 そしてかつては自身に力を貸してくれたワン=ハンとも、戦い、最後にはテムジンの勝利に終わりました。 勢いにもったテムジンは、それからいくつもの部族を倒しました。 なぜチンギス・ハンはこんなにも強かったのか?逸話を紹介 チンギス・ハンがこれほどの大帝国を築くことができた最大の理由は、優れた軍事制度にあります。 チンギス・ハンは、部隊を千人隊、百人隊、十人隊に分ける階級制度を採用することにより、 どれだけ兵の数が多くなっても的確な指揮を可能としました。 また、遠征の際には体力を消耗していない馬を常に戦闘に使用できるよう、 一人に数頭の馬を帯同させ、世界最大の機動力を誇りました。 加えて、戦闘ではまず大量の矢を遠くから放ち、相手を消耗させた後に接近戦を仕掛けるという戦術を用いていました。 ただ力でねじ伏せるのではなく、自軍の力を最大に引き出す知力に長けた軍事制度により、チンギス・ハンは 地上の四分の一を領土とする大帝国を築き上げたのです。 テムジン、「チンギス・ハン」となる こうして1206年、テムジンは「チンギス・ハン」となり、モンゴル全土を統一して大モンゴル帝国を築きました。 モンゴル帝国の最大領域。 地上の四分の一もの領土を支配していました。 モンゴル帝国は当時中国の北半分を支配していた「金王朝(きんおうちょう)」に侵攻し、万里の長城の遥か先までの征服に成功します。 この戦いは10年にもおよび、当時5000万人いたとされる中国人口の75%以上が殺されてしまいました。 また、チンギスハンは現在のトルキスタンに位置した中央アジアの国家 「西遼」に対しても攻撃を仕掛けています。 この戦争によってモンゴル帝国はペルシア湾やカスピ海にまでその領土を広めました。 さらにはチンギスハン自ら20万にもおよぶ大軍を引き連れ、中央アジアに征服遠征を行なったのです。 遠征軍は通過する都市をことごとく破壊し、現在のウズベキスタン周辺を征服していきました。 モンゴル帝国の勝利は続きインド付近まで侵攻に成功しましたが、高温多湿なインドの環境に対応することができず、ここでやっと軍を帰国させています。 こうして チンギスハンのモンゴル帝国は地上の四分の一もの領土を支配するに至ったのです。 「最も広い領土を征服した」として世界史上一位 を誇っています。 チンギス・ハンの死因 一旦帰国したチンギス・ハンは、1227年7月、再度中国を攻める途中、病気になり、危篤状態に陥り亡くなりました。 66歳でした。

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【ライキン】源義経のオススメ天賦と装備と指揮官ペア

チンギス ハン と 源 義経

源義経の生い立ち 源義経は源義朝の九男として平治元年(1159)に生まれたとされ 幼少期は牛若丸と呼ばれます。 同年、父・源義朝は平治の乱で謀反人とされ亡くなると牛若丸は母・常盤御前、兄・今若、乙若と共に大和国へとの逃れた後、兄2人は出家し僧侶、母・常盤は牛若丸をつれ公家の一条長成と再婚しました。 母の再婚によって京都にいた牛若丸は11歳の頃、鞍馬寺に預けられ、 遮那王と名乗ります。 元服 やがて僧になることを拒んだ遮那王は鞍馬寺を出て、承安4年(1174)に元服をしました。 この頃から 義経と名乗るようになり、元服した後、義経は奥州藤原氏宗主である藤原秀衡を頼って平泉に向かったとされています。 兄・源頼朝が鎌倉を拠点に置く 治承4年(1180)兄・源頼朝が平氏打倒のため伊豆で挙兵すると源義経もその幕下に入ろうと藤原秀衡から差し出された数十騎を連れて兄のもとへと向かいます。 この頃、兄・源頼朝は富士川の戦いで勝利し、源義経と義経の異母兄である源範頼に指揮を任せ、 本拠地である鎌倉で東国の運営に力を注いでいました。 木曽義仲との対立 寿永2年(1183) 木曽義仲が平氏を追い込み京へと入りました。 後白河上皇は源頼朝に上洛の要請を行いますが、それに対し危機感を抱いた 木曽義仲は源頼朝の討伐を決意します。 源頼朝は木曽義仲との対立のために京都へと向かいますが、京都では深刻な食糧不足が起きていたため、源義経と中原親能を代わりに京都へと向かわせました。 粟津の戦い 京都へ向かった源義経と中原親能でしたが、入京が困難な状況でした。 そんな状況の中、法住寺合戦によって木曽義仲が後白河上皇を幽閉したとの情報が伝えられます。 この情報を耳にした源義経はすぐに兵力の増強を図り援軍を率いて、 宇治川の戦いで志田義広を破り、敗走した木曽義仲は粟津の戦いで討死となりました。 平氏討伐 木曽義仲との戦いの間も、平氏は西国で勢力を再び伸ばし、京都にほど近い福原までその勢力を伸ばしていました。 そんな平氏の打倒に 兄・源頼朝は源義経に平氏の討伐を命じます。 源義経は三草山の戦いで平資盛を破り、一ノ谷の戦いでたった70ほどの兵力で平氏本陣を奇襲しました。 これらの戦いによって平氏に混乱を招き、 源軍の勝利となります。 源義経は木曽義仲の討伐や、一ノ谷の戦いでその名を、全国に広めることとなりました。 その後、源義経は都での治安監視のため鎌倉には戻らず京都に残り、元暦元年(1184)9月には 河越重頼の娘・郷御前を正室として迎えます。 兄・源頼朝との対立 平氏を滅亡に追い込んだ源義経でしたが、その後、兄・源頼朝に 弟・源義経が手柄を独り占めしようと企んでいる。 といった書状が届き対立関係となります。 源義経は、壇ノ浦の戦いで捕らえた平宗盛、清宗父子を護送した後、鎌倉に戻ろうとしましたが、兄・源頼朝によって鎌倉入りが認められず、平宗盛、清宗父子のみが鎌倉に入ることができました。 兄・源頼朝と対立関係となった原因として、源義経が平氏討伐の際、兄・源頼朝に代わって使わされていた梶原景時の意見を無視したこと、兄・源頼朝に従っている東国武士達を勝手に成敗したことなどがあげられていますが、他にも平氏討伐で源義経が大いに活躍したため、兄・源頼朝に従っている東国武士達の活躍の場が無くなり、不満が噴出したことが原因としてあげられています。 平氏討伐で法皇や武士達からの信頼を得た源義経は武家政権の確立を目標に掲げていた兄・源頼朝にとって、脅威となる存在でした。 源義経の討伐 その後、 兄・源頼朝は源義経の所領を没収した後、叔父・源行家に源義経の討伐を命じました。 元暦2年(1185)10月に、兄・源頼朝の家人・土佐坊昌俊が源義経の屋敷を襲うも、叔父・源行家が源義経に応戦したため、土佐坊昌俊は敗北となります。 源義経はこの襲撃が兄・源頼朝によって命じられたことであったのを知ると、兄・源頼朝の討伐を決意しました。 兄・源頼朝が迫ってきたことを知ると、源義経は西国での軍の立て直しを図ろうと、九州へと向かいます。 しかし、途中で暴風雨によって船は難破し、摂津国へと押し流されてしまいました。 その後、愛妾の静御前らを連れて吉野で潜伏しますが、ここでも兄・源頼朝の討伐軍に攻められ、静御前は捕らえられます。 討伐軍から逃げたのち京都での潜伏となるも次々と源義経周辺の関係者が兄・源頼朝の命で殺害され、 京都での潜伏に限界を感じた源義経は正妻と子を連れて藤原秀衡を頼りに奥州へと向かいました。 源義経の最期 藤原秀衡を頼って平泉に身を置いた源義経でしたが、文治3年(1187)10月に藤原秀衡が亡くなると、 藤原秀衡の嫡男・藤原泰衡が奥州藤原氏の当主となりました。 そんな新たな奥州藤原氏の当主・藤原泰衡に兄・源頼朝は源義経の捕縛を朝廷を通して強く命じます。 朝廷からの源義経の捕縛命令は数回あったようで、藤原泰衡は文治4年(1188)4月に 衣川の戦いで、源義経を襲撃しました。 この戦いで、源義経の郎党達が防戦するも源義経は一切戦わず、 正室・郷御前と4歳であった娘を殺害して、自害し、31歳でその生涯を閉じました。 源義経の伝説 優れた軍才の持ち主であった源義経は死後多くの伝説が語られるようになりました。 そのうちの1つとして 京都の五条大橋で武蔵坊弁慶と出会った伝説は最も有名な源義経の伝説の1つです。 武蔵坊弁慶との伝説 武蔵坊弁慶は紀伊国出身の僧衆であったとされている人物です。 勉学に励まず乱暴者であった弁慶は京都で1000本の太刀を奪うことを企て、次々と道行く人から刀を奪います。 とうとう999本の刀を奪ったところで、五条大橋で笛を吹き歩いていた源義経と出会い、弁慶はあと1本の刀を奪うため源義経に襲い掛かりましたが、源義経には敵わず、返り討ちににあいます。 それに驚いた 弁慶は降参し、源義経の家臣として従ったという伝説が残されました。 その後、弁慶は源義経が奥州へ向かった際も同行し、衣川の戦いの際は源義経を守るため 敵の矢を受けながら立ったまま絶命した弁慶の最期が語り継がれています。 チンギスハン説について 源義経は衣川の戦いで自害したとされていますが、実は生存しており奥州から蝦夷地に逃げたのでは。 という 不死伝説があります。 この伝説の延長として、蝦夷地に逃げた源義経が大陸に渡り チンギスハンになったとされるチンギスハン説が誕生しました。 このチンギスハン説は幕末以降に誕生したとされ、この説は明治、大正まで続き、大正時代に小谷部全一郎が源義経のチンギスハン説を調査したところ、源義経がチンギスハンだということを確信し「成吉思汗ハ源義經也」を出版します。 明治になると、源義経のチンギスハン説は否定されるようになり、現代では、チンギスハンの生年や父親の名前が判明していることから、源義経はチンギスハンであるというチンギスハン説は完全に否定されたものとなりました。 源義経の子孫 源義経は妻に、河越重頼の娘・郷御前を迎え、その他にも愛妾として静御前、平時忠の娘・蕨姫を迎えました。 正室・郷御前都の子供 源義経の子供には妻・郷御前との間に女児と男児が誕生しましたが、 女児については衣川の戦いで妻・郷御前と共に命を落としました。 男児については、源義経が奥州へと向かった際も妻・郷御前と女児と共に連れられたと記録されていますが、衣川の戦いでは妻と女児のみが亡くなったとされているため、男児の存在については未だ不明とされています。 愛妾・静御前との子供 静御前との間に、男児が誕生したとされていますが、生まれて間もなく源頼朝の命令によって殺害されたとされています。 源有綱と妻となった娘 この他にも、源有綱の正室となった娘が、源義経の娘であると推測されていますが、はっきりとはわかっていません。 このようなことから、 源義経の現代に続く子孫は存在していないとされています。 最後に 源義経は、平氏討伐で活躍するも兄・源頼朝によって討伐対象となり奥州で自害となりましたが、その生涯や源義経の軍才から多くの伝説が語り継がれ、最終的には史実とはかけはなれた源義経像となりました。 チンギスハン説が人々に広まった理由として、江戸時代にかけての蝦夷地に対する関心、領土の拡大や大陸進出を行っていた当時の日本社会の風潮などがあげられます。

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