檸檬 梶井 基次郎 解説。 梶井基次郎『檸檬』あらすじ|レモン爆弾が、憂鬱を吹っ飛ばす快感。

梶井基次郎『檸檬』のあらすじ、解説、感想などなど。

檸檬 梶井 基次郎 解説

1901年(明治34年)~1932年(昭和7年)• 感覚的なものと、知的なものが融合した描写が特徴• 孤独、寂寥(せきばく)、心のさまよいがテーマ• 31歳の若さで肺結核で亡くなった 作家として活動していたのは7年ほどであるため、生前はあまり注目されませんでした。 死後に評価が高まり、感性に満ちあふれた詩的な側面のある作品は、「真似できない独特のもの」として評価されています。 『檸檬』のあらすじ 精神的に疲弊している「私」は、あるとき果物屋で檸檬を見つけます。 その形状や香りを気に入った私は、檸檬を買って持ち歩きます。 そして、それまで避けていた丸善に入る決意をしました。 登場人物紹介 私 不吉な魂に苦しめられている男。 果物屋で見つけた檸檬を持ち歩く。 『檸檬』の内容 鮮やかな蘇生(そせい) 私の好きなもの 私は、「えたいの知れない不吉な塊」に苦しめられていました。 それは病気のせいでも、借金のせいでもありません。 その頃の私は、みすぼらしくて美しいものを好んでいました。 一方で、生活がまだ安定していたころの私の好きな場所は、丸善(書籍や文房具を扱う書店)でした。 しかし生活がすさんでからと言うもの、そこはむしろ居心地の悪い場所へと変貌してしまいます。 檸檬の力 ある日、私はお気に入りの美しい景観の果物屋で、檸檬を見つけました。 私は思わずそれを1つ買います。 紡錘(ぼうすい)の形や、冷たさ、香りは、私の心を軽くしました。 そのまま歩き、私は避けていた丸善の前にたどり着きます。 丸善爆破 丸善に入り、私は画集を手に取りました。 以前は画集に心を躍らせていましたが、今はただ重たく感じるだけです。 重たすぎて、元の場所に戻すこともできません。 いつの間にか私の前には、引き出した画集が山積みになっていました。 そんな時、私は檸檬のことを思い出しました。 そして急に元気になってきた私は、画集で城を作り上げます。 そしてその頂点に、檸檬を乗せました。 その時、ふいにあるアイデアが浮かんできました。 それは「檸檬をそのままにして、何くわぬ顔で外へ出る」というものです。 それを実行した私は、くすぐったい気持ちになりました。 そして、私は檸檬を爆弾に見立てて、丸善が爆発する創造をしながら、京都の町を歩いて行きました。 『檸檬』の解説 なぜレモン? カラーセラピーでは、黄色は明るさ・軽さ・興奮・危険・緊張という意味を持つと言われます。 黄色は明るく生き生きとしていて、インパクトのある色です。 そんな黄色一色のレモンは、独特の酸っぱさも特徴です。 柑橘系の果物と言うことで、鼻にまっすぐ届いてくる香りも印象的でしょう。 総じて、レモンは存在感のある果物だと言えます。 また本作でレモンは、 暗雲が立ち込めている状況を全く別物に変えるアイテムとして機能しています。 モノクロ映画で、レモンだけが鮮やかに着色されているような感覚です。 借金、病気、焦燥、嫌悪にさいなまれ、鬱々(うつうつ)とした主人公の前に突如現れるする爽やかなレモンは、読み手の気持ちもすがすがしいものにしてくれます。 ちなみに梶井基次郎の『闇の絵巻』という小説には、真っ暗闇で香り立つ柚子の木が登場します。 そこで柚子は、視覚を奪われた状態で、他の感覚が研ぎ澄まされていることを象徴するものとして機能していますが、単純に彼は柑橘系の果物が好きなのかもしれません。 丸善の役割 生活に余裕があったころ、「私」 にとって丸善は心を踊らせる場でした。 しかし借金まみれになってからというもの、 あんなに好きだった丸善は恐怖の対象となります。 このことから、 丸善は「えたいの知れない不吉な魂」 の象徴になっているのだと考えました。 ですがレモンを手に入れてから、「私」 は再び丸善に乗り込みました。 そして丸善にレモンを置いてきて、 それが爆弾だったらと想像して「私」は愉快になり、 丸善がこっぱみじんになることを考えます。 これは、丸善=「えたいの知れない不吉な魂」をぶち壊すことで、 かつての自分から決別することを意味しているのではないかと思 いました。 もう一つ、丸善に打ち勝ったことを象徴している部分があります。 それは、レモンを画集で作った城のてっぺんに乗せたことです。 画集は丸善で売られている物であるので、 丸善の属性を持っています。 このことは、 恐れていた丸善ひいては「えたいの知れない不吉な魂」より、「 私」 が優位になっていることを暗に示しているのではないかと考えまし た。 果物屋 またそこの家の美しいのは夜だった。 (中略)それがどうしたわけかその店頭の周囲だけが妙に暗いのだ。 (中略)しかしその家が暗くなかったら、あんなにも私を誘惑するには至らなかったと思う。 (中略)そう周囲が真暗なため、店頭に 点 つけられた幾つもの電燈が 驟雨 しゅううのように浴びせかける 絢爛 けんらんは、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。 小説の中で、果物屋の描写だけが占める割合はかなり多いです。 このことから、「私」にとってこの果物屋は、大きな感動を与えてくれるものであることが読み取れます。 梶井基次郎は数々の作品で「光と闇」をテーマにしてきました。 この果物屋の描写から分かるように、『檸檬』にも光と闇のコントラストが描かれています。 「このような美しい果物屋に、人の心を健やかにさせる檸檬があることは必然だ」と言われているように感じます。 『檸檬』の感想 日常に価値を見出す天才 梶井基次郎の作品には、 共感覚 感覚は個々に存在するのではなく、連動しているというもの。 例えば、共感覚を持つ人は文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする が盛り込まれることが多いです。 それからまた、びいどろという色硝子 ガラス で鯛や花を打ち出してあるおはじきが好きになったし、南京玉 なんきんだま が好きになった。 またそれを嘗 な めてみるのが私にとってなんともいえない享楽だったのだ。 あのびいどろの味ほど幽 かす かな涼しい味があるものか。 引用部は、私が1番好きな共感覚が描かれている箇所です。 見れば見るほどドロップに見えてくる不思議なガラスを、子供の時につい口に入れたことがある人はいるのではないでしょうか。 食べる前は、飴玉を頭の中に思い浮かべて、「きっとこれは甘い」と想像するのに、いざ口に入れてみるとなんてことないただのおはじきなのです。 ところが、梶井基次郎はそれを「幽かすかな涼しい味」と表現しました。 子供のころ口に含んだおはじきはなんの味もしませんでしたが、確かに涼しい味がしたような気がします。 日常生活でも、友人と話したり、少し散歩に出てみるだけで、引きずっていた悩みを気付かないうちに忘れていることがあります。 そういう時ばかりは、自分のものであっても、 「心は何がきっかけで動くか分からないな」と思います。 最後に 今回は、梶井基次郎『檸檬』のあらすじと内容解説・感想をご紹介しました。 個人的に、非常に好きな終わり方をする小説です。 私は落ち込んでいた気分から回復しする時、 平常時よりも有頂天になる気がします。 心が生き返った嬉しさと言えるような感覚です。 そのように浮き足立っている時というのは、いつもはできないようなこと、 常識では理解されないようなことをやってみたくなります。 周囲の人に顔をしかめられても、 舞い上がった気分がそうさせます。 丸善で、 売り物の画集を積み上げて1番上にレモンを置いてきた「私」も、 こんな気持ちだっただろうかと考えます。 そのような時に、私は「それにしても心というやつはなんという不思議なやつだろう」と思います。

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檸檬 (小説)

檸檬 梶井 基次郎 解説

目次 [閉じる]• あらすじ 得体の知れない不安に苛まれる私 得体の知れない不吉な塊が私の心を抑えつけており、居たたまれなくなった私は街から街を浮浪し続けました。 その頃の私は裏通りのような見すぼらしく美しいものに強く惹きつけられており、そんな路を歩きならがらここは京都ではなくどこか遠い所なのだと想像し、その中にいる現実の自分自身を見失うのを楽しんでいました。 以前は丸善で雑貨や画集を見るのが好きでしたが、今は重苦しい場所にしか見えなくなっていました。 今の私が最も好きな場所は果物屋であり、そこに並ぶ果物の美しさが好きでした。 レモンとの出会い ある日果物屋に珍しく置かれていた檸檬を買ったのですが、それから街を歩くと心を抑え付けていた不安がいくらか緩んできました。 檸檬を嗅ぎ産地のカリフォルニアに思いを馳せて深々と空気を吸い込むと、元気が沸いて幸福な気持ちになります。 どこをどう歩いたのか、ふと気づくと普段避けていた丸善の前にいました。 今日は一つ入ってやろうかと試してみると、それまでの幸福な感情はなくなり段々と憂鬱になっていきました。 本棚から出した取った画集をパラパラとめくってもかつて私を惹きつけた感情は沸かず、途中で気が重くなって本を元の場所に戻すことすらできずそこに置いてしまいます。 私は何度もそれを繰り返し積み上がった本の山を見ていました。 しかし檸檬の事を思い出すと興奮が蘇り、画集を積み上げて城を作り、城壁の頂に檸檬を乗せました。 そしてそのまま何食わぬ顔で店を出て行ったのです。 私はあの檸檬が実は爆弾で十分後に爆発したら面白いのにと想像しました。 「そうしたらあの気詰まりな丸善も木っ端みじんだろう」そんなことを考えながら街を去りました。 感想 この話を端的に言えば、得体のしれない不安を抱えていた「私」が想像によって自分を慰め、テロリストになって爆弾を仕掛けた妄想をしながら帰ったというだけのものです。 ただそれだけの話ではありますが、この話の読了感はそれに留まらないことでしょう。 全体的に薄暗く灰色の印象がありますが、檸檬だけがとりわけ鮮やかな色を持っています。 檸檬は妄想を、丸善は現実を象徴する存在であり、檸檬に耽る間だけは世界が鮮やかに彩られるのです。 この話を読むとなぜだか心がざわつき、「私」にシンパシーのようなものを感じた人も少なくないのではないでしょうか。 誰しも得体のしれない不安に押しつぶされそうな時期があり、檸檬はそんな時期の心の機微を描いた青春小説と言えるでしょう。

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梶井基次郎『檸檬』ってどんな話?作品の内容を詳しく解説

檸檬 梶井 基次郎 解説

登場人物 私 京都に住んでいるが、身体の調子が悪く借金も気になり焦燥にかられる主人公 あらすじ ネタバレあり 得体の知れない不吉な魂とは何か。 主人公の私は、肺尖カタルや神経の衰弱、そして借金に追われる貧乏な生活を送っています。 それは、若さからくる将来への不安感、そこで引き起こされる焦燥感や嫌悪感。 なにか体にこびりつくような心身の疲労を通して、感受性だけが鋭く研ぎ澄まされていきます。 今まで自分が幸福に感じた美しい音楽や、美しい詩の一節にも、こころは休まることなく、街から街へ彷徨い続けていきます。 私が、好きになったものは、花火。 そして日常生活の中の色彩。 そんな私は、見すぼらしいけれど美しいものに、強くひきつけられます。 街ならば、よそよそしい表通りよりも、生活臭のある裏通りに、雨や風にさらされ蝕まれ、やがて土に戻るような場所。 そこに、大きな 向日葵 ひまわりやカンナが咲いていたりすると、尚更に良いと思えます。 住んでいる京都に、仙台とか長崎とか違う街の、違う風景を重ね合わせ、その幻想の中に、自分を見失ってしまうことを楽しんでいます。 そして、日常のちょっとしたものが好きになります。 例えば、駄菓子屋で売っている花火のセット、安っぽい絵具で赤や紫や黄や青が着色され、縞模様が束になったもの。 ねずみ花火が輪になっているのもなぜか心をそそられる。 また、びいどろの色ガラスで、鯛や花のデザインをほどこしたおはじきや南京玉。 びいどろを、なめた時のかすかな涼しい味、ほのかな爽やかな詩の美しさのような味覚を感じる。 安くて、贅沢で、美しく、媚びてくるものが、私を慰めてくれます。 生活が、蝕まれていないころには、丸善が好きだった。 以前の私は、書店の丸善が好きでした。 そこにあるヨーロッパから輸入された舶来のものや高級なもの。 かつては、赤や黄のオーデコロンやオ-ドキニン。 洒落た 切子細工 きりこざいくや、典雅なロココ趣味、浮模様を持った琥珀色や翡翠色の香水壜。 煙管 きせる、小刀、石鹸、煙草などのデザインやフォルムなどの造形を見ていました。 それは、先進的でモダンでお洒落な象徴。 そうして、高価な鉛筆1本を買う贅沢を楽しみました。 ところが今は、そんな丸善の全てが重苦しい場所になっています。 ふと果物屋に、檸檬を見つける。 私は、あの檸檬が好きだ。 私は、駄菓子屋や乾物屋を過ぎ、果物屋で足をとめます。 その果物屋では、黒い漆の台の上に果物が、彩り豊かにボリュームたっぷりに並んでいました。 夜は、周囲の飾窓の光をさえぎり、そこだけが暗く、店頭の電燈が 驟雨 しゅううのように果物に浴びせかけられ、絢爛で、ひときわ美しかった。 そしてそこに、珍しく檸檬があった。 私は、あの檸檬が好きだ。 レモンイエローの絵具をチューブから搾り出して固めたような単純な色、丈の詰まった紡錘形の恰好。 私は、檸檬をひとつだけ買います。 檸檬を握った瞬間から、幸せな気持ちになった。 そうすると、あの不吉な塊が、檸檬を握った瞬間から緩んできてとても幸福になりました。 肺を病み、熱を帯びた身体に、浸み透っていく檸檬の冷たさが、とても心地よかったのです。 鼻に近づけ匂いを嗅ぐと、生産地カルフォリニアを思い起こし、強い匂いが鼻を刺激します。 ふかぶかと胸いっぱいに、匂やかな空気を呼吸すると、病気の身体が元気になるようでした。 そうして、幸せな気分で街を軽やかに興奮に弾んで闊歩します。 丸善に入り、檸檬の爆弾を仕掛ける。 丸善の前に来ます。 平素は避けていたのですが、その時はずかずかと入って行きました。 そうすると、今まで私の心を満たしていた幸福な感情は、まただんだん無くなっていきます。 香水にも、煙管にも心は向きません。 集の棚でも、重たいものを取り出すのがつらい。 以前は、あんなに私をひきつけた画本にも興味がなく、手当たり次第に画本を積み上げ、奇怪で幻想的な画集の城をつくりました。 そして頂に檸檬を据え付けてみます。 檸檬の色彩は、ガチャガチャした色の諧調を、紡錘形の中へ吸収し、カーンと冴えかかっていました。 私は丸善の棚へ、黄金色に輝く恐ろしい爆弾を仕掛けて出ていきます。 不吉な塊とは、梶井基次郎の肺結核からくる死への不安や借金苦、あるいは、なかなか得られなかった小説家としての評価などもあるのかもしれません。 この塊は、街をさまよいます。 これまでは、丸善の舶来ものの造形美が趣味で憧れでした。 それが今では、全くそそられないのです。 より普通だったり俗っぽいもの、自然や日常のモノにある色彩の感覚に寧ろ安らぎを感じます。 小さいころの遊び道具や、京都の伝統の祭りや行事のなかの色彩が、美しく頭の中を巡っていきます。 そして、街を彷徨している中で、夜の闇に、ぽつりと佇む果物屋を見つけ、そこに檸檬がありました。 ひとつの檸檬の色や形、重さに心身的な安らぎを感じます。 檸檬は、全てを凝縮してくれた完璧なものだったのです。 檸檬のもつ単純な冷覚や触覚や視覚、そして重さが、病んだ精神や肉体をとても癒してくれます。 かつて耽溺した画集などは、触り見ることも億劫で、画集を積み上げ、城に見立て、その頂に檸檬を据え付けて出ていきます。 それは秘かに、豊かさや舶来の象徴としての丸善を無きものにする企みでした。 10分後、気詰まりな丸善が爆発するのを連想しとても愉快な気持ちになります。 そして活動写真の看板画が、奇体な赴きで街を彩る京極を下っていきます。 檸檬に、世の中の全ての不吉なものを閉じ込めて、その全てを幸せに凝縮して吹き飛ばす不思議。 何という無邪気なたくらみ、そして美しいたくらみなのでしょう。 梶井基次郎著「檸檬」色彩を楽しみ五感で感じながら読みたい作品です。 その後の三高時代の自身の内面をまとめてみたり、以前の日記の中の草稿などから「檸檬」として独立させます。 梶井の代表作というだけでなく、感覚世界を強く描き出したところは日本文学の傑作として小林秀雄、鈴木貞美、三島由紀夫など多くの作家たちに評価されています。 登場する果物店「八百卯」も「書店・丸善」も今は無いが実在した。 発表時期 1925 大正14 年1月、同人誌『青空』に掲載。 梶井は24歳の時。 その後、単行本として1931 昭和6 年5月、31歳の時に武蔵野書院より創作集『檸檬』刊行。 この表題作、中に17編の短編が収録されている。

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