毛利 庭園 生誕 の 地。 毛利庭園

2020年 毛利庭園へ行く前に!見どころをチェック

毛利 庭園 生誕 の 地

毛利元就とは? 出典: 毛利元就(もうり もとなり)は、戦国時代の武将です。 大内義隆(おおうち よしたか)を殺した陶晴賢(すえ はるたか)を、厳島(いつくしま)で破りました。 さらに、宿敵・尼子氏をを滅ぼし、西国10か国をおさめる太守となりました。 毛利元就の生い立ちと生涯 出典: 生まれ 名前:毛利元就(もうり もとなり) 幼名:松寿丸(しょうじゅまる) 出身地:安芸国(広島県)吉田荘の郡山城(こおりやまじょう) 生誕:1497年3月14日 死没:1571年6月14日 家族 父:吉田郡山城主・毛利弘元 母:福原広俊(ひろとし)の娘 兄:興元(おきもと) 姉:宮姫(のちの武田某室) 家紋 毛利家の家紋: 一文字三星紋(いちもんじにみつぼしもん) 孤独な少年時代 元就は、兄・興元が郡山城主を継いだため、4歳で父に連れられて猿懸城に移り住みました。 しかし、まもなく父母ともあいついで亡くなり、元就はわずか10歳でひとりぼっちになってしまったのです。 さらに、かれの後見人である井上元盛(もともり)は横暴な人で、 元就は15歳の頃城から追い出されてしまいます。 元就はその後、亡き父の後妻・杉の大方のもとで育てられました。 郡山城主となる 元就が27歳になったとき、かれの身の上に突然、大きな変化がおとずれます。 郡山城を継いだ幸松丸(兄・興元の長男)が、わずか9歳で亡くなったのです。 そのため1523年8月、元就は、重臣に迎えられて郡山城主に入り、毛利の本家を継ぐことになりました。 それからまもなく、元就の異母弟・元綱(もとつな)が、尼子氏の支援のもと謀反を企みます。 これを知った元就は、ただちに元綱を攻め滅ぼしました。 計略家元就 この頃、元就のいた吉田荘は、山陰の尼子氏と山陽の大内氏という二大国にはさまれ、いつ滅ぼされるか分からない不安な状態にありました。 毛利家はしばらく尼子氏側についていましたが、 1537年元就は長男・隆元を人質として大内義隆にさしだし、以後大内氏に従うようになります。 大内氏の力を味方につけた元就は、近隣の土豪をあらゆる手段(武力のほか、縁組・懐柔・離間など)をもちいて平定。 やがて、大敵・尼子氏との戦いをむかえることになりました。 1540年9月、尼子晴久の3万の大軍が、元就の郡山城を取り囲みました。 元就は、領民を城の中へ避難させて籠城。 尼子氏に偽の情報をおくり、攻め込みやすい青光井山に布陣させるという計略をはかります。 そして翌年1月、大内氏と連合して尼子軍を討ち破りました。 「毛利の両川」体制を築く 大内氏は、尼子氏をたおすため、出雲遠征にふみきりました。 この遠征で、元就は大内軍の先鋒として活躍します。 しかし、尼子氏に寝返る豪族があいついだため、撤退を余儀なくされました。 これらの戦いによって、尼子・大内という二大勢力は、おたがいにその力が弱まります。 元就にとって、これは有利な展開となりました。 自身の勢力を強めるため、元就は策を練ります。 それは、山陰の国境の強敵・吉川氏に、 次男・元春(もとはる)を養子としてさしだすこと。 そらに、瀬戸内沿岸の豪族・小早川家には、 三男・隆景(たかかげ)を養子としてだすことにも成功。 これらは「毛利の両川(りょうせん)」と呼ばれ、その作戦の巧妙さ、元就の欲の深さに周囲はみなおどろいた、といわれます。 厳島の戦い 1551年、元就はすでに55歳。 大内家の家臣・陶晴賢が主君・義隆を自害に追い込み、大内家の実権をにぎります。 この謀反を、元就が見逃すはずはありませんね。 元就は、陶軍を厳島におびきだし、村上水軍によって船団を壊滅させ、退路をたちます。 そのうえで、毛利軍・小早川軍が奇襲をかけ、陶軍をほろぼしたのです。 これが世にいう、 厳島の戦いです。 宿敵・尼子氏に勝利する 残るは、大内義長(よしなが)と尼子氏。 1557年、元就は義長を討ち、大内氏をほろぼします。 1563年、宿敵・尼子氏を攻めますが、遠征中に長男・隆元が急死します。 隆元の弔い合戦となったこの戦いは、兵糧攻めによってついに元就の勝利が決まりました。 その後、毛利氏の勢力は中国地方から九州におよび、西国に覇権をとなえるまでになります。 元就は一代にして10か国の太守となったのです。 毛利元就の人生年表 1497年 3月14日、毛利弘元(ひろもと)の次男として誕生。 1500年 兄・興元(おきもと)、家督を相続。 父とともに猿懸城(さるがけじょう)に移り住む。 1501年 母・福原氏が亡くなる。 1506年 父・弘元が亡くなる。 1511年 元服して少輔次郎元就と称する。 1515年 兄・興元に長男・幸松丸(こうまつまる)が誕生。 1516年 兄・興元が病死する。 興元の子・幸松丸が2歳で後継ぎとなり、元就が支える。 1517年 武田元繁との戦い(初陣)で、これを破る(有田・中井出の戦い)。 この頃、吉川国経の娘をめとる。 1523年 長男・隆元(たかもと)が生まれる。 8月10日、幸松丸の死去にともない、元就が毛利家の家督を継ぐ。 1524年 異母弟・元綱(もとつな)の謀反を知り、元綱を討つ。 家中統一に成功する。 1528年 尼子氏を見限り、大内氏に従う。 1530年 次男・元春(もとはる)が生まれる。 1533年 三男・隆景(たかかげ)が生まれる。 1540年 尼子氏の大軍に郡山城を囲まれる。 以後、激戦が続く。 1541年 大内氏と連合して尼子軍を撤退させる。 1542年 大内氏に従い、出雲に出陣する(先鋒として活躍)。 1543年 尼子氏に寝返る豪族があいつぎ、大内軍は撤退をよぎなくされる。 1544年 三男・隆景を小早川家に養子にだす。 1545年 妻(正室)が亡くなる。 1546年 長男・隆元に家督をゆずる。 1547年 次男・元春を吉川家に養子にだす(「毛利の両川」体制)。 1549年 発病する。 1551年 大内家の家臣・陶晴賢(すえ はるたか)が主君を裏切り、大内家の実権をにぎる。 1555年 厳島で陶軍を滅ぼす(厳島の戦い)。 1557年 大内氏を攻め滅ぼし、周防と長門(ともに山口県)を勢力下に加える。 3人の息子たちに、毛利家の団結を呼びかける(三本の矢の教え)。 1563年 宿敵・尼子氏を攻めるが、遠征中に長男・隆元が急死。 1566年 尼子義久を破り勝利する。 陣中にて病気が再発するが2ヶ月後に全快。 1567年 末子・秀包(ひでかね)が生まれる(母は乃美の方)。 1570年 孫・輝元とともに出雲に出陣。 尼子勝久を討つ(布部山の戦い)。 1571年 吉田郡山城で病死する(75歳)。 毛利元就の性格と人物像エピソード 元就の少年時代は孤独でみじめなものでした。 父の死後まもなく、後見役の井上元盛に所領の多治比三百貫を横領され、城からも追い出されるという、ひどい目に遭っています。 のちに元就は、この頃のことを思い出して、三男・隆景に、 「わたしは、これまで40年もの間まるで井上氏の家来のように服従し、これを耐え忍んできた。 その悔しさをわかってもらえるだろう」 と語っているのです。 このような幼い頃からの苦労と忍耐の日々が、元就のその後の人生に大きな影響を与えたことは間違いないでしょう。 三矢の教訓 小さな領主からのし上がり大大名となった毛利元就。 そのためか、元就は「互いに団結し、対等の立場で協力し合えば大きなことができる」という考えをもち、絆を大事にする大名でした。 3人の息子に三本の矢をおくった、という話は有名ですね。 ・有名な三本の矢の話 「一本の矢ではたやすく折れるが、三本が束になるとなかなか折れぬ。 お前たちもこの矢のように毛利の繁栄のため、この先も三人で力を合わせるのだぞ」 しかし、この話はのちに創られたものといわれています。 これとは別に、毛利家には全文14ヶ条からなる元就自筆の教訓状が残されています。 有名な三本の矢の話は、この教訓状に書かれている「三矢の教訓」のことを指しているのです。 ・三矢の教訓の大まかな内容 「毛利家が永続し、吉川・小早川の両家が栄えるためには、三人はもちろん、三家がたがいに協力することが大切である」 「隆元は弟二人をたよりにし、弟二人は本家を大事にするように」 毛利元就の偉業や逸話 育ての親、杉の大方 幼少期、孤立無援だった元就に救いの手をさしのべたのが、多治比の土居屋敷にいた亡父の側室・杉の大方でした。 杉の大方は、実の母のごとく元就を慈しみ育てたのです。 元就が15歳のとき無事元服をすませられたのも、この杉の大方殿の尽力があったからだといわれています。 念仏十遍 元就は、11歳のとき、杉の大方にともなわれて井上光兼(みつかね)邸におもむき、客僧の念仏会に参会して、仏の慈悲の思想に触れています。 その頃から元就は、朝日に向かって十回の念仏を唱え、以後、生涯を通じて一度もこれを行わない日はなかった、といわれています。 人材不足 一代で10か国の太守となった元就の悩みは、人材不足であったといわれています。 とくに、国人領主層の経営能力のある者が少なく、適任者が見つかりません。 そのため、獲得した領地で経済的重要度の高い地域は、元就の直臣を派遣していました。 毛利元就の死因と最期 1570年、元就は腹部に異常な痛みを感じ、以来病床にふすこととなります。 かれの病は、 食道がんであったとされています。 それでも、一時は快方に向かうかに見えました。 これは、がん特有の症状です。 1571年3月、やや健康を回復した元就でしたが、4月に再度吐血。 5月には病状が悪化し、昏睡状態が続きました。 そして、6月14日午前8時、郡山城内で75年の生涯を閉じました。 毛利元就の妻や子孫 妻・妙玖(みょうきゅう) 元就の正室・妙玖は、安芸山県郡新庄小倉山城主吉川国経の娘。 妙玖という名は法名であり、実際の名は不明です。 1517年頃に元就に嫁いだと思われ、隆元、元春、隆景ほか女一名の三男一女をもうけました。 元就のよき内助者であり、一族団結の要であったと伝えられています。 元就は、妙玖を大切にし 愛妻家であったことも有名です。 孫・輝元(てるもと) 隆元の長男で元就の孫・毛利輝元は、 関ヶ原の戦いで西軍の総大将をつとめています。 毛利元就の名言 「ほんとうの友は一人もいない」 毛利元就は、よく酒をのんでは、こうつぶやいていたそうです。 戦国の世、知力や武力にすぐれた者は、必ず天下というトップをねらう時代です。 すぐれた資質を持つ者どうしは、必ずライバル関係にならざるを得ない。 元就は、トップを目指すものとして、孤独をも受け入れなければならない事実を実感していたのです。 毛利元就のゆかりの地 吉田郡山城跡の毛利元就墓所 出典: かれは、郡山城主となって以来、一貫してここをすべての拠点とし、さらには人生の最期もここで迎えました。 元就の生誕と永眠の地である広島県高田郡吉田町には、その郡山城跡を中心に多くの史跡が点在しています。 墓 元就のお墓は、吉田町歴史民俗資料館の右わきの坂を上っていったところにあります。 墓標のかたわらには、元就が郡山城を拡張するときに人柱に代えて埋めさせた 「百万一心碑」が立っています。 元就の、城を守るうえでの基本精神を象徴するものです。 城・城跡 郡山城本丸跡は、元就の墓所から山道を上ったところにあります。 毛利氏256年間の居城で、全山を城郭化した山城として全国的にも規模が大きいものとなっています。 木がうっそうと生い茂り眺望はよくありませんが、遊歩道が整備され、 鎧姿の元就の銅像をみることができます。 神社・寺院 郡山の南麓には、スサノオノミコトを祀る由緒ある神社が存在。 八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の伝説の地として有名です。 元就も厚く帰依した、とされています。 ・毛利元就 NHK大河ドラマ 毛利元就生誕500周年記念作品として製作された、NHK第36作目の大河ドラマです。 1997年1月5日~12月14日に放送されました。 参考文献• 『図説学習 日本の歴史6 ものがたり人物事典』(旺文社)• 『ビジュアル・ガイド 毛利元就』(PHP研究所).

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毛利庭園へのアクセスと入場料。桜の開花時期と入場割引、イルミ情報。

毛利 庭園 生誕 の 地

概要 六本木ヒルズの敷地内にある池泉回遊式庭園。 平日はサラリーマンや近隣住民、休日は観光客の憩いの場になっています。 横にテレビ朝日があるので、当局の天気予報の撮影もここで行われています。 慶安3年(1650年) 毛利元就の孫、秀元が上屋敷を設け、庭園が造られました。 その後、吉良邸討ち入り後の赤穂浪士10名が毛利家に預けられ、ここで武士の本懐を遂げたことでも知られています。 また、乃木希典陸軍大将の生誕地でもあり、歴史的に貴重な場所となっています。 明治時代になると、中央大学の創始者である増島六一朗が明治20年(1887年)自邸として取得し、庭園を芳暉園と名付けました。 昭和になると、昭和27年(1952年)ニッカウヰスキーの東京工場、昭和52年(1977年)にはテレビ朝日と所有者が変遷し、平成15年、再開発に伴い六本木ヒルズが建設され、同時に毛利庭園として生まれ変わりました。 面積約4,300㎡ 感想 テレビ朝日の報道ステーションで、お天気お姉さんのバックに映っている毛利庭園に行ってきました。 新しい庭園ですが、毛利と名が付いているだけあって、歴史を調べると様々なドラマを知ることができます。 このため、ニッカウヰスキー工場時代、年1回住民に開放され親しまれていたニッカ池を、現在の池の下に埋土保存し、将来の遺構発掘の可能性を残しているなど歴史に配慮した庭園造りを行っているのでしょう。 この手法は奈良の東院庭園を思い出させてくれますね。 園内は池泉回遊式庭園ですが、テレビ朝日側に芝生スペースがあり、庭園と公園を合体させたような都会的庭園になっています。 テレビ朝日の反対側の散策路は趣が少し変わり、場所によっては樹木のカーテンで深山を思わせるような演出を感じさせます。 樹齢300年と言われているシンボルツリーのイチョウは、高さ20メートル、目通り4.66メートル、葉張り15メートルの巨木です。 この木は1994年に移植されたものなので、毛利庭園に来たら是非見て下さい。 作業の大変さが目に浮かびますね。

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毛利庭園(毛利甲斐守邸跡)

毛利 庭園 生誕 の 地

ページコンテンツ• 毛利庭園の歴史と魅力 まずは、毛利庭園の歴史について押さえておきましょう! 毛利庭園の歴史:江戸時代 六本木ヒルズの敷地内にある毛利庭園、その歴史は江戸時代から始まります。 年代毎の主な出来事について見ていきましょう。 1650年(慶安3年) 毛利元就の孫である秀元が初代長府藩主として上屋敷を麻布日ヶ窪の地(現在の六本木6丁目)に建設し、その庭園が現在、毛利庭園と呼ばれています。 1702年(元禄15年) 赤穂事件が起こり、吉良邸討ち入った赤穂浪士の岡島八十右衛門ら10人が毛利家に預けられました。 1718年(享保3年) 第5代藩主であった元矩が亡くなり、後継ぎがいないことから、長州藩は一時断絶になりましたが、清末藩主の匡広が長府藩を相続したことにより再興することができました。 1849年(嘉永2年) 陸軍大将となる「乃木希典」が、長府藩上屋敷の侍屋敷で三男として生まれ、幼年期9年をこの日ヶ窪屋敷で過ごしました。 1865年(元治2年) 堀田相模守がこの日ヶ窪屋敷を拝領しました。 毛利庭園の歴史:明治・大正時代 時代は変わり、1887年(明治20年)、中央大学の創始者である「増島六一郎」氏が自邸として当地を取得し、その庭園を「芳暉園」と名付けました。 「乃木大将誕生地」として、旧跡指定(現東京都旧跡)を受けました。 毛利庭園の歴史:昭和時代 1943年(昭和18年) 「毛利甲斐守邸跡」として旧跡指定(現東京都旧跡)を受けました。 1952年(昭和27年) ニッカウヰスキーの東京工場となり、1977年(昭和52年)には、テレビ朝日が当地を取得。 池は「ニッカ池」と通称されていました。 毛利庭園の歴史:平成 1998年(平成10年) 六本木六丁目地区市街地再開発組合が設置されました。 2000年(平成12年) 再開発事業の着工。 2003年(平成15年)に「六本木ヒルズ」がオープンし、現在の「毛利庭園」として誕生しました。 毛利庭園と赤穂浪士 毛利庭園と赤穂浪士の間には実は密接な関係があります。 1702年(元禄15年)、吉良邸討ち入り後、赤穂浪士である岡島八十右衛門・吉田沢右衛門・武林唯七・倉橋伝助・村松喜兵衛・杉野十平次・勝田新左衛門・前原伊助・小野寺幸右衛門・間新六の計10人が毛利家に預けられました。 その他の赤穂浪士についても、それぞれ細川、松平、水野の3家に分けて預けられました。 その当時の様子が詠われた「細川の水の流れは清けれど、ただ大海の沖ぞ濁れる」という狂歌をご存知ですか。 これは預かった4家の浪士に対する待遇を表しており、細川家と水野家は赤穂浪士たちが恐縮するほどの好待遇でもてなし、毛利家と松平家は罪人として冷遇しました。 しかしながらそれを知った庶民からの批判により、二家は態度を改めたそうです。 1999年の再開発前までは、毛利庭園の池の中島には「赤穂浪士切腹の碑」と毛利家に預けられた赤穂浪士たちの名前が書かれた高札がありましたが、現在は撤去されています。 毛利庭園と乃木希典 現在、毛利庭園にある池は「毛利池」という名前です。 再開発がされる前ここには「ニッカ池」と呼ばれる池がありました。 名前の由来はかつてこの場所にニッカウヰスキーの東京工場があったところからきています。 また、工場を稼働して最初のころは、井戸を掘りその水をブレンドに使っていたそうです。 現在その池の姿は再開発にあたって、毛利池の下に隠されてしまいました。 埋め立ててしまったのではなく、将来のさらなる発掘調査などの可能性を残すため、埋土保存をおこなったのです。 埋土保存とはニッカ池の池底を固めるとともに周辺の地盤改良を行い、防護シートで覆うことです。 この埋土保存によって、歴史的遺産としての将来性を担保することが可能になったのです。 毛利庭園の楽しみ方 続いては、毛利庭園の楽しみ方をご紹介したいと思います。 毛利庭園と大銀杏・ソメイヨシノ 毛利庭園には長年大切に育てられてきた樹木が数多くありました。 そのため再開発にともない、ソメイヨシノや銀杏などの樹木を一部残すことが決められました。 特に、歴史性を伝えるためのシンボルツリーである樹齢約300年を超える大銀杏の移植は大掛かりな作業になりました。 保存が検討された樹木の中で最も大きな木で、当時は高さ20m、幹の幅が約5m、枝の広がりが15mという大きさだったからです。 しかしながら、慎重な作業により無事移植を完了することができました。 今では、紅葉の季節や冬のイルミネーションなど一年を通して毛利庭園を訪れる人々を楽しませています。 もう一つのシンボルツリーとして移植された8本のソメイヨシノをはじめ、園内にはソメイヨシノ8本、ヨウコウ3本、シダレザクラ2本の桜の木があります。 これらの桜は春には満開の桜を咲かすため、花見の名所として知られています。 【例年のライトアップ期間】 3月下旬~4月中旬 (桜の開花に合わせて) 【ライトアップ時間(参考時間)】 17:30~23:00(毛利庭園) 17:30~22:30 六本木さくら坂 【ライトアップの場所】 毛利庭園 六本木さくら坂 毛利庭園とイルミネーション・ライトアップ 毎年、クリスマスが近づくと「Roppongi Hills Artelligent Christmas」というイベントが行われます。 このイベントでは「毛利庭園」のライトアップが行われます。 池のほとりを幻想的な明かりが照らすことで、まるで星の海を歩いているような気分になることでしょう。 毛利庭園では、シャンデリアのようなきらびやかなオブジェやアイスショーをイメージとしたオブジェなど毎年工夫を凝らしたオブジェが水上を華やかに彩ります。 青と白の凛とした氷の輝きのようなアイスカラーや、温かみがある淡いオレンジカラーでロマンティックな世界を、幻想的な光で満たします。 【例年のライトアップ期間】 11月中旬~12月25日 【ライトアップ時間(参考時間)】 17:00~23:00(毛利庭園)時期によっては24:00まで 【ライトアップの場所】 毛利庭園 毛利庭園とハートのオブジェ ここで面白いスポットをご紹介しましょう。 毛利庭園の池の中にはハートに見えるオブジェがあることをご存知ですか。 「Kin no Kokoro」という名称で池の中にあり、ぱっと見ただけではハートに見えない不思議なオブジェです。 これは六本木ヒルズと森美術館の10周年を記念し造られました。 ハート形に弧を描く金箔の連珠は、面白いことに、見る位置、角度によって形が変化して見える作品です。 この変化する形は四季折々に変化する日本の自然、そして毛利庭園という江戸時代から続く歴史的景観になじんでほしい。 という作者の思いを反映した形だそうです。 ちなみに、ハートに見えるのはちょうど真正面や真後ろに立った時です。 このハートはかなり大きいのでその中に納まるように写真を撮ることができます。 ここでハートの中に収まるようカップルで写真を撮ればデートの良い記念になることでしょう。 毛利庭園と宇宙メダカ 毛利庭園内の「毛利池」には通称「宇宙メダカ」と呼ばれる名物メダカがいることはご存知ですか。 「宇宙メダカ」は、1994年、宇宙飛行士の向井千秋さんとスペースシャトル、コロンビア号で宇宙旅行を行い、宇宙の無重力環境で脊椎動物として初めて生殖(産卵)行動を行ったメダカから来ています。 この実験の代表研究者である東京大学の井尻憲一博士が帰還した4匹の親メダカと宇宙で誕生した子供達たちを日本に持ち帰り、繁殖したメダカを「宇宙メダカ」と命名しました。 そして、生還した宇宙メダカを大切に育ててきた仲間達が井尻博士を名誉会長に戴き結成した会が「宇宙メダカ研究会」です。 なぜ、その「宇宙メダカ」が「毛利池」に放流されているのか。 もともと宇宙メダカを一般の河川に放流することや、野生のメダカと交配をすることは生態系を乱す可能性があるため禁止されています。 そこで毛利池が外部の河川とは接続の無い閉鎖水域で自然への影響がないこと、六本木ヒルズの来街者に憩いを提供すると共に、子供達の知的好奇心を満たし、更には学校教育の振興にも寄与できることなどから、六本木ヒルズの運営に携わる「森ビル株式会社」と「宇宙メダカ研究会」が、宇宙メダカの放流を決定したからです。 そして、2003年7月25日に宇宙飛行士の毛利衛さんと約800名の里親達、宇宙メダカ研究会により、およそ1万匹の宇宙メダカが毛利池に放流され、現在も毛利池でその姿を見ることができます。 毛利庭園とカルガモの親子 毛利庭園には名物親子がいることをご存知ですか。 その正体は、「カルガモの親子」です。 2004年以降、毎年やってきます。 どこから来たのかはわかっていませんが、彼らも毛利庭園おなじみの顔です。 2004年5月にテレビで初めて発見されました。 やがて、かわいいヒナが誕生し、急遽設置した小屋からエサをつっつき、お客さまを楽しませていたのも束の間、数か月後には家族みんなで毛利庭園を去っていきました。 彼らのために専用のガードマンが置かれ、カラスなどの外敵を追い払うことや、道路を横断する際の手伝いなどが行われ超VIP待遇を受けていたことで二ユースにもなったほどです。 毛利庭園と季節の花々 庭園では、四季を通して様々な花や樹木を楽しむことができます。 春には鮮やかなシクラメンのレッドカーペットがひかれ、チューリップの華やかな花が彩を添えます。 普段はショッピングやグルメで満足してしまいがちな六本木ヒルズ、そのすぐ近くにある毛利庭園には実は様々な歴史的エピソードが隠れています。 江戸時代から、現代まで形を変えながらも愛されてきた毛利庭園はこれからも、訪れる人々を楽しませてくれることでしょう。 のんびりと散歩をしてみたり、季節のイベントに参加してみたり年間を通して様々な楽しみ方があるこのスポット、ぜひカップルで足を運んでみてはいかがでしょうか。 豊洲PITはライブなどのエンターテイメン... 19,337ビュー• 秋葉原といえば日本を代表する電気街ではあ... 17,678ビュー• 東陽町はランチ激戦区でイタリアンやフレン... 16,556ビュー• みなさんはお買い物をするとき、どこへ行き... 13,651ビュー• 豊洲には高級スーパーから地元のスーパー、... 10,244ビュー• 首都圏の鉄道の主要駅となっている東京駅は... 10,058ビュー• 亀戸エリアには昔ながらの銭湯から、天然温... 9,030ビュー• 豊洲デートをする時にはららぽーと豊洲を中... 7,252ビュー• 若洲ゴルフリンクスは若洲エリアにある全1... 6,869ビュー• 豊洲にはレジャー、ファッション、ショッピ... 6,373ビュー.

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