機 皇帝 あめ の かく のみ か づち。 こっときゃんでい│クロヌシカガミ│和漢百魅缶│内容索引

和辻哲郎 古寺巡礼

機 皇帝 あめ の かく のみ か づち

この書は大正七年の五月、二三の友人とともに奈良付近の古寺を見物したときの印象記である。 大正八年に初版を出してから今年で二十八年目になる。 その間、関東大震災のとき紙型をやき、翌十三年に新版を出した。 当時すでに書きなおしたい希望もあったが、旅行当時の印象をあとから訂正するわけにも行かず、学問の書ではないということを 標榜 ( ひょうぼう )して手を加えなかった。 その後著者は京都に移り住み、 曾遊 ( そうゆう )の地をたびたび訪れるにつれて、この書をはずかしく感ずる気持ちの昂じてくるのを経験した。 そのうち 閑 ( ひま )を得てすっかり書きなおそうといく度か考えたことがある。 しかしそういう閑を見いださないうちに著者はまた東京へ帰った。 そうしてその数年後、たしか昭和十三四年のころに、この書が、再び組みなおすべき時機に達したとの通告をうけた。 著者はその機会に改訂を決意し、筆を加うべき原稿を作製してもらった。 旅行当時の印象はあとからなおせないにしても、現在の著者の考えを注の形で付け加えることができるであろうと考えたのである。 しかし仕事はそう簡単ではなかった。 幼稚であるにもせよ最初の印象記は有機的なつながりを持っている。 部分的の補修はいかにも困難である。 従って改訂のための原稿は何年たってもそのままになっていた。 そのうちに社会の情勢はこの書の刊行を不穏当とするようなふうに変わって来た。 ついには間接ながらその筋から、『古寺巡礼』の重版はしない方がよいという示唆を受けるに至った。 その時には絶版にしてからすでに五六年の年月がたっていたのである。 そういうわけでこの書は今までにもう七八年ぐらいも絶版となっていた。 この間に著者は実に思いがけないほど方々からこの書に対する要求に接した。 写したいからしばらく借してくれという交渉も一二にとどまらなかった。 近く出征する身で生還は保し難い、ついては一期の思い出に奈良を訪れるからぜひあの書を手に入れたい、という申し入れもかなりの数に達した。 この書をはずかしく感じている著者はまったく途方に暮れざるを得なかった。 かほどまでにこの書が愛されるということは著者として全くありがたいが、しかし一体それは何ゆえであろうか。 著者がこの書を書いて以来、日本美術史の研究はずっと進んでいるはずであるし、またその方面の著書も数多く現われている。 この書がかつてつとめたような手引きの役目は、もう必要がなくなっていると思われる。 著者自身も、もしそういう古美術の案内記をかくとすれば、すっかり内容の違ったものを作るであろう。 つまりこの書は時勢おくれになっているはずなのである。 にもかかわらずなおこの書が要求されるのは何ゆえであろうか。 それを考えめぐらしているうちにふと思い当たったのは、この書のうちに今の著者がもはや持っていないもの、すなわち若さや情熱があるということであった。 十年間の京都在住のうちに著者はいく度も新しい『古寺巡礼』の起稿を思わぬではなかったが、しかしそれを実現させる力はなかった。 ということは、最初の場合のような若い情熱がもはや著者にはなくなっていたということなのである。 このことに気づくとともに著者は現在の自分の見方や意見をもってこの書を改修することの不可をさとった。 この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。 幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。 今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。 そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまの関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。 こういう方針のもとに著者は自由に旧版に手を加えてこの改訂版を作った。 文章は添えた部分よりも削った部分の方が多いと思うが、それは当時の気持ちを一層はっきりさせるためである。 * 荒井寛方氏の労作、この後五六年を経て、大正十二年の関東大震災の際、東京帝国大学文学部の美術史研究室において 烏有 ( うゆう )に帰した。 アジャンター壁画の模写から受けた印象のうちで、最も忘られないものの一つは、あの一種独特な色調である。 色の明るさや濃淡の工合が我々の見なれているものとはひどく違う。 恐らくそこに熱国の風物の反映があるのであろう。 あれは濡れた感じのまるでない色調である。 中でも不思議に感じたのは、山の中にキンナラの夫婦がいて雲の中で天人が楽を奏しているという構図の、五六世紀ごろの画であった。 人物も植物も非常に濃い色で描かれているにかかわらず、妙に冷たい、沈んだ感じを持っている。 たとえば木の葉などは、黒ずむばかりの濃い緑に塗られていながら、どんな深い森の幽暗な樹陰でもこんなではあるまいと思われるほどに、光や空気の感じを欠いている。 熱国の強烈な色彩というものを、華やかに輝く光と結びつけて考えている我々には、これらの画の色調はかなり予想外であった。 しかし考えてみると、雪山を理想郷とするインド人が冷たい色に対する特殊な好尚を持っているということには、少しも不自然なところはない。 インドの土地を知らない者には、あのニュアンスの少ない、空気の感じのまるでない色が、どれほど写実になっているのか判断することはできないが、少なくともあの色調によって、五六世紀ごろのインド人に普通であった情調を推測することはできると思う。 当時のインド人はギリシア人のごとく快活ではなかったのであろう。 このことは色調からばかりでなく、壁画に描かれた多くの顔の表情からも、推測することができる。 男も女も、大抵は憂欝な表情をその顔に浮かべているのである。 ことに女の顔の病的な美しさは、その有力な証拠になる。 キレの長い、瞳を上へつるしあげた大きい眼には、何となく物すごい、ヒステリカルな暗さが現われている。 脂肪が少ないために異常に鋭くなっている顔の輪郭の線や、眼、鼻、唇などを刻み出す細かい微妙な線などには、豊かという感じがまるで欠けていると共に、妖艶な、すご味のある、奇妙な美しさがあふれている。 これを 健 ( すこ )やかな、豊かな、調和そのものであるようなギリシア女の画に比べて見ると両者の相違はきわめて明瞭にわかると思う。 次に目に残っているのはインド独特の写実である。 どの壁の画であったか、一丈ぐらいの、乳の大きい女の裸体像があった。 確かにそこには、肉体を鋭く凝視し、その中から強い魅力の秘密をつかみ出そうとする眼が働いている。 ところでこの写実は、一つの人体において試みられているほどには、画面全体に行きわたっていないのである。 構図は恐ろしく非現実的で、突飛な物の形が雑然と並んでいる。 もちろん部分的には、まとまりのいい、無理のない構図もあるが、(また仏伝図や 本生図 ( ほんしょうず )には統一のある立派な構図を持ったものもあるらしいが、)大体としては、きわめて象徴的な、気ままな、お 伽噺 ( とぎばなし )めいたやり方で満足しているように見える。 これをポムペイなどで発見されたローマのギリシア風の画と比べて見るのは、非常に興味の深いことであるが、今は十分の準備がない。 ただ気づかないでいられないのは、写実ということについて、両者の気分が非常に違っていることである。 目で見たものをそのまま写生したくなるのは、画家の本能にあることと思われるが、その本能がここでは働き方を異にしている。 ギリシア風の画家はどんなに想像の材料を描く場合でも、自然らしく見せることを忘れず、写実の地盤を離れることがない。 しかしインドの画家は、一々の人体を非常に精妙に描きながら、その人体の位置についてはほとんど自然を無視したやり方をする。 たとえば空中を飛んでいる天人の体が、いかにも巧妙に、浮動しているごとく描いてあるかと思うと、それが地の上を歩いている人のすぐ頭の上に、まるで両者の関係を顧慮することなしに置いてある。 これは画家が画面全体の幻影を自然のごとく心中に思い浮かべていなかった証拠であろう。 構図は芸術家の幻影から来ないで、描こうとする物語の約束から出ている。 この種のことは大乗神話を描いた仏教の経典にも認められると思う。 ギリシア風の画とアジャンター壁画との関係は、美術史の問題として研究の価値があるばかりでなく、当時の世界文化の交錯を知るためにも、明らかにしなくてはならない。 またたといこの画の作者が純インド人であったとしても、こういう画の流派がインドを父としギリシアを母として生まれたものであることは、ある点まで認めなくてはなるまい。 ギリシアの芸術的精神を摂取しなくては、この種のインド芸術は生まれなかったであろう。 ただその 咀嚼 ( そしゃく )の程度がガンダーラ芸術よりもはるかに強かったために著しく独自な芸術となり得たのであろう。 アジャンター壁画の模写はもう一つ興味のある問題を提出した。 あのような画がどうして宗教画として必要であったのであろうか。 文芸復興期の宗教画はキリスト教の内部に古代の芸術が復活したものとして説くこともできるし、中世に反抗する人間性の解放として説くこともできるが、アジャンター壁画はどう説明していいであろうか。 ことに問題となるのは天人や 菩薩 ( ぼさつ )として現わされた女の顔や体の描き方、あるいは恋愛の場面などに描かれた 蠱惑的 ( こわくてき )な女の描き方である。 文芸復興期のマドンナは豊かな肉体と優美な顔とをもって描かれているが、しかしそこには、美の 権化 ( ごんげ )としてのアフロディテの表現の上に、さらに永遠の処女としての侵し難い清らかさ、救世主の母としての無限の慈愛を現わそうとする努力があり、またあるものはそれを現わし得ている。 しかしアジャンター壁画の菩薩には、この清らかさや慈愛を現わそうとする努力がない。 このことは特に天人や、恋愛する女や、物語の図に現われる女などに著しい。 あの高くもり上がった乳房や、太い腰部の描き方を見た人は、恐らく何人もこの見解に反対しまいと思う。 そこに現わされたのは、調和の極致であるような、美しい線と面との交響でもなく、また生の歓びを神的にまで高めたような、神秘な恍惚でもない。 直ちに触覚に迫って来る肌の柔らかさや肉のふくらみの感じである。 官能の享楽を捨離して、山中の僧院に真理と 解脱 ( げだつ )とを追究する出家者が、何ゆえに日夜この種の画に親しまなくてはならなかったのか。 人間生活を宗教的とか、知的とか、道徳的とかいうふうに截然と区別してしまうことは正しくない。 それは具体的な一つの生活をバラバラにし、生きた全体としてつかむことを不可能にする。 しかし一つの側面をその著しい特徴によって他と区別して観察するということは、それが全体の一側面であることを忘れない限り、依然として必要なことである。 この意味では、宗教的生活と享楽の生活とは、時折り不可分に結合しているにかかわらず、なお注意深い区別を受けなくてはならぬ。 仏徒の生活も、この区別から脱れることはできない。 仏教の礼拝儀式や殿堂や装飾芸術は、決して宗教的生活の本質に属するものではない。 宗教的生活はこれらのすべてを欠いてもかまわない。 また他方では、官能を 悦 ( よろこ )ばせる芸術はいうまでもなく、精神を高め心を浄化する芸術であっても、それをただ享楽するだけであるならば、かかる人を宗教的生活にひきいれることはできない。 だから仏徒の教団においても、キリスト者の教会においても、原始的な素朴な活力を持っていた間は、決して芸術と結びつかなかった。 むしろ芸術をば、その感性的な特質のゆえに、排斥する立場にあった。 これは烈しい情熱をもって宗教的生活の内に突入しようとするものにとって、きわめて自然なことである。 しかし芸術が人の精神を高め心を浄化する力を持つことは、無視さるべきでない。 たといこの美的感情移入が、享受者の実生活ではなくて、ただ空想の世界の出来事に過ぎぬとしても、それはまだ実現せられない より高き自己を自分の前に展開して見せることによって、実生活にいい刺戟を与え、実行の動機を産み出すことがある。 たとえば宗教の儀式に音楽を用いれば、それはショペンハウエルのいわゆる 一時的解脱に人を導き、法悦と解脱とへの人々の要求を強く刺戟することになるであろう。 阿弥陀経 ( あみだきょう )に描かれた浄土が、あらゆる芸術によって飾られていることは、この間の消息を語るものである。 かく芸術は、 衆生 ( しゅじょう )にその より高き自己を指示する力のゆえに、衆生救済の方便として用いられる可能性を持っていた。 仏教が芸術と結びついたのは、この可能性を実現したのである。 しかし芸術は、たとい方便として利用せられたとしても、それ自身で歩む力を持っている。 だから芸術が僧院内でそれ自身の活動を始めるということは、何も不思議なことではない。 芸術に恍惚とするものの心には、その神秘的な美の力が、いかにも浄福のように感ぜられたであろう。 宗教による解脱よりも、芸術による恍惚の方がいかに容易であるかを思えば、かかる事態は容易に起こり得たのである。 アジャンターの壁画はそれを実証している。 この壁画を描いた画家は、恐らく仏の説いた戒律に束縛せられていなかったであろう。 この僧堂に住みこの礼拝堂で仏を礼讃した人々も、恐らく官能断離の要求を強く感じてはいなかったであろう。 そうしてほのかな燈火の光に照らし出される男女さまざまの姿態や、装飾的に並んだ無数の仏像などの奇異な、強烈な刺戟によって、陶然とした酔い心地を経験していたのであろう。 それが何らか宗教的な心持ちとして受け取られたとすれば、それはこの陶酔が芸術の享楽によって与えられたのであって、在家の生活におけるがごとく、たちまち厭倦と苦痛とに変ずる直接の享楽によって起こされたのでなかったことに基づくのであろう。 これは彼らが仏を信じていなかったことを意味するのではない。 しかし彼らの信ずるのはすべてを許し何人をも成仏せしめる寛容な仏であって、戒律と 精進 ( しょうじん )とを命令する厳しい教主ではなかったであろう。 従ってあのような画と彫刻に飾られた石窟の内部が、極楽浄土の縮図として、人々に究極の浄福を予感せしめる機縁ともなり得たのであろう。 もう一つ問題となるのは、ペルシアの使臣を描いたらしい三尺ぐらいの比較的小さい画である。 この画だけは色の調子がまるで違っている。 画面全体が快く調和のとれた、温かい、ニュアンスの多い色で塗られている。 一人のペルシア人とそれを取り巻く四五人の女とを描いた構図もまた非常に巧みである。 人物の輪郭の線も他の画とはよほど違っている。 没線画と線画との間をさまよっている他の画に比べると、この画だけはよほど線の画になっているといってよい。 Z君はこの画だけが特に優れているのを不思議がって、アジャンターの中でも特殊の伝統を引いたものではなかろうか、ガンダーラや 西域 ( さいいき )の絵画と関係のあるものではないであろうか、などといっていた。 確かに、この画だけは特殊な気分と美しさを持っている。 この画にペルシアの影響が認められるというのも、こういう点に注目してのことであろう。 スタインの『古 于 ( コータン )』の中の写真に、裸の女が蓮池の中に立っている画の傍に二人の仏の描かれたのがあるが、あれなどは非常に清らかな感じのもので、インドの画とは随分気分を異にしていながら、しかもこの画とはどこか描き方に似たところがあるように思う*。 * 壁画保存の方法として画面にニスを塗ったとき、天井にあるこの画は塗り残されて新鮮な色を保っているのだそうである。 従ってこの画の色調はアジャンター壁画の本来の色調を示しているといってよい。 ペルシア使臣の画で特に目についたのは、ペルシア人の右肩にいる女の顔の誘惑的な表情であった。 これはギリシア風の美術に認められないインド独特の女の美しさで、インド人が女をいかに恐れ、いかに愛していたかを、最も代表的に示していると思う。 これは中世のウェヌスベルグの伝説に現われて来るのと同じ心持ちで、ギリシア人は全然それを知らなかった。 この心持ちを最初アレキサンドリアあたりへ輸入したのは、あるいはインドからであったかも知れない。 肉に酔うか、魂を救うか、この選択の前に立って身を 慄 ( ふる )わせている男の目にうつる女の美しさは、まさにあれである。 この画はそういう美しさを写実的に、しかし最も典型的に描き出している。 けれどもこれは宗教画ではない。 もし禁欲僧が日夜この画に親しまなくてはならなかったとしたら、この画は苦行の座の針にもひとしいものであったろう。 それは美しいが、しかし 恐ろしい、それほど蠱惑的である。 大慈大悲という言葉の妙味が思わず胸に浮かんでくる。 昨夜父は言った。 お前の今やっていることは道のためにどれだけ役にたつのか、頽廃した世道人心を救うのにどれだけ貢献することができるのか。 この問いには返事ができなかった。 五六年前ならイキナリ反撥したかも知れない。 しかし今は、父がこの問いを発する心持ちに対して、頭を下げないではいられなかった。 父は道を守ることに強い情熱を持った人である。 医は仁術なりという標語を片時も忘れず、その実行のために自己の福利と安逸とを捨てて顧みない人である。 その不肖の子は絶えず生活をフラフラさせて、わき道ばかりにそれている。 このごろは自分ながらその動揺に愛想がつきかかっている時であるだけに、父の言葉はひどくこたえた。 実をいうと古美術の 研究は自分にはわき道だと思われる。 今度の旅行も、古美術の力を享受することによって、自分の心を洗い、そうして富まそう、というに過ぎない。 もとより鑑賞のためにはいくらかの研究も必要である。 また古美術の優れた美しさを同胞に伝えるために印象記を書くということも意味のないことではない。 しかしそれは自分の中心の要求を満足させる仕事ではないのである。 雨は終日しとしとと降っていた。 煙ったように雲に半ば隠された比叡山の姿は、京都へ近づいてくる自分に、古い京のしっとりとした雰囲気をいきなり感じさせた。 (五月十七日) 今夕はT君から芝居にさそわれたのをことわって、庭の樹立の向こうに雲の去来する比叡山を眺めながら、南禅寺畔の叔父の家で夕飯を食った。 しんみりとしたよい晩であった。 がここにも、享楽の生活をさしおいてまずなすべきことが横たわっているように思う。 しかし自分の心は、放蕩者のように、美術の享楽に向かって急いでいる。 僕はあたふたとこの家を去ろうとする自分を省みて、心に底冷えを感じないではいられなかった。 夜床にはいってから、『 甲子夜話 ( かっしやわ )』をあけて見た。 「楊貴妃はじんぜうなるやせ容の人の如く想はるれど、天宝遺事に貴妃素有 二肉体 一、至 レ夏苦熱、常有 二肺渇 一、毎日含 三一玉魚児於 二口中 一、蓋藉 二其凉津 一沃 レ肺也と。 されば楊貴妃はふとりたる女なりけり」とある。 また 能は宋代の芝居から、 雅楽は唐代の 伎楽 ( ぎがく )から来たものだという林氏の説ものっている。 いかにも随筆らしくておもしろい。 水の音がしきりに聞こえている。 南禅寺の境内からここの庭へはいって、つつじの間を流れて池になり、それから水車を回して邸外へ出るのである。 蘭学者 新宮凉庭 ( しんぐうりょうてい )が、長崎から帰って、ここに順正書院という塾を開いたとき、自分が先に立って弟子たちといっしょに加茂河原から石を運んで、流れや池を造ったのだという。 家もその時のままである。 頼山陽が死ぬ前一二年の間はしょっちゅうここへ遊びに来ていた。 この部屋に山陽が寝たこともあるかも知れない。 水車はそのころから自分の家で食う米をついていたらしい。 天保時代ですらこの方面では今よりも偉かったと思わずにはいられない。 空が美しく晴れて 楓 ( かえで )の若葉が鮮やかに輝いているなかに、まるで緑に浸ったようになって、F氏の茶がかった家が隠れていた。 二階からわずかに都ホテルのあたりが見えるだけで、あとはすっかり若葉の山に取り囲まれている。 樹の種類の異なるに従って、少しずつ色の違うさまざまの若葉が、地からむくむくと湧きあがって来たように見え、まるで烈しい交響楽のように我々の感覚を圧倒してしまう。 だから五分間もそれを眺めていると、人間の世界から遠く遠く離れて来たという心持ちになる。 電車の通りから十町と離れていない所に、こういう閑静な隠れ場所があるという事は、昔からの京都の特長で、文芸などにもその影響が著しく認められると思う。 ここの建築は、もと五条坂の裏通りにあって、 清水焼 ( きよみずやき )の職工の下宿屋となっていたのを、F氏が偶然散歩の途上に見つけて、ついにここに移したのだという。 ひどく荒れていた柱や板を洗ったり磨いたりして見ると、実にしゃれた茶室や座敷が出て来た。 屋根の鬼瓦に初代道八の作があったと言われているから、たぶん文化ごろの建築であろう。 非常に繊巧なもので、すみずみまで気が配ってある。 茶室のほかに座敷が二間、二階一室で、坪数はわずかであるが、廊下や一畳二畳の小間を巧みにあしらって、心理的には非常に広く感じさせるようにできている。 簡素な味がないから、永くなれば飽きるかも知れぬが、しかし江戸時代の文化が最も繊細になったころの建築として、非常に興味深いものである。 ひる少し前から、F氏とT君と三人で博物館に行った。 大谷光瑞 ( おおたにこうずい )氏将来の 庫車 ( クチャ )・ 和 ( コータン )等の発掘品が今日は非常におもしろかった。 あの西域の壁画の破片で見ると、西域の画はアジャンターのよりもはるかに技巧が幼稚なように見える。 無造作に直線を二本引いた鼻や、乱暴に線を長く引いた眉などは、ふざけて描いたものとしか思えない。 しかし仏画をふざけて描くということはあり得ないであろう。 とすると、画家としては素人の僧侶が描いたのであろう。 鼻や眉の描き方はいかにも幼稚らしいが、画全体はかなり精神に富んだ、清らかな美しさを持ったものである。 線は乱暴にひいてあるが、しかしいかにも生き生きとした力を持っている。 たどたどしいくま取りも、写実的な、新鮮な印象を与える。 色はたくまずしてさわやかな諧調を保っている。 肉づけは後期印象派の画に見受けられるような、無技巧のおもしろさを現わしているともいえる。 こういう特徴は、アジャンターの壁画を画いたような専門家の技巧からはかえって出にくいであろう。 とすると、技巧の修練は十分でなくとも自己の幻影を描き出すには十分な熱心を持っている素人の手がそこに感ぜられるのである。 インドから中央アジアへの伝道を企てたような、信仰に熱していた僧侶たちにとってはアジャンターあたりの極度に耽美的な儀礼は、頽廃の徴候としか感ぜられなかったであろう。 そうしてガンダーラ地方の簡素な芸術の方が、むしろ心からの同感を呼び起こしたであろう。 ガンダーラの画がどういうものであったかはわからないが、彫刻と同じように、写実的な、清らかな、かなり精練されない所もある芸術だったとすると、画才のある素人にはわりにまねやすかったであろうと思われる。 専門の画家ならば、あのペルシア人かギリシア人らしい 髯 ( ひげ )のはえた男の手を、ああは画かないであろう。 あの手は指のつけねのところに、さも面倒臭くなったというふうに、横に直線が引いてある。 専門の画家が画くとすればあの直線を引く手間で普通に写実的な手を描いてしまうであろう。 前に言った鼻の画き方でもそうである。 人の顔を描き慣れているものが、すなわちどう線を引けば鼻の形が出るかという事を知りぬいているものが、ふざけてででもなければ、ああいう窮した描き方をするわけがない。 といって落書きでもなさそうである。 やはり、ガンダーラの美術に好愛を持っていた僧侶のうちの画才のあるものが、この西域の画の作者だろうと考えるほかはない。 確かにあの画は、インドの画よりも深い精神的内容を感じさせる。 それは官能の美以上の深い美しさである。 たとえばあの菩薩(?)の顔は、技巧から言えばアジャンターの画などと比べものにならないほど 拙 ( つたな )いかも知れない。 しかしこの菩薩の顔の方がはるかに強く人を感動させる。 じっと見まもっていると、奇妙な、幻想的な恍惚に引き入れられて行くほど神秘めいた深さを持っている。 無造作にくま取ったあのまぶたの感じや、微笑みかけているあの唇の感じなどは、実に何とも言えない。 同じ発掘品で、唐の影響を著しく受けていると思われる仏頭が四つある。 それを見ながら考えたことであるが、仏教美術の東漸を研究するには、 眉や眼や鼻や耳などの描き方の変遷を注意深く調べて見なくてはなるまい。 なぜなら、インドアアルヤ族、ギリシア人と東方人との混血児、特にアジア人の血の混じったもの、トルコ族、蒙古族など、異なった種族の中を伝わって来る間に、モデルの変遷によって画き方もまた変わって来たろうと思われるからである。 たとえば眉と眼との間に引く細い線がだんだんその位置を移しているのは、まぶたの厚ぼったい蒙古人やシナ人がモデルとなり始めたことを語るのではないか。 長い細い弓なりの眉もまた同じことを語っていはしないか。 ガンダーラの彫刻には明らかに蒙古人をモデルにしたらしいのがあるが、そのやり方が中央アジアでうまく利用されたことは疑いがない。 それがシナにはいってさらに強く変化させられていることは、右に言ったようなモデルの推移によって、説明がつくのではないであろうか。 種族が異なるに従って、理想の顔や体格がどういうふうに変わって来るかという問題は、文化の伝播と連関して、興味のある問題である。 たとえば仏画は、東へ来れば来るほど清らかに気高くなって行くが、このことは仏教の教義の変遷とどう関係するか。 あるいはまた当時の諸民族の内心の要求や問題とどう関係するか。 これらは考究に価する問題であろう。 シナへ来て西域の美術が一層端厳な、「仏」にふさわしいものになったということは、同じ発掘品のなかのガンダーラの仏頭と、推古天平室の中央にすわっている広隆寺の 弥勒 ( みろく )*( 釈迦 ( しゃか )?) 塑像 ( そぞう )とを比べて見ればわかる。 あの仏頭はその写実の確かさにおいて強く我々の心を捕えるものであるが、しかしあの弥勒の超自然的な偉大さにはかなわない。 一体あの弥勒は我が国の仏像のうちで最も著しくガンダーラの様式を現わしているものである。 その肉づけの写実的なことと言い、その重々しい、大きい衣のひだの、小気味のいい大胆さ自由さと言い、シナ風の装飾化の動機にわずらわされずに、端的に人体を作り出している。 特に塑像としての可能性は、極度に生かし切ってあると思う。 我が国の仏像で西洋彫刻に最も近いものは恐らくこれである。 しかもそのギリシア的な様式にもかかわらず、この仏の与える印象は完全に仏教的である。 その威厳のある力強い顔は、理想化された人ではなくして、人の形をかりた超自然者という印象を与える。 ガンダーラの仏頭が企ててなし得なかったところを、この弥勒がなしとげているのである。 ギリシア・仏教式美術がシナに来て初めて完成したということは、この弥勒の前では確かに言えると思う。 書翰紙ののせてある 卓子 ( テーブル )の側の柔らかい椅子に体をもたせかけると、いかにも自然にペンを取り上げたくなって来るという具合が、日本の風呂にはいったあととはひどく違う。 西洋の風呂は 事務的で、日本の風呂は 享楽的だ。 西洋風呂はただ体のあかを洗い落とす設備に過ぎないので、言わば便所と同様の意味のものであるが、日本の風呂は湯の肌ざわりや熱さの具合や湯のあとのさわやかな心持ちや、あるいは陶然とした気分などを味わう場所である。 だから西洋の風呂場と便所とはいっしょであるが、日本人はそれがどんなに清潔にしてあっても、やはり清潔だけではおさまらない美感の要求から、それを妥当と感じない。 この区別が興味をそそって、とりとめもなく文化史的な考察に入り込ませる。 湯を享楽するのは東洋の風だと言われている。 東洋でも熱い国では水に浴するがこれは同じ意味のものと認めてさしつかえない。 西洋にももちろんこの風がないわけではないが、それはトルコ風呂の類で、東洋の風を輸入したものであろう。 温泉なども、西洋のはおもに温泉を呑むのであって、日本のように浴して楽しむのではないらしい。 シナの古い文芸では、浴泉の享楽が酒や女の享楽と結びつき、すこぶる感覚的に歌われているが、西洋にこんな文芸はあるかどうか。 もっともローマでは入浴が盛んだった。 私宅の浴室も公衆の浴場も、純粋に享楽のために造られたもので、特に公衆浴場はぜいたくの限りがつくしてあったらしい。 大きい円天井の建物の中に、大理石を盛んに使って、冷水の池もあれば温湯の浴槽もある。 脱衣室もあれば化粧室もある。 すべてが美しい柱や彫刻や壁画で飾られている。 そのなかで人々は泳いだり、温浴したり、蒸し風呂を取ったり、雑談にふけったり、その他いろいろの娯楽をやる。 ところがそのギリシア人も、家の中で風呂にはいるなどということは、東洋人から教わったのであった。 しかも初めは戦争や運動のあとで、体の疲れを回復するために使ったに過ぎなかった。 それを享楽のためにやっているのは、『オデュッセイア』のなかに 奢侈 ( しゃし )の国として描かれているあの神話的なプァイエーケスの国である。 小アジアや南イタリアあたりの植民地が盛んにぜいたくをやるようになると、この風は一般にひろまってしまった。 やはりぜいたくや淫蕩の先駆をやるシバリスの市民が蒸し風呂などというものをはやらせた。 共同浴の風習も東洋から来たもので、温浴と共にだんだん盛んになった。 こんな惰弱な風はよろしくないといって、ヘシオドスやアリストファネスがだいぶやかましく言ったが、だめだった。 男女混浴の風もはやった。 アレキサンドロス大王がダリオス王の風呂場を見て驚いているのなども、この方面から考えるとおもしろい。 しかしこの温浴を楽しむ伝統は、中世以後のヨーロッパにはあまり栄えていない。 もちろん体を洗うのは人間として必要なことであるから、家には浴室があり、浴室の持てないものには公衆浴場があったに相違ないが、それは「必要なもの」として以上に「楽しむもの」にはならなかったらしい。 デュウラアの描いた公衆浴場の画を見ると、女どもがいかにもせわしそうな、早く用をすませてしまいたいという風をしている。 スザンナ入浴の画はずいぶんいろいろな人が描いているが、どれにもわれわれの知っている入浴の心持ちは現わされていない。 で、たとい享楽を目的とするトルコ風呂の類があるとしても、それは特別の場合で、西洋人の日常生活にあみこまれているわけでない。 西洋風呂があの構造である以上は、西洋人風呂の味を解せずと言っていいわけである。 東洋の風呂の伝統が、シナやインドでどうなっているかは知らないが、とにかく日本では栄えている。 もちろん日本の風呂の趣味も最初はシナから教わったもので、それまでは川へ行って水浴をやっていたに相違あるまい。 しかしたまたま唐の詩人の感興が日本人の性質のうちにうまく生きて、もう何世紀かの間、乞食をのぞいたあらゆる日本人の内に深くしみ込んでいる。 風呂桶がいかにきたなかろうと、日本人は風呂で用事をたすのではない、楽しむのである。 それもあくどいデカダン趣味としてではなく、日常必須の、米の飯と同じ意味の、天真な享楽としてである。 温泉の滑らかな湯に肌をひたしている女の美しさなどは、日本人でなければ好くわからないかも知れない。 湯のしみ込んだ 檜 ( ひのき )の肌の美しさなどもそうであろう。 西洋の風呂は、流し場を造って、あの 湯槽 ( ゆぶね )に湯が一杯張れるようになおしさえすればいいのである。 この改良にはさほどの手間はかからない。 それをやらないのだから西洋人は湯の趣味を持たないとしか思えない。 京都から奈良へ来る汽車は、随分きたなくガタガタゆれて不愉快なものだが、沿線の景色はそれを 償 ( つぐの )うて余りがある。 桃山から宇治あたりの、竹藪や茶畑や柿の木の多い、あのゆるやかな斜面は、いかにも平和ないい気分を持っている。 茶畑にはすっかり覆いがしてあって、あのムクムクとした色を楽しむことはできなかったが、しかし茶所らしいおもしろみがあった。 柿の木はもう若葉につつまれて、ギクギクしたあの骨組みを見せてはいなかったが、麦畑のなかに大きく枝をひろげて並び立っている具合はなかなか他では見られない。 文人画の趣味がこういう景色に 培 ( つちか )われて育ったことはいかにももっともなことである。 この沿線でもう一つおもしろく感ずるのは、時々天平の彫刻を思わせるような女の顔に出逢うことである。 これは気のせいかも知れぬが、彫刻とモデルとの関係はきわめて密接なはずだから、この地方の女の骨相と関連させて研究してみたならば、天平の彫刻がどの程度にこの土地から生い出ているかを明らかにし得るかも知れぬ。 奈良へついた時はもう薄暗かった。 この室に落ちついて、 浅茅 ( あさじ )が 原 ( はら )の向こうに見える若草山一帯の新緑(と言ってももう少し遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫って来る。 奈良の方がパアッとして、大っぴらである。 T君はあの若王子の奥のひそひそとした隠れ家に二夜を過ごして来たためか、何となく奈良の景色は落ちつかないと言っていた。 確かに『万葉集』と『古今集』との相違は、景色からも感ぜられるように思う。 食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしですわっていた。 黒みがかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い 額 ( ひたい )を左右から 眉 ( まゆ )の上まで隠していた。 目はスペイン人らしく大きく、 頬 ( ほお )は赤かった。 襟 ( えり )の低い薄い白衣をつけて、丸い腕はほとんどムキ出しだった。 またすぐ近くの卓子には、顔色の蒼い、黒い髪を長く垂れた、フランス人らしい大男の家族が座をとった。 その男のビッコのひき方が、どうやら戦争で負傷したものらしく思えた。 四つに七つぐらいの子供にはシナ人の乳母がはだしでついていた。 妻君はまだ若くてきれいだったが、もう一人のきゃしゃな体をしたおとなしそうな娘の、いかにも清らかなきれいさにはかなわなかった。 この娘の頸は目につくほど長かった。 この格好は画でよく見たが、実物を見るのは初めてである。 われわれが巡礼しようとするのは「美術」に対してであって、衆生救済の 御仏 ( みほとけ )に対してではないのである。 たといわれわれがある仏像の前で、 心底 ( しんそこ )から頭を下げたい心持ちになったり、慈悲の光に打たれてしみじみと涙ぐんだりしたとしても、それは恐らく仏教の精神を生かした美術の力にまいったのであって、宗教的に仏に帰依したというものではなかろう。 宗教的になり切れるほどわれわれは感覚をのり超えてはいない。 だから食堂では、目を楽しませると共に舌をも楽しませていいこころもちになったのである。 食後T君と共にヴェランダへ出て、外をながめた。 池の向こうの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交えてさわいでいる。 興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、おもしろくなくはなかった。 われわれはそれを見おろすような気持ちになって、静かに雑談にふけった。 顔を見るなりすぐに言い出したのは、昨夜東京で催されたシコラの演奏会のことであった。 Z君はそれをきくために出発をおくらせていたのである。 Z君は少し落ちつくと、早速気早な調子で巡礼の予定をきめにかかった。 十日ほどの間に目ぼしい所を大体回ってしまうような、欲張った計画ができあがった。 ひるから新薬師寺へ行った。 道がだんだん郊外の淋しい所へはいって行くと、石の多いでこぼこ道の左右に、破れかかった 築泥 ( ついじ )が続いている。 その上から盛んな若葉がのぞいているのなどを見ると、一層廃都らしいこころもちがする。 幼いころこういう築泥を見なれていた自分には、さらにその上に追懐から来る淡い哀愁が加わっているように思われる。 壁を多く使った 切妻 ( きりづま )風の建て方も、同じ情趣を呼び起こす。 この辺の切妻は、平の勾配が微妙で、よほど古風ないい味を持っているように思われる。 三月堂の屋根の感じが、おぼろげながら、なおこの辺の民家の屋根に残っているのである。 古代のいい建築は、そのまわりに、何かしら雰囲気といったようなものを持ちつづけて行くとみえる。 廃都らしい気分のますます濃くなって来る狭い道を、近くに麦畑の見えるあたりまで行ってわれわれはとある門の前に留まった。 しかしその門の前に立っただけでは、まだ、今までながめて来たもの以上に非常に変わった光景がわれわれを待っているだろうという気はしない。 門をはいってすぐ鼻の先に修繕のあとのツギハギに見える堂の側面が突き立っているのを見ると、初めておやというような軽い驚きを感ずる。 この感情は堂の正面へ回って少し離れた所から堂全体をながめるに及んで、このようなすぐれた建築が、どうしてこんな所に隠れているのだろうというような驚きの情に高まって行く。 そうしてそれは、美しさから受ける恍惚の心持ちに、何とも言えぬ新鮮さを添えてくれる。 この堂は 光明皇后 ( こうみょうこうごう )の 建立 ( こんりゅう )にかかるもので、幾度かの補修を受けたではあろうが、今なお朗らかな優美な調和を保っている。 天平建築の根強い 健 ( すこ )やかさも持っていないわけではない。 この堂の前に立ってまず 否応 ( いやおう )なしに感ずるのは、やはり天平建築らしい確かさだと思う。 あの簡素な構造をもってして、これほど偉大さを印象する建築は他の時代には見られない。 しかしこの堂の特徴はいかにも 軽快な感じである。 そこからくる優しさがこの堂に全面的に現われている。 それは恐らく天井を省いて化粧屋根裏とし、全体の立ち居を低くしたためであろうと思われる。 がこの新薬師寺では、堂の美しさよりも本尊の薬師像や別の堂にある 香薬師像 ( こうやくしぞう )の方がもっと注目すべきものなのである。 本堂のなかには円い仏壇があって、本尊薬師を中央に十二神将が並んでいる。 薬師のきつい顔は香で黒くくすぶって、そのなかから仏像には珍しく大きい目がギロリと光って見える。 この薬師像の面相は、正面から見ると香のくすぶり方のせいでちょっと変に見えるが、よく見ると輪郭のしっかりした実に好い顔である。 それは横へ回って横顔を見るとよくわかる。 肩から腕へかけての肉づけなども恐ろしく力強いどっしりした感じを与える。 木彫でこれほど堂々とした作は、ちょっと 外 ( ほか )にはないと思う。 全体が一本の木で刻まれているというばかりでなく、作全体に非常に緊密な統一が感ぜられる。 この像の人を圧するような力はそういう大手腕に基づくのであろう。 かつて講義の時関野博士はこの像を天平仏と見ていられたように記憶するが、われわれは弘仁仏ではなかろうかと話し合った。 衣文 ( えもん )の刻み方の 強靱 ( きょうじん )な、 溌剌 ( はつらつ )とした気持ちが、どうもそのように思わせる。 香薬師は今日は見ることができなかった*。 * 香薬師は白鳳期の傑作である。 かつて盗難に逢い、足首を切断せられたが、全体の印象を損うほどではない。 最初訪れた時はそういう騒ぎのあとで、倉の中に大事に 蔵 ( しま )ってあるとのことであった。 その後この薬師像を本尊とする御堂もでき、 御廚子 ( おずし )を開扉してもらって静かに拝むことができるようになった。 御燈明 ( おとうみょう )の光に斜め下から照らされた香薬師像は実際何とも言えぬほど結構なものである。 ほのかに微笑の浮かんでいるお顔、胴体に密着している衣文の柔らかなうねり。 どこにもわざとらしい技巧がなく、素朴なおのずからにして生まれたような感じがある。 がそれでいてどこにも隙間がない。 実に恐ろしい単純化である。 顔の肉づけなどでも、幼稚と見えるほど簡単であるが、そのくせ非常に細かな、深い感じを現わしている。 試みに顔に当たる光を動かしてさまざまの方向から照らして見るがよい。 あの簡単な肉づけから、思いもかけぬ複雑な濃淡が現われてくるであろう。 こういう仕事のできるのは、よほどの巨腕である。 そのことはまた銅の使いこなし方にも現われている。 いかにもたどたどしい 鋳造 ( ちゅうぞう )の仕方のように見えていながら、どこにも硬さや不自由さの痕がない。 実に驚くべき技術である。 この香薬師像は近年二度目の盗難に逢った。 帰りは春日公園の中の寂しい道を通った。 この古い森林はいつ見てもすばらしい。 今はちょうど若葉が美しく出そろって、その間に太古以来の太い杉や檜の直立しているのが目立つ。 藤の花が真盛りで、高い木の 梢 ( こずえ )にまで紫の色が見られた。 鹿野苑 ( ろくやおん )の幻想をここに実現しようとした人のこころもちが、今でもまだこの森の中にただよっているという気がする。 しかし一歩大通りへ出ると、まるで違った、いかにも「名所」らしい、平民的な遊楽の光景に出逢う。 そこにまた奈良でなければ見られない気分がある。 それもわるくはないが、この気分と、三月堂などの古典的な印象とが、まるで関係なしに別々になっているのは、いかにも不思議である。 興福寺の 金堂 ( こんどう )や南円堂にはいって見たが、疲れて来たのであまり印象は残らなかった。 しかし南円堂では壁の画が注意をひいた。 晩の食卓では昨夜のような光景をながめながら、Z君にアメリカのホテルの話をきいた。 * 京都府 相楽郡当尾村 ( そうらくぐんとうのおむら )にある。 奈良から東北一里半ほどである。 奈良の北の郊外はすぐ山城の国になる。 それは名義だけの区別ではなく、実際に大和とは気分が違っているように思われた。 奈良坂を越えるともう光景が一変する。 道は小山の中腹を通るのだが、その山が薄赤い砂土のきわめて痩せた感じのもので、幹の色の美しいヒョロヒョロした赤松のほかにはほとんど木らしいものはない。 それも道より下の 麓 ( ふもと )の方にところどころ群がっているきりで、あとは三尺に足りない雑木や小松が、山の肌を覆い切れない程度で、ところ 斑 ( まだら )に山にしがみついているのである。 そうしてその斑の間には今一面につつじの花が咲き乱れている。 この景色は、三笠山やその南の大和の山々とはよほど感じが違う。 しかしその乾いた、砂山めいた、はげ山の気分は、わたくしには親しいものであった。 こういう所では子供でも峰伝いに自由に遊び回れる。 ちょうど今ごろは柏餅に使う柏の若葉を、それが足りない時には 焼餅薔薇 ( やきもちばら )のすべすべした円い葉を、集めて歩く季節である。 つつじの花の桃色や薄紫も、にぎやかなお祭りらしい心持ちに子供の心を浮き立たせるであろう。 谷川へ下りて水いたずらをしてももう寒くはない。 ジイジイ蝉の声が何となき心細さをさそうまで、子供たちは山に融け入ったようになって遊ぶ。 二十年前には自分もそうであった。 それを思い出しながらわたくしは、故郷に帰ったような心持ちで、飽きずにこの景色をながめた。 この途中の感じが浄瑠璃寺へついてからもわたくしの心に妙にはたらいていた。 しかし浄瑠璃寺へすぐついたわけではない。 道はまだ大変だった。 山を出て里へ出たり、それらしいと思う山をいつか通り過ぎてまた山の間にはいったり、やがてまた旧家らしい家のあるきれいな村へ出たり、しかも雨あがりの道はひどい でこぼこで、 俥 ( くるま )に乗っているのもらくではなかった。 畑と山との美しい色の取り合わせを俥の上で賞めていたわたくしたちも、とうとう我慢がしきれなくなって、Z夫人のほかは皆その狭い田舎道に下り立った。 そうして若葉の美しい 櫟 ( くぬぎ )林のなかや穂を出しかけた麦畑の間を、汗をふきふき歩いて行った。 本道の方は崖が崩れてとても通れまいということだったのである。 しかし意気込んでかかったわりには急な坂は短く、すぐに峰づたいの 坦々 ( たんたん )たる道へ出た。 それで安心して歩いていると、この道がまたなかなか尽きそうもなくなった。 赤松の 矮林 ( わいりん )の間には相変わらずつつじが咲いている。 道傍に石地蔵の並んだ所もあった。 大きい竹藪の間に人家の見える所へも来た。 水の音がしきりに聞こえて、いかにも 幽邃 ( ゆうすい )な趣がある。 あれこそ寺だろうと思っていると、それは水車屋だった。 山の下からながめた時はるか絶頂の近くに見えた家がどうもこれらしい。 もうそんなに高くのぼったかと思う。 と同時に、一体どこまで昇ればいいのだろうと思う。 やがてべら棒に大きな岩が 道傍 ( みちばた )の崖からハミ出ている所をダラダラとのぼって行くと、急に前が開けて、水田にもなるらしい麦畑のある平地へ出た。 村がある、森がある、小山がある。 こんな山の上にあるだろうとは思いがけない、いかにも 長閑 ( のどか )な農村の光景である。 浄瑠璃寺はこの村の一隅に、この村の寺らしく納まっていた。 これも予想外だった。 しかし何とも言えぬ平和ないい心持ちだった。 こんなふうで、もう奈良坂まで帰っていていい時刻に、やっと浄瑠璃寺へついたのである。 さてこの山村の麦畑の間に立って、寺の小さい門や白い壁やその上からのぞいている松の木などの野趣に充ちた 風情 ( ふぜい )をながめた時に、わたくしはそれを前にも見たというような気持ちに襲われた。 門をはいって最初に目についたのは、本堂と塔との間にある寂しい池の、水の色と 葦 ( あし )の若芽の色とであったが、その奇妙に澄んだ、濃い、冷たい色の調子も、(それが今初めて気づいた珍しいものであったにもかかわらず)初めてだという気はしなかった。 わたくしは堂の前の白い砂の上を歩きながら、この漠然たる心持ちから脱することができなかったのである。 この心持ちは一体何であろうか。 浅い山ではあるが、とにかく山の上に、下界と切り離されたようになって、一つの長閑な村がある。 そこに自然と抱き合って、優しい小さな塔とお堂とがある。 心を潤すような愛らしさが、すべての物の上に一面に漂っている。 それは近代人の心にはあまりに淡きに過ぎ平凡に過ぎる光景ではあるが、しかしわれわれの心が和らぎと休息とを求めている時には、秘めやかな魅力をもってわれわれの心の底のある者を動かすのである。 しかるにその夢想を表現した山村の寺に面接して見ると、われわれはなおその夢想に共鳴するある者を持っていたのである。 それはわたくしには驚きであった。 しかし考えてみると、われわれはみなかつては桃源に住んでいたのである。 すなわちわれわれはかつて子供であった! これがあの心持ちの秘密なのではなかろうか。 こんな心持ちに気をとられて、本堂のなかに横に一列に並んでいる九体の仏には十分注意が集まらなかった。 Z君に言われて、横に長い 須弥壇 ( しゅみだん )の前の金具をなるほどおもしろいと思った。 仏前に一つずつ置いてある 手燭 ( てしょく )のような格好の木塊に画かれた画もおもしろかった。 色の白い地蔵様もいい作だと思った。 しかし何よりも周囲と調和した堂の外観がすばらしかった。 開いた扉の間から 金色 ( こんじき )の仏の見えるのもよかった。 あの優しい新緑の景色の内に大きい九体の仏があるというシチュエーションは、いかにも藤原末期の幻想に似つかわしい。 それが、Z夫人には気の毒だったが、今日の旅にはふさわしかった。 こんなわけで、帰りは近道をしたけれども、奈良へ帰ったのはもう四時過ぎであった。 そうしてすぐその足で、浄瑠璃寺とはまるきり気分の違った東大寺のなかへ、しかも 戒壇院 ( かいだんいん )へ 馳 ( か )けつけた時には、あの大きい松の立ち並んでいる幹に斜めの日が射し、厳重な塀に囲まれた堂脇の空地には 黄昏 ( たそがれ )を予告する寂しい陰影が漂うていた。 わたくしたちは、小さい花をつけた雑草の上に立って、大きい 鍵 ( かぎ )の響きを聞いた。 それがもう気分を緊張させる。 戒壇院はそういうところである。 堂のなかに歩み入ると、まずそのガランとした陰欝な空間の感じについで、ひどいほこりだという嘆声をつい洩らしたくなる。 そこには今までながめて来た自然とは異なり、ただ荒廃した人工が、塵に埋もれた人の心があるのみであった。 この壇上で幾百千の僧侶が生涯忘れることのないような厳粛な戒を受けたであろうに。 そう思うとこの積もった 埃 ( ほこり )は実に寂しい。 しかしその寂しさはあの潤いのある 九体寺 ( くたいじ )のさびしさではない。 このガランとした壇上の四隅に埃にまみれて 四天王 ( してんのう )が立っているのである。 しかも空前絶後と称せられる貴い四天王が。 それを見ると全く妙なアイロニイを感ずる。 わたくしはこの種の彫刻をそのあるべき所に置いて見るのが好きであるが、しかしそのあるべき所がこのようにあるまじき状態になっているとすると、どうしたらいいであろう。 戒壇の権威はもう地に 堕 ( お )ちている。 だからこそわれわれは、布をかぶせてはあるが土足のままで、この壇上を踏みあらすこともできるのである。 しかし戒壇の権威は地におちても、この四天王の偉大性は地におちはしない。 今となればそれは戒壇よりも重い。 このように埃のなかに放置すべきものではない。 四天王はその写実と類型化との手腕において実に優れた傑作である。 たとえばあの西北隅に立っている 広目天 ( こうもくてん )の眉をひそめた顔のごとき、きわめて微細な点まで注意の届いた写実で、しかも白熱した意力の緊張を最も純粋化した形に現わしたものである。 その力強い雄大な感じは、力をありたけ表出しようとする力んだ努力からではなく、自然を見つめる静かな目の鋭さと、 燻 ( いぶ )しをかけることを知っている控え目な腕の 冴 ( さ )えとから、生まれたものであろう。 だからそこには後代の護王神彫刻に見られるような誇張のあとがまるでない。 しかし筋肉を怒張させ表情のありたけを外面に現わしたそれらの 相好 ( そうごう )よりも、かすかなニュアンスによって抑揚をつけた静かなこの顔の方が、はるかに力強く意力を現わし、またはるかに明白に類型を造り出している。 この天王の骨相は、明らかに蒙古人のものである。 特に日本人として限定することもできるかも知れぬ。 わたくしはこの顔を見てすぐに知人の顔を思い出した。 目、鼻、頬、特に 顴骨 ( かんこつ )の上と耳の下などには、われわれの日常見なれている特殊の肉づきがある。 皮膚の感じもそうである。 しかしこれがシナ人でないとは断言はできぬ。 ただインド人でないことは明らかである。 発掘品から推測し得る限りでは、西域人でもないであろう。 とすると、この種の写実と類型とは、少なくとも 玉関 ( ぎょくかん )以東で発達したものといわなくてはならない。 四天王の着ている 鎧 ( よろい )も興味を引いた。 皮らしい性質がいかにも巧妙に現わされている。 両腕の肩の下のところには 豹 ( ひょう )だか 獅子 ( しし )だかの頭がついていて、その開いた口から腕を吐き出した格好になっている。 その口には 牙 ( きば )や歯が刻んである。 それがまたいかにも堅そうな印象を与える。 肩から胸当てを釣っている 具 ( びじょう )は、現今使っているものと少しも違わない。 胸から腹へかけては、体とピッタリ密着して、体が動くと共にギュウギュウと鳴りそうな感じである。 わたくしはこの像が 塑像 ( そぞう )であることをつい忘れてしまいそうであった。 一体この武具はどこの国のものであろうか。 下着が 筒袖 ( つつそで ) 股引 ( ももひき )の類であるところを見るとインドのものでないことは確かである。 またギリシアやローマの鎧も、似寄ったところはあるが、よほど違っている。 ペルシアのはかなり近いかも知れぬが、少なくともギリシアと交渉のあった古い時代には、こんな鎧はなかった。 とすると、中央アジアかシナかの風に相違ないということになる。 中央アジアは革細工の発達しそうなところであるが、しかしそこで用いられた鎧の格好はもっと単純なものであったらしい。 そうすればこの武具の様式は結局シナで発達したということにならざるを得ない。 そこで問題が起こる。 仏菩薩 ( ぶつぼさつ )はインド風あるいはギリシア・ローマ風の装いをしているのに、何ゆえ護王神の類はシナの装いをするか。 それに対してわたくしはこう答えたい。 ガンダーラの浮き彫り彫刻などで見ると、一つの構図の端の方にはギリシアの神様がいたり、哲学者らしい 髯 ( ひげ )の多い老人がいたりする。 于 ( コータン )の発掘品などにも、于 の衣服らしいのを着た人物を描き込んだのがある。 大乗経典の描いている劇的な説教の場面などを視覚的に表象しようとする場合には、仏菩薩などの姿はハッキリきまっているが、あとの大衆はどうにでも勝手に思い浮かべるほかはなかったために、国々でそれぞれ特有な幻影が生み出された、というわけであろう。 従ってシナ風の装いをした四天王や十二神将の類は、特にシナ美術の独創を現わしているかもしれない。 四天王を堂の四隅に安置するやり方も、シナの寺院建築と密接な関係があるであろう。 仏教美術がシナで屈折した度はよほど強いものらしい。 そうしてその土台となった西域の美術が、すでにインドよりもガンダーラの方をより強く生かしていたと考えられる。 日本へ来た仏教美術はもう幾度かの屈折を経たものである。 戒壇院から、三月堂へまわった。 三月堂の外観は以前から奈良で最も好きなものの一つであったが、しかし本尊の 不空羂索観音 ( ふくうけんさくかんのん )をさほどいいものとは思っていなかった。 しかるに今日は、あの美しい堂内に歩み入って静かに本尊を見上げた時、思わずはっとした。 全くそこには後光がさしているようであった。 以前にうるさいと感じたあの線条的な背光も、今日は 薄明 ( はくめい )のうちに 揺曳 ( ようえい )する神秘の光のように感ぜられ、言い現わし難い微妙な調和をもって本尊を生かしていた。 この本尊の全体にまだらに残っているあの金の光と色とは、ありふれた金色と違って特別に美しい豊潤なもののように思われる。 それにはあの堂の内部の、特にあの精巧な天井の、比類なき美しい古びかたが、非常に引き立てるようにはたらいているであろう。 が同時に、この堂の内部の美しさは、中央にほのかに輝いている金色なくしては、ととのって来ないのである。 つまり両者は、全体として一つの芸術を形造っている。 それは色と光と空気と、そうしてその内に 馳 ( は )せめぐるおおらかな線との大きな静かな交響楽なのである。 本尊の姿の釣り合いは、それだけを取って見れば、恐らく美しいとは言えないであろう。 腕肩胴などはしっかりできていると思うが、腰から下の具合がおもしろくない。 前にこの美しさがわからなかったのは豊かなものの全体を見ないで、ただ局部にのみ目をとめたためかと思われる。 推古の美術は多くを切り捨てる簡素化の極致に達したものであるが、天平の美術はすべてを生かせることをねらって部分的な 玉石混淆 ( ぎょくせきこんこう )を恐れないのである。 わたくしは心から不空羂索観音と三月堂とに頭を下げた。 そうして不空羂索観音の 渇仰者 ( かつごうしゃ )であるZ君に 冑 ( かぶと )をぬいだ。 しかし美しいのはただ本尊のみではない。 周囲の諸像も皆それぞれに美しい。 脇立 ( わきだ )ちの 梵天 ( ぼんてん )・ 帝釈 ( たいしゃく )の小さい塑像( 日光 ( にっこう )、 月光 ( がっこう )ともいわれる)が傑作であることには、恐らく誰も反対しまい。 その他の諸像には相当に異見があり、特に四天王に至ってはZ君はほとんど一顧の価値をも認めまいとしたが、しかしわたくしはこの比較的に簡素な四天王にも推服する。 特に向かって左後ろのがよい。 もちろん戒壇院の四天王ほどにすぐれた作でなく、やや硬い感じを与えるが、しかしいかにも明快率直で、この堂内に置かれてもはずかしくないと思う。 これらのことについてはホテルへ帰ってからだいぶ論じ合った。 今日はいろいろ予想外のことがあったためか皆元気が好かった。 食堂で隣りの 卓子 ( テーブル )に商人らしい四人づれの西洋人がいて、三分間に一度ぐらいのわりで無慮数十回の乾杯をやっていたが、われわれもそのこころもちに同感のできるほど興奮していた。 Z君は、三月堂の他の諸像をほとんど眼中に置かず*、ただ不空羂索観音と梵天(月光)とを、特に不空羂索観音を、天平随一の名作だと主張した。 それにはわたくしもなかなか同意はできなかった。 天平随一の名作を選ぶということであれば、わたくしはむしろ 聖林寺 ( しょうりんじ )の十一面観音を取るのである。 * 三月堂の壇上に置かれた諸像のうちでは、 塑像の日光・月光菩薩像、 吉祥天像 ( きちじょうてんぞう )などが彫刻として特にすぐれている。 しかしこれらは本来この堂に属したものではあるまい。 壇の背後の廚子中に秘蔵された 執金剛神 ( しゅうこんごうしん )も同じく塑像で、なかなかすぐれた作である。 本文では彫刻と建築との釣り合いを主として問題としたため、これらの彫刻にあまり注意を向けていないが、単に彫刻として堂から引きはなして考えるならば、これらの彫刻が最も重んぜらるべきであろう。 室へ帰ってから興奮のあとのわびしさが来た。 何かの話のついでに、生涯の仕事についてT君と話したが、自分の仕事をいよいよ大っぴらに始めるまで、根を深くおろして行くことにのみ気をくばっているT君の落ちついた心持ちがうらやましかった。 根なし草のようにフラフラしている自分は、何とか考えなおさなくてはならない。 ゲエテのように天分の豊かな人でさえ、イタリアの旅へ出た時に、自分がある一つの仕事に必要なだけ十分の時間をかけなかったことを、またその仕事に必要な手業を十分 稽古 ( けいこ )しなかったことを、悔い嘆いている。 落ちついて地道にコツコツとヤリ直しをするほかはない。 しばらくは柔らかい椅子に身を埋めてぼんやりしている。 やがて少し体が休まると、手を洗って、カラアをつけ変えて、柔らかい 絨氈 ( じゅうたん )の上を伝って、食堂に出て行く。 Z夫人はいつのまにかきれいに身仕度をして、活き活きと輝いた顔を見せる。 できるだけ腹を空かせている上に、かなりうまい料理なので、いいこころもちになってたらふく食う。 元気よくおしゃべりを始める。 今日見た芸術品について論じ合い、受けて来たばかりの印象を消化して行くのは、この時である。 が、食堂を出る時分には、腹が張った上に、工合よく疲れも出て、ひどくだるい気持ちになる。 喫煙室などへ行っても、西洋の女のはしゃいでいるのをぼんやりながめているくらいなものである。 さてそれから室へ帰って風呂にはいると、その日の印象を書きとめておくというような仕事が、全く億劫になってしまう。 印象は新鮮なうちに捕えておくに限るのであるが、それがなかなか実行し難い。 手帖の覚え書きはだんだん簡単になって行く。 博物館を午前中に見てしまおうなどというのは無理な話である。 一度にはせいぜい二体か三体ぐらい、それも静かに落ちついた心持ちで、胸の奥に沁み込むまでながめたい。 N君はそれをやっているらしい。 入り口でパッタリ逢った時に、N君はもう見おえて帰るところだった。 「このごろは大抵毎朝ここへ来ますよ、気分さえよければ」と彼は言った。 朝の早いN君のことだから、まだ露の乾かない公園のなかを歩きまわった 揚句 ( あげく )、戸が開くと同時に博物館のなかへはいって、少し汗ばんだ体にあの天井の高い室の冷やりとした空気を感じながら、幾時間でもじいっと仏像の前にたたずんでいるのであろう。 そういう気ままな生活をもう一月もつづけているN君に対して、あわただしい旅にあるわたくしは何となき一種の 面憎 ( つらにく )さを感ぜずにはいられなかった。 N君に別れて玄関の石段をのぼり切ると、正面の陳列壇のガラス戸があけてあって、壇上の聖林寺十一面観音の側に洋服を着た若い男が立っていた。 下にいる館員に向かって「肉体美」を説明しているのである。 ガラス戸のあいているのはありがたかったが、この若者はどうも邪魔になってならなかった。 やがてその男は得意そうに体をゆすぶりながら、ヒラリと 床 ( ゆか )へ飛び下りてくれたが、すぐ側でまた館員に「乳のあたりの肉体美」を説き始めた。 N君が渋面をつくって出て行ったわけがこれでわかった。 しかしわたくしたちはガラス戸のあいている機会を逃さないために、やはりこのそばを立ち去ることができなかった。 それほどガラスの凹凸や面の反射が邪魔になるのである。 それにつけても博物館の陳列の方法は何とか改善してほしい。 経費などの都合もあることで当事者ばかりの罪でもあるまいが、今のままでは看者に与える印象などはほとんど顧慮せられていない。 N君のような落ちついた見方をしていれば、ある程度までその困難に打ち 克 ( か )つこともできるであろうが、しかし誰もがそういう余裕を持つわけには行かない。 せめて一つ一つの仏像が、お互いに邪魔をし合わないで独立した印象を我々に与えるように、もう少し陳列の順序と方法とを考えれば、短時間に見て行こうとする者にも、もう少しまとまった、強い印象を与え得るかと思う。 理想的に言えば、美術館のような公共の享楽を目ざすものは、うんと 贅沢 ( ぜいたく )にしていいのである。 私人の贅沢とはわけが違う。 あの入り口正面の陳列壇などには、そのために特に一室を設けてもいいような傑作が、いくつも雑然と列べられている*。 そのためにどれほど見物が損をしているかわからない。 当事者にわかりいい言葉でいうと、「こういうことは日本の恥である。 こういうことがあるから西洋人が日本人を尊敬しないのである。 」 国宝という言葉をもっと生かしてもらいたい。 日本の古美術に対しては、われわれは日本民族の一員として、当然鑑賞の権利を持つ。 この鑑賞のために相当の設備をしないのは、国宝の意義を没すると言っていい。 * これは大正八年ごろのことで、そのころには入り口正面に向かって聖林寺の十一面観音、それと背中合わせに法隆寺の百済観音などが立っていた。 聖林寺の観音はその後数年を経て寺へ帰った。 桜井から 多武 ( とう )の 峯 ( みね )への路を十数町行ってちょっと右へはいったところである。 百済観音もまた近年は法隆寺へ帰って、 宝物殿 ( ほうもつでん )の王様になっている。 だが、聖林寺の十一面観音は偉大な作だと思う。 肩のあたりは少し気になるが、全体の印象を傷つけるほどではない。 これを三月堂のような建築のなかに安置して周囲の美しさに釣り合わせたならば、あのいきいきとした豊麗さは一層輝いて見えるであろう。 仏教の経典が仏菩薩の形像を丹念に描写していることは、人の知る通りである。 何人も阿弥陀経を指して教義の書とは呼び得ないであろう。 これは まず第一に浄土における諸仏の幻像の描写である。 また何人も法華経を指してそれが幻像の書でないとは言い得まい。 それは まず第一に仏を主人公とする大きい戯曲的な詩である。 観無量寿経のごときは、 特に詳細にこれらの幻像を描いている。 仏徒はそれに基づいてみずからの眼をもってそれらの幻像を見るべく努力した。 観仏はかれらの内生の重大な要素であった。 「仏像」がいかに刺戟の多い、生きた役目をつとめたかは、そこから容易に理解せられるであろう。 そういう心的背景のなかからわれわれの観音は生まれ出たのである。 何人が作者であるかはわからないが、しかし何人にもあれ、とにかく彼は、明らかな幻像をみずからの眼によって見た人であろう。 観世音菩薩 ( かんぜおんぼさつ )は衆生をその困難から救う絶大の力と慈悲とを持っている。 彼に救われるためには、ただ彼を念ずればいい。 彼は境に応じて、時には仏身を現じ、時には梵天の身を現ずる。 また時には人身をも現じ、時には獣身をさえも現ずる。 そうして衆生を 度脱 ( どだつ )し、衆生に 無畏 ( むい )を施す。 まず第一にそれは人間離れのした、超人的な威厳を持っていなくてはならぬ。 と同時に、最も人間らしい優しさや美しさを持っていなくてはならぬ。 それは根本においては人でない。 しかし人体をかりて現われることによって、人体を神的な清浄と美とに高めるのである。 儀規 ( ぎき )は左手に 澡瓶 ( そうへい )を 把 ( と )ることや頭上の諸面が菩薩面・ 瞋面 ( しんめん )・ 大笑面 ( たいしょうめん )等であることなどを定めているが、しかしそれは幻像の重大な部分ではない。 頭上の面はただ宝冠のごとく見えさえすればいい。 左手の瓶もただ姿勢の変化のために役立てば結構である。 重大なのはやはり超人らしさと人間らしさとの結合であって、そこに作者の幻想の 飛翔 ( ひしょう )し得る余地があるのである。 かくてわが十一面観音は、幾多の経典や幾多の仏像によって培われて来た、永い、深い、そうしてまた自由な、構想力の活動の結晶なのである。 そこにはインドの限りなくほしいままな神話の痕跡も認められる。 半裸の人体に清浄や美を看取することは、もと極東の民族の気質にはなかったであろう。 またそこには抽象的な空想のなかへ写実の美を注ぎ込んだガンダーラ人の心も認められる。 あのような肉づけの微妙さと確かさ、あのような衣のひだの真に迫った美しさ、それは極東の美術の伝統にはなかった。 また沙海のほとりに住んで雪山の 彼方 ( かなた )に地上の楽園を望んだ中央アジアの民の、烈しい憧憬の心も認められる。 写実であって、しかも人間以上のものを現わす強い理想芸術の香気は、怪物のごとき沙漠の脅迫と離して考えることができぬ。 さらにまた、極東における文化の絶頂、諸文化融合の鎔炉、あらゆるものを豊満のうちに生かし切ろうとした大唐の気分は、全身を濃い雰囲気のごとくに包んでいる。 それは異国情調を単に異国情調に終わらしめない。 憧憬を単に憧憬に終わらしめない。 人の心を奥底から掘り返し、人の体を中核にまで突き入り、そこにつかまれた人間の存在の神秘を、一挙にして一つの形像に結晶せしめようとしたのである。 このような偉大な芸術の作家が日本人であったかどうかは記録されてはいない。 しかし唐の融合文化のうちに生まれた人も、養われた人も、黄海を越えてわが風光明媚な内海にはいって来た時に、何らか心情の変移するのを感じないであろうか。 漠々たる黄土の大陸と十六の少女のように可憐な大和の山水と、その相違は何らか気分の転換を 惹起 ( じゃっき )しないであろうか。 そこに変化を認めるならば、作家の心眼に映ずる幻像にもそこばくの変化を認めずばなるまい。 たとえば顔面の表情が、大陸らしいボーッとしたところを失って、こまやかに、幾分鋭くなっているごときは、その証拠と見るわけに行かないだろうか。 われわれは聖林寺十一面観音の前に立つとき、この像がわれわれの国土にあって幻視せられたものであることを直接に感ずる。 その幻視は作者の 気禀 ( きひん )と離し難いが、われわれはその気禀にもある秘めやかな親しみを感じないではいられない。 その感じを細部にわたって説明することは容易でないが、とにかく唐の遺物に対して感ずる少しばかりの 他人らしさは、この像の前では全然感じないのである。 しかもそこには神々しい威厳と、人間のものならぬ美しさとが現わされている。 薄く開かれた瞼の間からのぞくのは、人の心と運命とを見とおす観自在の 眼 ( まなこ )である。 豊かに結ばれた唇には、 刀刃 ( とうじん )の堅きを段々に 壊 ( やぶ )り、 風濤洪水 ( ふうとうこうずい )の暴力を和やかに 鎮 ( しず )むる無限の力強さがある。 円く肉づいた頬は、肉感性の幸福を暗示するどころか、人間の淫欲を抑滅し尽くそうとするほどに気高い。 これらの相好が 黒漆 ( こくしつ )の地に浮かんだほのかな金色に輝いているところを見ると、われわれは否応なしに感じさせられる、確かにこれは観音の顔であって、人の顔ではない。 この顔をうけて立つ豊かな肉体も、観音らしい気高さを欠かない。 それはあらわな肌が黒と金に輝いているためばかりではない。 肉づけは 豊満でありながら、 肥満の感じを与えない。 四肢のしなやかさは柔らかい衣の 皺 ( ひだ )にも腕や手の円さにも十分現わされていながら、しかもその底に強剛な意力のひらめきを持っている。 ことにこの重々しかるべき五体は、重力の法則を超越するかのようにいかにも軽やかな、浮現せるごとき趣を見せている。 これらのことがすべて気高さの印象の素因なのである。 それは観音の出現が虚空での出来事であり、また運動と離し難いものであるために、定石として試みられる手法であろうが、しかしそれがこの像ほどに成功していれば、体全体に地上のものならぬ貴さを加えるように思われる。 肩より胸、あるいは腰のあたりをめぐって、腕から足に垂れる天衣の工合も、体を取り巻く曲線装飾として、あるいは肩や腕の触覚を暗示する微妙な補助手段として、きわめて成功したものである。 左右の腕の位置の変化は、天衣の左右整斉とからみあって、体全体に、流るるごとく自由な、そうして均勢を失わない、快いリズムをあたえている。 横からながめるとさらに新しい驚きがわれわれに迫ってくる。 肩から胴へ、腰から脚へと流れ下る肉づけの確かさ、力強さ。 またその釣り合いの微妙な美しさ。 これこそ真に写実の何であるかを知っている巨腕の製作である。 われわれは観音像に接するときその写実的成功のいかんを最初に問題としはしない。 にもかかわらずそこに浅薄な写実やあらわな不自然が認められると、その像の神々しさも美しさもことごとく崩れ去るように感ずる。 だからこの種の像にとっては写実的透徹は必須の条件なのである。 そのことをこの像ははっきりと示している。 しかしこの偉大な作品も五十年ほど前には路傍にころがしてあったという。 これは人から伝え聞いた話で、どれほど確実であるかはわからないが、もとこの像は 三輪山 ( みわやま )の 神宮寺 ( じんぐうじ )の本尊であって、明治維新の神仏分離の際に、 古神道 ( こしんとう )の権威におされて、路傍に放棄せられるという悲運に逢った。 この放逐せられた偶像を自分の手に引き取ろうとする篤志家は、その界隈にはなかった。 そこで幾日も幾日も、この気高い観音は、埃にまみれて雑草のなかに横たわっていた。 ある日偶然に、聖林寺という小さい真宗寺の住職がそこを通りかかって、これはもったいない、誰も拾い手がないのなら拙僧がお守をいたそう、と言って自分の寺へ運んで行った、というのである。 聖林寺観音の左右には 大安寺 ( だいあんじ )の不空羂索観音や 楊柳観音 ( ようりゅうかんのん )が立っている。 それと背中合わせにわが百済観音が、 縹渺 ( ひょうびょう )たる雰囲気を漂わしてたたずむ。 これは 虚空蔵 ( こくうぞう )と呼ぶのが正しいのかも知れぬが、伝に従ってわれわれは観音として感ずる。 その右に立っている法輪寺虚空蔵は、百済観音と同じく左手に澡瓶を把り、右の 肱 ( ひじ )を曲げ、 掌 ( たなごころ )を上に向けて開いている。 これも観音の 範疇 ( はんちゅう )に入りそうである。 さらに百済観音の左には、薬師寺(?)の、破損はひどいが 稀有 ( けう )に美しい木彫の観音があって、ヴィナスの艶美にも似た印象をわれわれに与える。 その後方には法隆寺の小さい観音が立っている。 目を転じて室の西南隅に向かうと、そこには大安寺の、 錫杖 ( しゃくじょう )を持った女らしい観音や一輪の蓮花を 携 ( たずさ )えた男らしい観音などが、ズラリと並んでいる。 さらに目を転じて室の北壁に向かうと、そこにも 唐招提寺 ( とうしょうだいじ )などの木彫の観音が、あたかも整列せしめられたごとくに、並び立っている。 室の中央には法隆寺の小さい 金銅観音 ( こんどうかんのん )が、奇妙な微笑を口元に浮かべつつ、台上のところどころにたたずんでいる。 岡寺の観音は 半跏 ( はんか )の膝に肱をついて、夢みるごとき、和やかな瞑想にふける。 それが弥勒であるとしても、われわれの受ける印象は依然として観音である。 十大弟子、天竜八部衆、二組の四天王、帝釈・梵天、 維摩 ( ゆいま )、などを除いて、目ぼしいものはみな観音である。 これは観音像がわりに動かしやすいために、自然に集まってきたというわけかも知れない。 しかし考えてみると、三月堂の不空羂索観音、聖林寺の十一面観音、薬師寺東院堂の聖観音、 中宮寺 ( ちゅうぐうじ )観音、 夢殿 ( ゆめどの )観音など、推古天平の最も偉大な作品は、同じくみな観音である。 他に 薬師如来 ( やくしにょらい )の傑作もあるが、観音の隆盛にはかなわない。 だから推古天平室に観音の多いことは、直ちに推古天平時代の観音崇拝の勢力を暗示するとみてよいであろう。 観音崇拝の流行は上代人心の動向を知るに最も都合のいいものである。 聖母崇拝と似たところがないでもない。 また阿弥陀崇拝や浄土の信仰に転向してゆく契機がすでにこの内に含まれているとも見られる。 推古、白鳳、天平と観音の様式や気分が著しく変化して行ったことも、ただ外来の影響とのみ見ず、新しいものの魅力に引きずられて行く礼拝者の新しい満足という方面からも解釈してみなくてはならない。 観音の様式の変化でまず著しいのは、聖林寺観音と百済観音との間に示されているものである。 わたくしは聖林寺観音の写実的根拠のことを言った。 写実はあらゆる造形美術の地盤として動かし難いと思う。 しかしこの写実は、 写真によって代表せられるような平板なものではない。 それは作者の性格を透過し来たることによってあらゆる種類の変化を示現し得るような、自由な、「芸術家の眼の作用」を指すのである。 芸術家は本能的に物を写したがる。 がまた本能的にその好むところを強調する自由を持っている。 この抑揚のつけ方によって、個性的な作品も生まれれば、また類型的な作品も生まれる。 時代の趨勢によっていずれか一方の作家が栄えるということはあるが、いずれの道によるも要するに芸術は個によって全を現わそうとする努力である。 われわれの観音の時代は、製作家がただ類型を造り出すのに骨を折る時代であった。 しかしその仕事においても、抑揚のつけ方は自由であった。 このことを拡大して見せているのが聖林寺観音と百済観音との対照である。 百済観音は写実的根拠を有する点において聖林寺観音に劣らない。 あの肩から腕へ、胸から胴への清らかな肉づけや、下肢に添うて柔らかに垂れている絹布のひだなどには、現実を鋭く見つめる眼のまがいなき証拠が現われている。 しかしこの作家の強調するところは聖林寺観音の作家の強調するところと、ほとんど全く違っているのである。 この相違のうしろには、民族と文化とのさまざまな転変や、それに伴う作家の変動などが見られるかもしれない。 百済観音は朝鮮を経て日本に渡来した様式の著しい一例である。 源は六朝時代のシナであって、さらにさかのぼれば西域よりガンダーラに達する。 上体がほとんど裸体のように見えるところから推すと、あるいは中インドまで達するかも知れない。 しかるにこのガンダーラもしくはインド直系であるはずの百済観音は、ガンダーラ仏あるいはインド仏に似るよりも、むしろはるかに多く漢代の石刻画を思わせる。 全体の気分も西域的ではない。 すなわちガンダーラやインドの美術はシナにはいってまず 漢化せられたのである。 もっとも漢化せられずに西域そのままの様式を持続していたもののあることは大同の石仏などの示している通りであるが、しかし百済観音が代表しているのは漢化せられた様式だけである。 そうしてこの様式こそシナにおける創作と言い得るものであろう。 シナの美術が全面的にギリシア美術の精神を生かしてきたのは、ガンダーラが 廃滅に帰した後、 恐らく二世紀以上もたってから、 玄弉 ( げんじょう )が中インドのグプタ朝の文化を大仕掛けに輸入した後のことらしい。 かく漢化の時代が先に立ち、諸文化融合の時代があとに来たために、様式の変化は歴史の進程と逆になっているが、そこにはまた六朝から唐へかけてのシナ文化の推移が語られているように思う。 百済観音をこの推移の標本とするのは、少し無理である。 竜門の浮き彫りなどに現われた直線的な衣の手法は、夢殿観音には似ているが百済観音には似ていない。 しかしここで問題としたいのは、あの直線的な手法の担っている様式的な意義なのである。 百済観音は確かにこの鋼の線条のような直線と、鋼の薄板を彎曲させたような、硬く鋭い曲線とによって貫かれている。 そこには簡素と明晰とがある。 同時に縹渺とした含蓄がある。 大ざっぱでありながら、微細な感覚を欠いているわけでもない。 形の整合をひどく気にしながらも、形そのものの美を目ざすというよりは、形によって暗示せられる何か抽象的なものを目ざしている。 従って「観音」という主題も、肉体の美しさを通して表現せられるのではなく肉体の姿によって暗示せられる何か神秘的なものをとおして表現せられるのである。 垂れ下がる衣のひだの、永遠を思わせる静けさのために、下肢の肉づけを度外しているごときは、その一例と見ることができよう。 従ってこの作家は、肉体の感覚的な性質の内へ食い入って、そこから神秘的な美しさを取り出すというよりも、表面に漂う意味ありげな形を捕えて、その形をあくまでも追究して行こうとするのである。 そこに漢の様式の特質も現われている。 しかしこの像の美しさは、それだけでは明らかにならない。 右のような漢の様式の特質を中から動かして仏教美術の創作に趣かせたものは、漢人固有の情熱でも思想でもなかった。 外蛮の盛んな侵入によって、血も情意も烈しい混乱に陥っていた当時の漢人は、和らぎと優しみとに対する心からの憧憬の上に、さらにかつて知らなかった新しい心情のひらめきを感じはじめていた。 それは地の下からおもむろに萌え出て来る春の予感に似かよったものであった。 かくしてインドや西域の文化は、ようやく漢人に 咀嚼 ( そしゃく )せられ始めたのである。 異国情調を慕う心もそれに伴って起こった。 無限の慈悲をもって衆生を抱擁する異国の神は、ついにひそやかに彼らの胸の奥に忍び込んだのであった。 抽象的な「天」が、具象的な「仏」に変化する。 その驚異をわれわれは百済観音から感受するのである。 彼らは新しい目で人体をながめ、新しい心で人情を感じた。 そこに測り難い深さが見いだされた。 そこに浄土の象徴があった。 そうしてその感動の結晶として、 漢の様式をもってする仏像が作り出されたのである。 わたくしは百済観音がシナ人の作だというのではない。 百済観音を形成している様式の意義を考えているのである。 シナではそれはいくつかの様式のうちの一つであった。 しかし日本へくるとこの様式がほとんど決定的な力を持っている。 それほど日本人はこの様式の背後にある体験に共鳴したのである。 百済観音の奇妙に神秘的な清浄な感じは、右のごとき素朴な感激を物語っている。 あの円い清らかな腕や、楚々として濁りのない滑らかな胸の美しさは、人体の美に慣れた心の所産ではなく、初めて人体に底知れぬ美しさを見いだした驚きの心の所産である。 あのかすかに微笑を帯びた、なつかしく優しい、けれども憧憬の結晶のようにほのかな、どことなく気味悪さをさえ伴った顔の表情は、慈悲ということのほかに何事も考えられなくなったういういしい心の、病理的と言っていいほどに烈しい偏執を度外しては考えられない。 このことは特に横からながめた時に強く感ぜられる。 面長 ( おもなが )な柔らかい横顔にも、薄い体の奇妙なうねり方にも。 しかし百済観音の持っている感じはこうでもしなくてはいい現わせない。 あの 深淵 ( しんえん )のように 凝止 ( ぎょうし )している生の美しさが、ただ技巧の拙なるによって生じたとは、わたくしには考えられぬ。 それは僧侶であったかも知れぬ。 三月堂の 良弁 ( ろうべん )が彫刻家としても優れていたという伝説などは、一概に 斥 ( しりぞ )けてしまうわけには行かないであろう。 良弁堂の良弁像が 良弁の自作であるという伝えは、この像が 貞観 ( じょうがん )時代の作と見られる限り、信をおきがたいものであるが、しかしそれは良弁が彫刻家でもあったことを否定すべき理由とはならない。 三月堂の建築と言い、堂内の彫刻と言い、良弁に関係のあるものがすべて第一流の傑作であることは、少なくとも良弁が非常によく芸術を解する人であり、また非常に優れた芸術家を配下に持っていた、ということの証拠である。 もしあの良弁像が自作であるならば、良弁は第一流の彫刻家であるが、もし彼の配下の彫刻家もしくはその弟子があれを 刻 ( きざ )んだとすれば、彼は天下随一の彫刻家を養成したわけである。 実際良弁像に現われたような優れた写実の腕前は、天平時代にも貞観時代にも珍しい。 あれの造れる人なら確かに三月堂や聖林寺の観音も造れたろうという気がする。 東大寺の一派が天平芸術の中核をなしているのは、確かに天才が良弁の近くにいたために相違ない。 大仏鋳造のごときもこれと離して見ることはできない。 聖武帝をこの決意に導いたのが良弁だという『 元亨釈書 ( げんこうしゃくしょ )』等の説も、恐らく真実であろう。 ただあの巨大な堂塔と巨大な 金銅仏 ( こんどうぶつ )とを 最初に幻想したのが良弁であったかあるいは他の天才であったかは知ることができぬ。 薬師寺の銅像や法隆寺の壁画ができてから三月堂の建造に至るまでには、少なくとも二十年余りの歳月がたっている。 それから大仏の鋳造が計画せられるまでには、また十年の間がある。 開眼供養 ( かいげんくよう )はなおその十年後である。 もしある天才芸術家の在世を考えるならば、この歳月によって年齢の関係をも顧みなくてはならぬ。 一人の天才の存否は時代の趨勢よりも重い。 天平後期の芸術に著しい変化が認められるのは、外来の影響のみならず、この種の芸術家が死んだということにもよるであろう。 作家の名や生活がわからないにしても、作品に個性が認められることは事実である。 三月堂の諸作や聖林寺観音などを一群として、これを興福寺の十大弟子や天竜八部衆に比べて見る。 あるいは大安寺の木彫諸作を、唐招提寺の木彫に比べて見る。 あるいはもっと詳しく、たとえば大安寺の楊柳観音・四天王の類を同じ寺の十一面観音などと比べて見る。 そこにあるのは単に技巧上の区別ではない。 明らかに作家の個性の相違である。 興福寺の諸作は 健陀羅 ( ガンダーラ )国人問答師の作と伝えられている。 その真偽はとにかくとして、あの十大弟子や八部衆が同一人の手になったことは疑うべくもない。 その作家は恐らく非常な才人であった。 そうして技巧の達人であった。 けれどもその巧妙な写実の手腕は、不幸にも深さを伴っていなかった。 従ってその作品はうまいけれども小さい。 この作家の長所は、幽玄な幻像を結晶させることにではなく、むしろ写実の警抜さに、あるいは写実をつきぬけて鮮やかな類型を造り出しているところに、認められなくてはならぬ。 釈迦の弟子とか竜王とかということを離れて、ただ単に僧侶あるいは武人の風俗描写として見るならば、これらの諸作は得難い逸品である。 竜王の顔において特にこの感が深い。 ここに看取せられるのは現実主義的な作者の 気禀 ( きひん )である。 それによって判ずれば、この作者がシナにおいて技を練ったガンダーラ人であるということは必ずしもあり得ぬことではない。 しかしわれわれの見聞した限りでは、この作に酷似する作品はシナにも西域にも見いだされない。 従ってこの作者が我が国の生み出した特異な芸術家であったということも、許されぬ想像ではない。 興味をこの想像に向ければ、「問答師」なる一つの名は愛すべく珍重すべき謎となるであろう。 大安寺の諸作は右の諸作ほど特異な才能を印象しはしない。 もっとふっくりした所もあり、また正面から大問題にぶつかって行く大きい態度も認められる。 しかし写実がやや表面に流れているという非難は避けることができない。 あの楊柳観音の横の姿などは、いかにもよく安定した美しい調和、どっしりとした力強さを印象するが、しかし何となく余韻に乏しい。 その円い腕なども、微妙な感覚を欠いている。 四天王にしても、これという欠点はなく、面相などは非常にいいが、しかし全体の感じにどこか物足りない、平凡なところがある。 道慈 ( どうじ )が大安寺を建てたのは三月堂よりも前であった。 しかしこれらの木彫がそのときにできたかどうかはわからない。 感じから言えばもっと新しい。 材料を木に取って、 乾漆 ( かんしつ )では出すことのできないキッパリした感じを出そうとしているのが、その新しい証拠である。 写実の技巧が一歩進んでいることも認めなくてはなるまい。 それらの点から考えると、三月堂派の傑作に対抗してそれ以上に出ようとする心持ちが、これらの作家になかったとは言い切れない。 しかし不幸にもその熱心は外面にとどまった。 彼らの見た幻像は三月堂派の作家のそれよりははるかに 朧 ( おぼ )ろであった。 従って、形がますます整って行くと反対に、彫像の印象はますます新鮮さを失った。 大安寺の女らしい十一面観音は、恐らくこれらの作家に学んで、さらにその道を押し進めた作家の作であろう。 頭部は後代の拙い補いだから論外として、その肢体はかなり写実的な女の体にできている。 胸部と腰部とにおいてことに著しい。 そこには肉体に対する注意がようやく独立して現われて来たことを思わせるものがある。 観音らしい威厳はないが、ヴィナス風の美しさは認められる。 この像から頭部と手とをきり離して、ただ一つの女体の像として見るならば、大安寺の他の諸像よりははるかに強い魅力を感ぜしめるであろう。 唐招提寺の破損した木彫は、右の十一面観音と非常によく似た手法のものであるが、しかし感じはもっと大まかなように思う。 唐から来た 鑑真 ( がんじん )が唐招提寺に一つの中心を造ったのは、大仏の開眼供養よりは六七年も後のことで、ここに天平時代の後期が始まるのであるが、同じく 玄宗 ( げんそう )時代の流風を伝えたにしても、三四十年前の道慈の時とは、かなり違って現われるのが当然である。 不幸にして新来の彫刻家は、 気宇 ( きう )の大なるわりに技巧が 拙 ( つたな )かった。 大自在王といい釈迦といい、豊かではあっても力が足りない。 ことに釈迦は、大腿が著しく太く衣が肌に密着している新しい様式のものであるが、どうも 弛緩 ( しかん )した感じを伴っているように思われる。 しかしそういう点にまた作家の個性が現われているのかも知れない。 このほかに法隆寺なども、有力な一派をなしていたに相違ない。 この室には塑像の四天王や梵天帝釈や、五重塔内の塑像などが出ているが、少なくともこの塑像と四天王とには共通の気分が認められる。 おっとりとした、 山気 ( やまけ )のない、自ら楽しんで作るといったふうの、非常に気持ちのいい芸風である。 女と童女との塑像で見ても明らかなように、写実としては確かな腕が現われていながら、強い幻想の空気に全体を包まれている。 多聞天や広目天もこの意味でかなり優れた作だと思う。 わたくし 一己 ( いっこ )の 好悪 ( こうお )によっていうと、興福寺の竜王よりはこの天王の方がすぐれている。 奇妙なことかも知れぬが、腕のとれた彫刻などでも、あまりに近くへよると、不思議な生気を感じて、思わずたじたじとすることがある。 ただ記憶に残っている像でも、生きている人と同様に妙な親しみやなつかしみを感じさせる。 それから考えると、昔の人が仏像を幻視したということは少しも不思議ではない。 また観音像に恋した比丘や比丘尼の心持ちも理解できるように思う。 『 日本霊異記 ( にほんりょういき )』は書き方の幼稚な書であるが、天平の人のそういう心持ちを表現している点でおもしろい。 法隆寺のものでは、金堂の 天蓋 ( てんがい )から取りおろしてこの室に列べられた 鳳凰 ( ほうおう )や天人が特に興味の深いものである。 鳳凰は大きい三枚の尾羽をうしろに高くあげて、今飛びおりたばかりの姿勢を保っているが、その尾羽のはがねのように堅そうな、それでいて鳥の羽らしく柔らかそうな感じは、全く独特である。 荒っぽくけずられた、体のわりに大きい足は、頭部の半ばを占めている偉大なくちばしと共に、奇妙にのんきな、それでいて力強い、かなり緊張した印象を与える。 簡素で、 雄勁 ( ゆうけい )で、警抜である。 百済観音について言ったような直線と直線に近い曲線とが全体を形造っているのではあるが、同時にまた簡単な水墨画に見るような自由なリズムの感じもある。 天人は 琵琶 ( びわ )を持って静かに 蓮台 ( れんだい )の上にすわっている。 素朴な点は鳳凰にゆずらない。 また鳳凰と同じく顔と手が特に大きい。 しかも誇張の感じはほとんどない。 そればかりでない、あの眼と口とは、その大きさのゆえに、一種奇妙な、蠱惑と威厳との相混じたような印象を与える。 わたくしはかつてこの像こそ日本人固有の情緒を現わしたものであろうと感じたことがあった。 しかし竜門浮き彫りの拓本などを見ると、これに似た感じがそこにもある。 従ってこの像は、漢人にも共通であるこの種の情緒を、特に好く生かせたものと見るべきであろう。 その意味でこの像はわれわれの祖先のものである。 これらのものを見ると、法隆寺の天蓋の作られた時代や、その時代の法隆寺の作者たちは、実に恐るべきものである。 法隆寺の作品はこのほかになお注意すべきものが少なくない。 維摩の塑像のごときは我々を 瞠目 ( どうもく )せしむるに足る小気味のいい傑作で、 三月堂の梵天・ 帝釈(寺伝日光・月光)や広隆寺の 釈迦(弥勒?)などと共に、ガンダーラ式手法の発展したものではないかと思う。 もっともその発展はシナ人の手によって成し遂げられたのかもしれないが、しかしわれわれはシナの遺品でこれと同じ感じのものを知らない。 従ってわれわれはこれらの像の与える感じをシナ風であるとは思わない。 むしろ日本人の方が、この写実的精神を受けついだのではないかと考えざるを得ない。 思えばこの種の大芸術は民族と文化との混融から来た一時的な花火であった。 もしこれを順当に成長させて行く力が、われわれの祖先に宿ってさえいたならば、われわれは自信をもって日本文化の権利を主張し得ただろうにと思う。 法隆寺の 銅板押出仏 ( どうばんおしだしぶつ )は小さいものではあるが、非常に美しい。 特に本尊阿弥陀のほのかに浮き出た柔らかな姿は、法隆寺壁画の阿弥陀を思わせる。 これは唐からの輸入品で、壁画となにか関係を持っているかもしれない。 もともとこの仮面は、高揚した芸術創作の欲望から生まれたものではなく、幾分戯画的気分に支配せられた、第二義的な製作欲の所産であろう。 しかし人間の感情をある表情の型によって表現する手際には、実に驚くべきものがある。 それは第一に、厳密な写実的根拠を持っている。 第二に、ある表情の急所を鋭く捕えて、一挙にそれを類型化している。 従ってそのねらい所が、深い内部的な、感情にある場合には、恐るべく立派な芸術品になるが、それに反して外面的な滑稽味や、醜い僻や、物欲に即した激情などにある場合には、あまり高い芸術的価値を感ぜしめない。 たとえば人の表情の内には猿との類似を思わせるものがある。 それを鋭く捕えて一つの型にしたところで、われわれはその巧妙な捕え方に驚くばかりで、芸術的印象をうけはしない。 しかし内心から湧き出る悲哀や歓喜の表情がある濃淡をもって一つの明白な型に仕上げてあるのを見ると、われわれは汲めどもつきぬ生の泉に出逢ったような強い喜びを感ずるのである。 仮面の表情は、単に型化せられているばかりでなく、また著しく誇張せられている。 しかしそれは、伎楽面製作の本来の動機が、表情を誇大した仮面によって、広い演伎場の多衆の看客に、遠い距離において明白な印象を与えたいという所にあるからであって、必ずしも創造力の薄弱に基づいているのではない。 従ってこれらの仮面には誇張に伴うはずの空虚な感じなどはなく、空間的関係の特殊な事情による一種異様な生気さえも現われて来るように思われる。 このことは天平の伎楽面を鎌倉時代の 地久面 ( ちきゅうめん )、 納曾利面 ( なそりめん )の類と比較して見れば明らかである。 鎌倉時代の面は創造力の弱さを暴露した作品であって、そこにはただ生命の実感と縁の少ない誇張のみがある。 それは重心が 末梢 ( まっしょう )神経へ移ったような病的な生活の反映であるといってよい。 そこに作者の現わそうとするのは、現実の深い生に触れて得られた Vision ではなく、疲れた心を襲う 荒唐 ( こうとう )な悪夢の影である。 そこには人間的なものは現われていない。 女の顔を刻んだ面すらも、天平の 天狗 ( てんぐ )の面よりはもっと非人間的である。 従って芸術としての力ははるかに弱い。 かつてわたくしはH氏のところで、天平伎楽面の傑作の一つを親しく手にとって賞玩したことがある。 その頬の肉付けの、おおらかにゆったりとした、しかもこまかい濃淡を逸していない、落ちつきのある快さ。 目や鼻や口などの思い切って大胆な、しかし自然の美しさを傷つけない巧妙な刻みかた。 皺として彫られた線のゆるやかなうねりと、顔面凹凸の滑らかな曲面の感じとの、快く調和的なリズム。 そうしてその弾力のありそうな、生気に充ちた膚肉の感じ。 それをながめていると、顔面に漂うている表情から、陶酔にやや心を 緩 ( ゆる )うしているらしい曇りのない快活な情緒が、しみじみ胸にしみ込んで来る。 生きた人に間近く接した時感ぜられる、あの、生命の放出して来るような感じが、ここにも確かに存しているように思える。 しかも相手が人間ではなくて彫刻であるために、そこに一味の気味わるさが付きまとっている。 そのときH氏が、その仮面をとって自分の顔の上につけた。 この所作によって仮面は突然に異様な生気を帯びはじめた。 ことに仮面をかぶったH氏が少しくその首を動かしてみたとき、顔面の表情が自由に動き出したかと思われるような、強い効果があった。 わたくしは予期しなかったこの印象に圧せられて、思わず驚異の眼をみはった。 仮面を畳の上に横たえ、または手にとって自分の膝の上に置いた時には、それはその本来あるべき所にあるのではない。 われわれはこれまで仮面をその作られた目的から放して、それだけで独立したものとして観察するに慣れていたのである。 普通人の顔の四倍もありそうなその仮面を、人体と結びつけて想像することは、この驚異の瞬間まではわたくしには不可能であった。 しかしさてこの仮面が、仮面としてそのあるべき所に置かれて見ると、そのばかばかしい大きさは少しも大き過ぎはしない。 むしろその大きさのゆえに人が仮面をつけたのでなくして、芸術的に造られた一つの顔が人体を獲得した、と言っていいような、近代人の想像をはずれた、おもしろい印象が作り出されるのである。 ここではじめてわたくしは、仮面を何ゆえに大きくしたかを了解した。 そうして、ギリシアの劇の仮面も同じくらいな大きさであったことを思い出し、この種の仮面の効用と大きさとの間に必然の関係のあることに思い到ったのである。 後代の仮面が天平の伎楽面に比して著しく小さくなっているのは、その用いらるる舞踏や劇に著しい変化のあったことを語るものであろう。 わたくしはこの時の強い印象によって、天平時代に伎楽面を用いた伎楽が、音楽と舞踏とから成る 所作事 ( しょさごと )であったに相違ないという考えを抱きはじめた。 いま数の多い伎楽面を一々ながめ味わってみると、このさまざまな表情のうしろにそれぞれ所作事における役割を感じ出せるように思う。 伎楽演奏の記事は『 続紀 ( しょくき )』にもところどころに現われている。 それによると、諸大寺供養の際のみならず、また宮中の儀式や饗宴の際にも演奏され、時にはその演奏自身を目的とする催しもあったらしい。 孝謙女帝が幸 二山階寺 一奏 二 林邑及呉楽 一などはこの類であろう。 しかし『続紀』は単に名を挙げるのみで、内容の記述に及んでいない。 伎楽がいかなるものでありいかにして演奏されたかは、他の書によって知るほかはない。 そこで問題となるのは、あの仮面を保存していた東大寺の『要録』である。 ここではそれに基づいて、できる限りの想像を試みてみよう。 まず舞台である。 大仏開眼供養の記事には舞台の記述がまるでないが、貞観三年の「開眼供養記」はかなり具体的にその構造をしるしている。 この開眼供養は大仏の頭が地に堕ちたのを修繕した時のことで、最初の開眼供養からすでに百年以上の年月を経たのちである。 その間に文化一般の非常な変遷があり、それに伴って音楽の大改革もあった。 従ってこの際の記述をもって直ちに天平時代の光景を推測することはできない。 しかし幾分の参考にはなるであろう。 第一に舞台は 戸外に設けられた。 すなわち大仏殿前の広場である。 これは天平時代にも同様であったらしい。 楽人たちが左右に分かれて堂前に立ったという記述からそう推測しても間違いはあるまい。 次に舞台は木造の高壇であった。 方八丈、周囲に高欄をめぐらし、四面に額をかける。 舞台上東西には宝樹八株ずつを植え、その側に 礼盤 ( らいばん )一基ずつを据える。 他に 玉幡 ( ぎょくばん )をかける高座二基、高さ三丈三尺の 標 ( ひょう )一基などが、恐らく舞台の近くに設けられたらしい。 また別に広さ二丈長さ四丈の小舞台が、大殿中層南面に造られた。 これらの構造が天平時代にもあったかどうかは疑わしい。 少なくとも開眼供養の時には、 踏歌 ( とうか )の類はじかに庭の上で演ぜられたのである。 東西発声、分 レ庭而奏(続紀)とある。 伎楽などのために別に舞台が設けられていたかとも思われるが、どうも明らかでない。 舞台の他にはなお 幄 ( あげばり )(天幕)が設けられた。 貞観の時は東西三宇ずつで、それが楽人・勅使・諸大夫等の席になっている。 天平の時には開眼師・菩提僧正以下、 講師 ( こうし )・ 読師 ( どくし )が 輿 ( こし )に乗り 白蓋 ( びゃくがい )をさして入り来たり、「堂幄」に着すとある。 また衆僧・沙弥南門より参入して「東西北幄」に着すとある。 貞観の時は東西南の歩廊及び軒廊に千僧の床を設けたが、天平の時にはまだ歩廊ができていなかったので、それだけ多くの幄舎を設ける必要があったのかも知れない。 これらの設備を含む大仏殿前の広場は、濃い単色の衣を着飾った天平の群集によって取り巻かれた。 僧尼の数は一万数百人としるされているが、他に数千の官人も参集したであろうし、また一般の民衆も、たとい式場にはいることはできなかったにしても、この大供養の見物に集まって来なかったはずはない。 そこで華やかな衣の色が一面に地を埋め、東大寺の 伽藍 ( がらん )はこの色の海の上に浮いていたことになる。 もとより大仏殿は今のように左右に寸のつまった不格好なものではなかった。 現在は正面の柱が八本であるが、最初は十二本あって、正面の大きさがほとんど倍に近かった。 またこの堂に対して、中門の外側の左右には三百二十尺の高塔ができかかっていた。 これらの堂塔の大きさは、ただ想像するだけにも骨が折れる。 この雄大な建築と、数知れぬ人の波との上に、うららかな初夏の太陽が、その恵み深い光と熱とを注いでいたのである。 開眼の式がすむ。 講読がおわる。 種々の楽が南門柱東を過ぎて参入し、堂前を二度回って左右に分かれて立つ。 そこでいよいよ舞台が衆人注意の焦点に来る。 まず現われたのは日本固有の舞踏である。 最初のは『続紀』に 五節 ( ごせちのまい )とあり、『要録』に 大歌女 ( おおうため )、大御 三十人とある。 天の岩戸の物語と結びつけられているあの「踏みとどろかす」ところの踊りであろう。 次は 楯伏舞 ( たてふしまい )四十人、これも武人の踊りで、手に 楯 ( たて )をもって節度を刻んだものらしい。 次が 踏歌 ( とうか )(あるいは女漢 躍歌 ( とうか ))百二十人、これは女が二組に分かれて歌いながら踊るのであろうが、『釈日本紀』の引用した説によると歌曲の終わりに「 万年阿良礼 ( よろずとせアラレ )」という「 繰り返し ( リフレイン )」がつくので、たぶん藤原時代以前から俗にこの踊りを 阿良礼走りと言った。 走るというのだからほぼ踊りかたの想像はつく。 これらの歌舞が一わたりすむと、その次が唐及び 高麗 ( こま )の舞楽である。 さてこれらの楽と舞とがいかなるものであったか、それを想像するのがここでの関心の焦点である。 われわれの前にある伎楽の面がこれらの舞楽のあるものに、(少なくとも三つの林邑楽に)用いられたことは疑いがないであろう。 正倉院にはこの時の面が保存せられているそうであるが、もとより同じ感じのものであろう。 衣裳もこの時のものが残っているといわれるが、詳しくはわからない。 天保四年の目録によると、長持のなかに「御衣類色々、古織物数多」や「御衣類、塵芥」などがあった。 今でも塵芥のようになった古い布地はおびただしい数量であると言われる。 その中からこの時の衣裳を取り出すのは困難であろう。 貞観供養の記録には舞女装束、唐衣、唐裳、菩薩装束などの言葉が見え、またその材料らしく 調布三百二十反、 絹八疋、 唐錦九尺、 紗一疋、 青摺衣 ( あおずりごろも )二領、 鞋 ( くつ )十足などもあげられているが、 弘法 ( こうぼう )滅後の風俗変遷を経た後の貞観時代にどれほど天平の面影を残していたかはわからない。 唐衣という言葉はその衣の起源を示すのみで、必ずしも唐風の忠実な保存を意味してはいないのである。 いわんや藤原後期の舞楽装束が、天平のそれを推測する根拠となり得ないのは言うまでもあるまい。 従って最もたしかなのは、天平の画によって想像することである。 そこに描かれている衣裳は、肉体の輪郭やふくらみをはっきりと浮かび出させ、筋肉の表情を自由に外に現われしめるような、柔らかく垂れ下がったものであるが、伎楽の衣裳もそういう類ではなかったかと思われる。 特にインドの風を現わしたものはそうでなくてはならなかったであろう。 貞観の供養にさえも菩薩などは仏像彫刻と同じような扮装をしたらしい。 まして、唐風流行の天平時代に、西域風、インド風やペルシア風などの衣裳を大胆に用いたとしても、少しも不思議はない。 舞台上の所作については、貞観の「供養記」がその幾分を伝えている。 午二剋 ( うまのにこく )に、人鳥の扮装をした東大寺林邑楽が、供物をささげ、東西二列に分かれて舞台から堂上へと静かに歩いて行く。 舞台には 一疋 ( いっぴき )の大きい白象が立っている。 その背に造られた玉台の上には、白い肌のあらわな 普賢菩薩 ( ふげんぼさつ )が、彫刻や画にある通りの姿をして、瞑想に沈んでいる。 やがて 伽陵頻伽 ( かりょうびんが )の人鳥が供物を仏前にささげて帰って来ると、 誦讃 ( じゅさん )の声につれて菩薩が舞い出す。 伽陵頻伽も二行に対立して、楽を奏しつつ舞う。 多門天王が従鬼十四人をひきいて(あるいは王卒と十二 薬叉 ( やくしゃ )とをひきいて)現われる。 弓を持つもの 鉾 ( ほこ )を持つもの、 斧 ( おの )を持つもの、棒を持つものが一人ずつある。 また同時に吉祥天女が天女二十人をひきいて現われる。 内十六人は各造花一茎をささげ、他に 如意 ( にょい )、 白払 ( びゃくほつ )、 扇 ( れいせん )等を持つものがある。 天王薬叉も天女も皆彫刻や画にある通りの扮装をしていたと考えていい。 彼らも東西二列となって舞台から仏前に至り供物をささげて再び舞台に帰ってくる。 そこで王卒・薬叉の類は舞台 辰巳角 ( たつみかど )に立つ。 天女十六人は左右に分かれて舞を舞う。 大自在天王が天人六十人をひきいて現われる。 二十人は 天衣綵花 ( てんいさいか )を盛り、四十人は音楽を調べる。 東西に別れて舞台に列び、仏を讃歌していうには、 仏身安座一国土 一切世界悉現身 身相端厳無量億 法界広大悉充満 讃歌がおわると天人らは綵花を散らし始める。 繽紛 ( ひんぷん )として花が浮動する。 次いで天人が舞う。 舞はまだ午四剋から 酉 ( とり )四剋まで続くのであるがあとは略して右の三例を考えてみよう。 前の二つは記録にも明らかに新作だとことわってあり、後の一つも華厳経の句を讃歌に使ったところから推して大仏供養のための特殊なものであったことが察せられる。 作者は唐舞師、笛師などとあるから、 雅楽寮 ( ががくりょう )の役人であったかも知れない。 舞の振りや楽の 旋律 ( せんりつ )を無視して論ずるのは無謀であるが、ただこの舞曲の構造から考えると、恐らく活人画を去ること遠くないものであったろう。 それは経典と仏像とから得た幻想のきわめて素朴な表現であって、特に芸術家の創造力を示したものではない。 貞観の初めは 恵心院源信 ( えしんいんげんしん )の晩年であって、 来迎図 ( らいごうず )に現われたような特殊な幻想がすでに力強く育っていた。 右の諸作にもこの傾向は著しく認められる。 もしこれを日本化というならば、これらの舞楽はすでに日本化せられたものである。 従ってそれらはあの大きい伎楽面に似合うよりは、むしろ後代の平凡な小さい仮面に似合うものと言ってよい。 とすれば、われわれは貞観の『供養記』からしては天平の伎楽面にふさわしい伎楽を見いだし得ないのである。 天平の伎楽と貞観の舞楽との間に右のごとき区別が生じたのは、貞観供養より先だつ二三十年、弘法滅後の 仁明帝 ( にんみょうてい )前後の時代に行なわれた音楽の大改革のゆえであろう。 この時代には高麗楽のみが栄え、伎楽も林邑楽もその独立を失った。 そうして新しく唐新楽( 羯鼓楽 ( かっこがく ))が起こり、高麗楽と共に左右楽部として 雅楽なるものを形成した。 そこで 新作改作が盛んに行なわれ、新しい 日本的外国楽が成立するに至ったのである。 この機運が 神楽 ( かぐら )や 催馬楽 ( さいばら )などにも著しく外国楽を注ぎ入れたところから見ると、当時の日本化は、外来の音楽・舞踏のうちから特に日本人(すなわち帰化人が帰化人として目立たなくなったほど混血の完了した平安中期の日本人)の趣味に合う点のみを抜き出して育てることであった。 だから偉大なものも、彼らの趣味に合わない限り、捨て去られる。 伎楽のごときはこの意味で骨抜きにされたのである。 林邑楽はインドの舞曲で、特に バラモン教の畑に育ったものらしい。 しかし仁明時代の変革でそのバラモン的香気を失ったことは、貞観供養の林邑楽を見てもわかる。 だから貞観以後百年二百年を経た時代に盛んに行なわれた舞楽は、たとい林邑の名を存していても、全く別物であったと考えなくてはならない。 『舞楽要録』によると、舞楽の最盛期であった藤原時代後半の数多い舞楽演奏は、二三の例外を除いてほとんど皆林邑楽の陵王(左) 納蘇利 ( なそり )(右)をプログラムの最後に置いている。 また 胡飲酒 ( こいんず )、 抜頭 ( ばとう )などの林邑楽をその中間に加えることもまれでない。 しかしこれらの林邑楽は、どの記録から推しても、あまりに繊細な 規矩 ( きく )に束縛されている。 貞観時代には素朴ながらも自由な幻想のはたらきが許されていた。 今やその自由さえも地を払っているのである。 鎌倉時代はあの別種な仮面を製作した時代であるから、 古 ( いにしえ )の舞曲に対する正しい理解があったとは思えないが、少なくとも藤原末の伝統は保たれていたであろう。 この時代に音楽生 藤原孝道 ( ふじわらのたかみち )によって書かれた『雑秘別録』なるものを読むと、当時の音楽界の雰囲気がうかがわれる。 孝道をしてこの書を書かしめたのは、音楽を覆いかくす「 秘伝相承 ( ひでんそうしょう )」への反抗である。 「秘蔵すなど申すは、家のならひなれば申すに及ばねども、理かなひても覚えず」というのが彼の主張であった。 しかし彼自身の関心も要するにこの種の秘伝の範囲をいでなかった。 胡飲酒について彼はいっている、「まことに舞にとりて異なる秘蔵大事の物とかや。 これを舞ひつれば 勧賞 ( けんしょう )をかぶる。 見たるにたゞ同じ 体 ( てい )にていづくに秘事あるべしとも見えねども、折々振舞ひて出入りにつけて秘蔵の事どもありとかや。 」そうして彼が熱心に物語るのは、藤原末における相伝の歴史である。 雅実 ( まさざね )の日記に「忠時こいんず舞ふ。 相伝なき事どもあり。 自由らうぜきのおのこなり」とあることなども引用せられている。 相伝が結局芸術の生命を 萎微 ( いび )させたのであるにかかわらず人々の注意はこの相伝を得ることに集まって、舞曲そのものの自由な考察には向かわなかった。 だから「すぢなきことは、ものの説はうせず、すがたは皆うすめり」といわれる。 菩薩舞のごときは、「白河院の頃までは、天王寺の舞人まひけれども、させることはなくて、 大法会 ( だいほうえ )にかりいだされけるを、むつかしがりて、のち伝はらずなりて、今はなしとかや。 」これは技巧の末に 拘泥 ( こうでい )する芸術の末路である。 舞楽として残存していたものは、もはや天平の活き活きとした大きい芸術ではない。 天平の伎楽面と鎌倉の伎楽面との間に、芸術的気禀の根本的相違を認め、また生の根をつかむ能力の比較にならぬほどな径庭を許すならば、以上のことは何らの考証なくしても是認せられるだろう。 では何によってあの天平伎楽面の用いられた舞曲を想像し得るのであるか。 それはあの伎楽面自身によってである。 天平時代にはあの伎楽面を用いて伎楽が演ぜられた。 伝説によると 菩薩あるいは 仏哲がインドの舞曲、菩薩舞・菩薩・部侶・ 抜頭楽 ( ばとうがく )の類を伝え、 開眼大会 ( かいげんだいえ )の時に演ぜられて来集貴賤を感嘆せしめた(東大寺要録二)。 岡部氏の研究によると、抜頭舞はベーダの神話にあるペドュ(Pedu)王蛇退治の物語を材料としたもので、抜頭はペドュの音訳であるか、あるいは王がアスヴィンの神からもらった名高い殺蛇の白馬(馬はパイドュ Paidu)の音訳であろうとのことである。 足利末にできた『舞曲口伝』には、「この曲は天竺の楽なり。 婆羅門 ( バラモン )伝来なり。 沙門仏哲これを伝ふ。 唐招提寺にありと云ふ。

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古典通解辞典 上代古典集∥埋もれ木

機 皇帝 あめ の かく のみ か づち

神話での記述 [編集 ] 古事記 [編集 ] で身の潔白を証明した天地開闢道統之七世之「秦」は、「河洛道統」~ 「に居座った。 そして、田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に乱暴を働いた。 他の神はに苦情をいうが、天照大御神は「考えがあってのことなのだ」と須佐之男命をかばった。 しかし、天照大御神が機屋で神に奉げる衣を織っていたとき、建速須佐之男命が機屋の屋根に穴を開けて、皮を剥いだを落とし入れたため、驚いた1人の天の服織女は(ひ)が陰部に刺さって死んでしまった。 ここで天照大御神は見畏みて、天岩戸に引き篭った。 もも闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。 そこで、が天の安河の川原に集まり、対応を相談した。 の案により、さまざまな儀式をおこなった。 常世の長鳴鳥()を集めて鳴かせた。 鍛冶師のを探し、に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、(やたのかがみ)を作らせた。 に八尺の勾玉の五百箇のみすまるの珠(・やさかにのまがたま)を作らせた。 とを呼び、雄のとははかの木で占い()をさせた。 を根ごと掘り起こし、枝に八尺瓊勾玉と八尺鏡とをかけ、布刀玉命がとして奉げ持った。 天児屋命が(のりと)を唱え、が岩戸の脇に隠れて立った。 が岩戸の前にを伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳の紐を陰部までおし下げて踊った。 すると、高天原が鳴り轟くように八百万の神が一斉に笑った。 岩戸神楽ノ起顕(三代豊国) これを聞いた天照大御神は訝しんで天岩戸の扉を少し開け、「自分が岩戸に篭って闇になっているのに、なぜ、天宇受賣命は楽しそうに舞い、八百万の神は笑っているのか」と問うた。 天宇受賣命が「貴方様より貴い神が表れたので、喜んでいるのです」というと、天児屋命と布刀玉命が天照大御神に鏡を差し出した。 鏡に写る自分の姿をその貴い神だと思った天照大御神が、その姿をもっとよくみようと岩戸をさらに開けると、隠れていた天手力男神がその手を取って岩戸の外へ引きずり出した。 すぐに布刀玉命がを岩戸の入口に張り、「もうこれより中に入らないで下さい」といった。 こうして天照大御神が岩戸の外に出てくると、高天原も葦原中国も明るくなった。 八百万の神は相談し、須佐之男命に罪を償うためのたくさんの品物を科し、髭と手足の爪を切って高天原から追放した。 日本書紀 [編集 ] 大日本名将鑑() 『』の第七段の本文では、素戔嗚尊が古事記と同様の暴挙を行う。 最後には天照大神が神聖な衣を織るために清浄な機屋(はたや)にいるのを見て、が皮を剥いだ天斑駒を投げ込んだ。 すると、天照大神は驚いて梭で自分を傷つけた。 このため天照大神は怒って、天石窟に入り磐戸を閉じて籠ったので国中が常に暗闇となり昼夜の区別もつかなかった、とある。 そこで、八十萬神(やそよろづのかみ)たちは天安河の河原に集まり、祷(いの)るべき方法を相談した。 以下が神のとった行動である。 :深く思慮をめぐらし、常世之長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて長く鳴かせた。 :(思兼神の指示で)磐戸の側(そば)に立つ• と:の繁ったを掘り起こし、上の枝には八坂瓊之五百箇御統(やさかにのいほつみすまる)をかけ、中の枝にはあるいは眞経津鏡(まふつのかがみ)をかけ、下の枝には青い布帛(ふはく)と白い布帛をかけ共に祈祷をした。 :手に蔓(つる)を巻きつけた矛を持ち、天石窟戸の前に立って巧に俳優(わざおさ)を作す(見事に舞い踊った)。 また、天香山の榊を鬘(かづら)としてまとい蘿(ひかげ)を襷(たすき)にし、火を焚き桶を伏せて置いて、顕神明之憑談(かむがかり)をした。 天照大神はこれを聞いて、「私はこの頃、石窟に籠っている。 思うに、は長い夜になっているはずだ。 どうして天鈿女命はこのように笑い楽しんでいるのだろう」と思い、手で磐戸を少し開けて様子を窺った。 すると手力雄神が天照大神の手を取って、引き出した。 そこで天児屋命と太玉命がを張り渡し、「再び入ってはなりません」と申し上げた、とある。 話の流れは古事記と同様だが、細部に若干の違いがある。 特に、天鈿女命は「巧に俳優行す」とあるのみで、おどけたしぐさや、神々が笑ったという描写はない。 その後、神々はを素戔嗚尊に負わせ、の品々を科した。 それ以外に髪を抜き手足の爪を剥いで償わせたとも言う、とある。 こうして、素戔嗚尊は高天原から追放された。 第七段一書(一)では、この後、(わかひるめ)が清浄な機屋で神聖な衣を織っていると、素戔嗚尊が天斑駒の皮を逆さに剥ぎ御殿の中に投げ入れた。 「稚日女尊は驚きて機墮ち所持せる梭によりて体を傷め神退(かむざ)りき」。 天照大神は素戔嗚尊に、「汝は黒心(きたなきこころ)あり。 汝と相い見えんと欲(おも)わず」と語り、天石窟に入って磐戸を閉じた。 「是に天下(あめのした)恆(つね)に闇(くら)く、また昼・夜の殊(わかち)無し」とある。 そこで、八十萬神たちは天高市(あめのたけち)で相談した。 の子の思兼神がし、「その神(天照大神)の姿を映し出すものを作って、招き寄せましょう」と申し上げた。 そして、に天香山の金(かね)を採らせ、日矛(ひほこ)を作らせた。 また、美しい鹿の皮を剥いで天羽鞴(あめのはぶき)を作らせた、とある。 この一書では、が梭で傷ついて死んだとされる。 ワカヒルメは天照の妹神とも子神ともする神社がある。 また、作らせた鏡は紀伊國に鎮座する日前神(ひのくまのかみ)である、とあるため鏡は(ひがたのかがみ・ひぼこのかがみ)と同一とされる。 第七段一書(二)では、素戔嗚尊が本文同様の暴挙を行うが、「然れども、(ひのかみ)、親み恩(めぐ)む意(こころ)にして、怒らず恨まず、皆、平らかな心以ちて容(ゆる)しき」とある。 しかし、嘗(にひなへ)を行う時に、素戔嗚尊は新宮(にひなへのみや)の席の下にこっそりと糞をした。 日神は気づかずに席に座ったため、体中が臭くなってしまう。 そのため怒り恨みて、天石窟に入ってその磐戸を閉じた、とある。 そこで神々は困り、天糠戸神(あめのぬかど)に鏡を、太玉命にを、(とよたま)に玉を作らせた。 また、山雷神(やまつち)に多くの玉で飾った榊を、(のづち)に多くの玉で飾った小竹(ささ)を作らせた。 それらの品々を持ち寄って集まり、天児屋命が(かむほぎ)を述べたため、日神は磐戸を開けて出てきた、とある。 そうした後、神々は罪を本文同様に素戔嗚尊に負わせ贖罪の品々を科して差し出させ、高天原から追い払った。 第七段一書(三)では、素戔嗚尊は自らが与えられた土地(天杙田(あまのくいた)・天川依田(あまのかわよりた)・天口鋭田(あまのくちとた))は、日神の土地(天安田(あまのやすだ)・天平田(あまのひらた)・天邑田(あまのむらあわせた))に比べ痩せた土地だったため、妬(ねた)んで姉の田に害を与えた、とある。 日神は最初は咎めず、常に穏やかに許していた、とあるが結局、天石窟に籠るのである。 その為、神々はを遣わして祷らせることにした。 以降が神々のとった行動である。 天兒屋命:天香山の榊を掘り起こす。 (興大産霊(こごとむすひ)の子)• (いしこりとべ):作った八咫鏡を上の枝にかける。 (天糠戸(あめのぬかど)の子)• (あめのあかるたま):作った八坂瓊之曲玉を中の枝にかける。 (の子)• あめのひわし):作った(ゆふ)を下の枝にかける。 太玉命:榊を持ち、広く厚く称える言葉によって祷る。 すると、日神は「頃者(このごろ)、人、多(さわ)に請(こ)うと雖(いえ)ども、未(いま)だ若此(かく)言(こと)の麗美(うるわ)しきは有らず。 」 意味:「これまで人がいろいろなことを申してきたが、未だこのように美しい言葉を聞いたことはなかった」 と言って、磐戸を少し開けて様子を窺った。 その時、磐戸の側に隠れていた天手力雄神が引き開けると、日神の光が国中に満ち溢(あふ)れた、とある。 そこで、神々は大いに喜び、素戔嗚尊に贖罪の品々を科し、手の爪を吉の物として切り棄て、足の爪を凶の物として切り棄てた。 そして天兒屋命をして其の解除(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を掌(つかさど)りて宣(の)らしめき、とある。 後、素戔嗚尊は「神々は私を追い払い、私はまさに永久に去ることになったが、どうして我が姉上に会わずに、勝手に一人で去れるだろうか」と言い天に戻る。 すると天鈿女命がこれを日神に報告する。 日神は、「我が弟が上って来るのは、 また好意(よきこころ)からではないはず。 きっと我が国を奪おうとしているのだ。 我は女だが逃げるほどでは無い」と言ってした、とある。 そして二神でが行われる運びになる。 この一書は、話の筋立てが他とは異なり、思兼神が登場しないなど大きな特徴がある。 世界の神話 [編集 ] インドネシア・タイ・トルコ・モンゴル・中国南部・サハリンなどアジアには広く射日神話・招日神話が存在する。 特に中国南部の少数民族に天岩戸と似た神話が多い。 ミャオ族は、九個の太陽と八個の月が一斉に出てきた。 弓矢で八個の太陽と七個の月を刺し殺す。 残った一つずつの日月は隠れてしまった。 天地は真っ暗。 知恵者を集めて相談しオンドリを鳴かせる。 オンドリは翼を叩いて三度鳴くと日月が顔を出した。 プーラン族は、太陽の九姉妹と月の十兄弟は、揃って天地の間にやって来て一斉に照りつける。 八個の太陽と九個の月を射落し、さらに残った月も射殺そうとした。 逃げ出した太陽と月は洞窟に隠れ夫婦になった。 世界が真っ暗になったので、オンドリを遣わし太陽と月を洞窟から出るよう説得させる。 一人は昼もう一人は夜に別々に出てくること、ただし月の初めと終わりには洞窟の中で会っていいとした。 月と太陽が洞窟から出ようとしたとき大きな岩が邪魔をして出られない。 そこで力自慢のイノシシが岩を動かして入口を開け太陽と月を外に出してやった。 ペー族には、天地が離れ始めた頃、天に十個の太陽と一個の月が昇った。 子供の太陽たちは昼夜を分かたず天を駆ける。 そのため地上は焼けるような熱さで、蛙と鶏の兄弟は太陽を追って槍で九個の太陽を刺し殺してしまう。 両親である母・太陽と父・月は恐れて天眼洞の奥深くに隠れてしまい世は真っ暗闇。 そこで蛙は天を、鶏は地を探した。 鶏が声を放って呼ぶと太陽と月は天眼洞から顔を出し、こうして大地に日月が戻った。 人々は太陽を呼び出した鶏に感謝して、赤い帽子を与えた。 その他の少数民族にもさまざまなパターンで存在する。 中には太陽と月を射殺した者が逃れて隠れた太陽と月に色々捧げてなんとか外に出て来てもらう神話や、美声を使って出て来てもらう神話もある。 中国北方の馬の文化では太陽を男性とみなし、南方の船の文化では太陽が女性として信仰されていた。 シベリアでもナナイ族やケト族など太陽を女とみる少数民族が多い。 天岩戸と呼ばれる場所 [編集 ] 天岩戸神社西本宮(宮崎県高千穂町) 天岩戸説話は天上界の出来事であるが、「ここが天岩戸である」とする場所や関連する場所が何箇所か存在する。 天の岩戸 [編集 ]• 滋賀県米原市弥高 - 平野神社。 京都府 - 皇大神宮(元伊勢内宮)、岩戸神社。 - 岩戸社。 「天岩戸神社」 - の南麓。 外宮 - 「」。 昭和時代に入山が禁止された。 三重県二見町 - 「天の岩屋」• 三重県 -• 「手力雄神社」「史跡めぐり」• 洲本市安乎町 - 岩戸川の河口北。 - 岩戸神社。 - 茅部神社の山の上方。 - 天の岩戸神社の神域にある。 秋穂二島岩屋 - 塩作りの海人の在住地、防府市の玉祖命の神社に近い。 大字岩戸 - の神域にある。 同神社西本宮の背後、岩戸川を挟んだ対岸の岸壁にあり、社務所に申し込めば案内付きで遥拝所へ通してくれる。 周辺には天安河原など、日本神話、特に岩戸隠れ神話にまつわる地名が多く存在する。 「クマヤ洞窟」 - 全国に数多ある「天の岩戸伝説」の中で最南端地。 岐阜県高山市 - 位山。 岩戸 [編集 ]• 坂戸市場 坂戸神社(袖ヶ浦市)天岩戸のかけらという伝承の岩、天磐戸の石碑がある。 戸隠 には、岩戸が落下してきた伝承がある。 和良町。 天岩戸のかけらという伝承の岩がある。 この地まで飛ばされてきたという岩がある。 伊勢神宮の「神鶏」 [編集 ] を集めて鳴かせたことから、 [ 要出典]の内宮では「神苑」という庭園に「神鶏」と呼ばれる鶏を放し飼いにしている。 脚注 [編集 ] [] 注釈 [編集 ]• 52-53頁。 53-54頁。 54-55頁。 55-57頁。 59頁。 荻原真子 『北方諸民族の世界観 - アイヌとアムール・サハリン地域の神話・伝承』 草風館、1996年2月。 ISBN 978-4-88323-086-0。 [ 要ページ番号]• 百田弥栄子 『中国神話の構造』 三弥井書店、2004年6月。 ISBN 978-4-8382-3131-7。 [ 要ページ番号]• 吉田敦彦他 『世界の神話伝説 総解説』 〈Multi book〉、2002年7月。 ISBN 978-4-426-60711-1。 [ 要ページ番号]• 『中国神話の構造』 三弥井書店、2004年6月。 ISBN 978-4-8382-3131-7。 [ 要ページ番号]• 村松一弥編訳 『苗族民話集 - 中国の口承文芸2』 〈 260〉、1974年。 ISBN 978-4-582-80260-3。 [ 要ページ番号]• 萩原秀三郎 『稲と鳥と太陽の道 - 日本文化の原点を追う』 、1996年7月。 ISBN 978-4-469-23127-4。 [ 要ページ番号]• 『「馬」の文化と「船」の文化 - 古代日本と中国文化』 、1996年1月。 ISBN 978-4-409-54050-3。 『シベリア民話集』 〈〉、1988年12月。 ISBN 978-4-00-326441-6。 伊勢神宮の歩き方. 三重県観光連盟. 2016年9月26日閲覧。 47NEWS. 2016年6月14日. 2016年9月26日閲覧。 参考文献 [編集 ]• 『日本神話 - 神々の壮麗なるドラマ』神谷礼子画、〈 63〉(原著2003年10月26日)、初版。 978-4-7753-0203-3。 2009年12月6日閲覧。 『日本神話事典』ほか編、、監修、、1997年6月。 978-4-479-84043-5。 佐佐木隆 「天の岩戸」、26-27頁。 寺川真知夫 「天石屋戸神話」、27-29頁。 関連項目 [編集 ]•

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高龗神(たかおかみのかみ)とはどういう神なのか?【1】ここだけは紹介しておきたい!|聖地 日本の神社|「月の光」

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ところが、の祭神の 高龗神(たかおかみのかみ)は、迦具土神(かぐつちのかみ)や伊邪那美神から化成した神ではなく、突然現れてきた神のようなイメージなのです。 日本各地を回っていけば、そのうち解るだろうと思いながら日本各地を回ってきたのですが、どこに行っても 高龗神(たかおかみのかみ)のことを明確に説明しているものには出会うことはありませんでした。 一般的には次のように言われています。 高龗神(たかおかみのかみ)と闇龗神(くらおかみのかみ)は同神異名である しかしこの説明だと、奈良県の丹生川上神社の3つの神社のように、3つの祭神構成したくなる部分を説明しきれません。 『日本書紀』の一書の高龗神(たかおかみのかみ)説明によると・・、 迦具土神(かぐつちのかみ)から誕生した、としています。 なおさら、奈良県の丹生川上神社の3つの神社のように3つの祭神構成したくなる部分と、『古事記』と『日本書紀』の意図がどういうものだったか、追求すべき性質のもであるような気がします。 【 一書6d 】 伊奘諾尊 いざなきのみこと が軻遇突智 かぐつち を切ったことにより次々と神々が出現した。 高龗神(たかおかみのかみ)とは、吉野川の上流に祀られている位置からいって、伊邪那岐命と伊邪那美命が呼吸を合わせて生みあげた迦具土神(かぐつちのかみ)から化生した 闇龗神(くらおかみのかみ)より、神霊の流れの上位に属する神である可能性があります。 また、より上流に祀られていることから、伊邪那美神(いざなみのかみ)やみ臥(こや)しまして、尿(ゆまり)に成りませる神である罔象女神よりも神霊の流れの上位に属する神である可能性があります。 高龗神(たかおかみのかみ)は伊邪那岐命・伊邪那美命の神生みに属さない神らしい。 つまり、伊邪那美命が火の神を生むとき、火の神の中に 高龗神(たかおかみのかみ)がスベリこんでしまったのではないか? と考えるに至りました。 火の力を持つイザナミ命が火の神を生んで神去ることがおかしいのだ・・ 火結(ほむすび)、 火産霊(ほむすび)といわれる力を持つイザナミ命が、火の神を生んで神去られるということが、素直に考えればおかしいのです。 火結(ほむすび)、 火産霊(ほむすび)の力を持つ者が「火」を呼びおこして、その火で亡くなった場合、自分に邪心があるか、呼び起こした火に邪心があるかのいずれかです。 迦具土神(かぐつちのかみ)の検証、イザナミ命の検証の両方のケースが検証されることになったのでしょう。 【迦具土神(かぐつちのかみ)の検証】 イザナキ命は、泣いて、迦具土神(かぐつちのかみ)を斬りました。 イザナギ命の力は 分離と 分割にあります。 迦具土神(かぐつちのかみ)の各部位を分離・分割し、どこに何が潜んでいるか映し出そうとしたのです。 「病巣」が認められたがイザナギ命とイザナミ命の国生み・神生みに属さない神である。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 「病巣」が認められた。 成りましき。 迦具土神(かぐつちのかみ)の各部位に化生した神霊から、イザナギ命・イザナミ命の国生みと神生みのどの段階に問題が生じたのか上記の表からうかがい知る事ができると思います。 〔レ〕「迦具土神(かぐつちのかみ)の血が石にこびりて」という箇所はおそらく国生みの部分でしょう。 〔レ〕イザナギ命の「御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血」からが神生みの部分になります。 迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血は、闇於加美神(くらをかみのかみ)・闇御津羽神(くらみつはのかみ)と呼ばれています。 闇於加美神(くらをかみのかみ)は、 高龗神(たかおかみのかみ)が映された神でしょう。 だから、闇於加美神(くらをかみのかみ)は 高龗神(たかおかみのかみ)と対で祀られることが多い。 しかし、 高龗神(たかおかみのかみ)は、イザナギ命・イザナミ命の国生みと神生みに属さない神です。 闇御津羽神(くらみつはのかみ)は、罔象女神(みずはのめかみ)が映された神でしょう。 〔レ〕ここに殺されし迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)・御胸・腹(みはら)・陰(みほと)・左の御手・右の御手・左の御足・右の御足には、大山祗神(おおやまずみのかみ)の映された神々が化成しました。 実は、イザナギ命・イザナミ命の国生みと神生みには深刻な問題が潜んでいました。 国常立尊の御神政を崩壊に導いた「存在」も前提にして、イザナギ命・イザナミ命は国生みと神生みを行わざるを得なかった。 国常立尊の御神政を崩壊させた力が、イザナギ命・イザナミ命の国生みと神生みにも加わっていったのでした。 国常立尊の御神政を崩壊に導いた「存在」、それがイザナギ命・イザナミ命の時代に、高龗神(たかおかみのかみ)として自覚されたのだろうと思います。 高龗神(たかおかみのかみ)を善に立ち返らせるべく、各所で祀られていきました。 しかし、高龗神(たかおかみのかみ)の由来は残されなかった。 というのは、高龗神(たかおかみのかみ)の本体というのは、天の側の「忌み嫌う気持ち」が地の側に降りてきたものなので、由来を書き記すと、高龗神(たかおかみのかみ)を「忌み嫌う気持ち」が地の側に生じかねない。 九頭龍を追求して解かったことは、火の国の燃えカスが、「燃えカスを忌み嫌う気持ち」と結びつき物質力を得たことから九頭龍が発生したということでした。 火の国の住人が「火の国の燃えカス」に対して無知であったため、「燃えカスを忌み嫌う気持ち」が生じ、それが九頭龍となって現れてしまったのです。 高龗神(たかおかみのかみ)の由来を残しておくと、地の側でも「高龗神(たかおかみのかみ)を忌み嫌う気持ち」が生じ、それが実体化し、地の側に大混乱をもたらしかねない、 ・・そういう恐れがあったのだろうと思います。 時が満ちて、理解しなければならない人だけが理解すればよいことだったのかも知れません。 時が満ちるまでは由来がわからなくとも、高龗神(たかおかみのかみ)として地の側で善的作用が発揮されるようになっていればよかった、ということでしょう。 天香久山では、国常立尊の御神政を崩壊に導いた「存在」である高龗神(たかおかみのかみ)を国常立尊と併置して祀り、善的作用を引き出そうとしています。 日本とはそういう国です。 悪でも祀りかえていけば善となる、 とする国です。 の祭神・ 弥都波能売神(みずはのめかみ)はイザナミ命が「やみ臥しまして」から 尿(ゆまり)になった神です。 弥都波能売神の由来は明らかです。 ところが、イザナギ命の「御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血」から闇御津羽神(くらみつはのかみ)が映し出されてきた。 闇御津羽神(くらみつはのかみ)は 弥都波能売神(みずはのめかみ)が映し出されたものでしょう。 現代風に言えば、イザナミ命が病気になってしまった「原因物質」は 弥都波能売神(みずはのめかみ)にも影響を与えていたのです。 神の世にあってはその「原因物質」までもが神性を持ちます。 この「原因物質」が高龗神(たかおかみのかみ)で、神霊の系譜からみて、イザナギ命・イザナミ命の上位に位置するものであるため、より上流に祀られることになった。 『新版 ひふみ神示』(第6巻日月の巻、pp163-164)からの引用 ・・・・伊邪那美神やみ臥しまして、たぐりになりませる神、金山比古神、金山比売神、屎(くそ)になりませる神、波仁夜須比古神、波仁夜須比売神、 尿(ゆまり)に成りませる神、 弥都波能売神、和久産巣日神、この神の御子豊宇気比売神と申す。 ここに伊邪那美神、 火の神生み給ひて、 ひつちと成り給ひて、根の神の中の国に神去り給ひき。 ここに伊邪那岐神泣き給ひければ、その涙になりませる神、泣沢女神(なきさわのめかみ)ここに 迦具土神( かくつちのかみ)斬り給へば、その血石のこびりて、石析神(いわさくのかみ)、根析神(ねさくのかみ)、石筒之男神(いわつつのおのかみ)、雍瓦速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、建御雷男神(たけみかつちおのかみ)、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)。 御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血、 闇於加美神(くらをかみのかみ)、 闇御津羽神(くらみつはのかみ)。 ここに殺されし迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)に成りませる神、・・・・<略>・・・・ここに斬り給へる御刀(みはかし)、天之尾羽張(あめのおはばり)、伊都之尾羽張(いづのおはばり)といふ。 ここに妹(いも)恋しまし給ひて音(ね)の国に追い往で給ひき。 次、神生みで生まれた大山津見神の検分と検証・・ の相殿神として祀られている「大山衹大神(おおやまずみのおおかみ)」は、イザナキ命・イザナミ命の神生みの時に生まれた神です。 ところが、殺された迦具土(かぐつち)の御首(みかしら)・御胸・腹(みはら)・陰(みほと)・左の御手・右の御手・左の御足・右の御足に、大山祗神(おおやまずみのかみ)の映された神々が現れてきました。 現代風に言えば、イザナミ命が病気になってしまった「原因物質」は 大山衹大神(おおやまずみのおおかみ)にも影響を与えていたのです。 神の世にあってはその「原因物質」までもが神性を持つことは先ほど指摘したとおりです。 この「原因物質」が高龗神(たかおかみのかみ)でした。 大山衹大神(おおやまずみのおおかみ)を高龗神(たかおかみのかみ)の相殿神として祀ることによって、 大山衹大神(おおやまずみのおおかみ)に現れてくる影響をなくす効果があるような気がします。 つまり、大山衹大神のなかから高龗神(たかおかみのかみ)を分離抽出するのです。 大山衹大神の御子に瓊々杵尊の妻となった木花咲耶姫と、妹をワナにかけた磐長姫がいます。 磐長姫は、『秀真伝(ほつまつたゑ)』では八岐大蛇の転生とされ、『ひふみ神示』では「岩の神」とされている神です。 磐長姫は、の伝承では、で神上がられています。 の現在の祭神が高龗神(たかおかみのかみ)になっていることを鑑みると因縁の絡まりの面白さがあると思います。 イザナミ命が神上がられたのちの黄泉国での検証・・ の相殿神として、大雷大神(おおいかつちのおおかみ)も祀られています。 大雷大神(おおいかつちのおおかみ)はイザナミ命の黄泉国での御尊骸の御頭(みかしら)に化生した神です。 ということは、高龗神(たかおかみのかみ)の影響は黄泉国にまで及んでいたということになります。 ここでも現代風に言えば、イザナミ命が病気になってしまった「原因物質」は、 大雷(おおいかつち)というイザナミ命の死後の世界にも影響を与えていたのです。 神の世にあってはその「原因物質」までもが神性を持つことは先ほど指摘したとおりです。 イザナミ命の死後の世界にも影響を与えるこの「原因物質」が高龗神(たかおかみのかみ)でした。 『新版 ひふみ神示』(第6巻日月の巻、pp163-164)からの引用 ここに妹(いも)恋しまし給ひて根の国に追い往(い)で給ひき。 ここに伊邪那美の命 語らひつらく、あれみましとつくれる国、末だつくりおへねど、時まちてつくるへに、よいよ待ちてよと宣り給ひき。 ここに伊邪那岐命、みましつくらはねば吾とつくらめ、と宣り給ひて、帰らむと申しき。 ここに伊邪那美命 九(こ)聞き給ひて、 御頭(みかしら)に 大雷( おおいかつち)、オホイカツチ、 胸に、火の雷(ホのいかつち)、ホノイカツチ、 御腹には、黒雷(くろいかつち)、黒雷(クロイカツチ)、 かくれに 、折雷(さくいかつち)、サクイカツチ、 左の御手に、若雷(わきいかつち)、ワキ井カツチ 、 右の御手に、土雷(つちいかつち)、ツチイカツチ、 左の御足に、 鳴雷(なるゐかつち)、ナルイカツチ、 右の御足に、伏雷(ふしいかつち)、フシ井カツチ、 なり給ひき。 瓊々杵尊が比叡山を造営し、 鳴る神(雷)を別けて罔象女神と迦具土神に・・ 黄泉国の「雷」がかかえる問題はとても深刻なものでした。 翌 紀元前1,290,606年、木花咲耶姫は、火明・火進・火遠(彦火々出見)の順で三つ子を産んだ。 天忍穂耳尊が箱根で神上がられた。 瓊々杵尊は、天忍穂耳尊の3年の喪祀りを済ませてから、比叡山を造営することになった。 比叡山を造営してから穀物がたくさん出来るようになったのでと呼ぶようになった。 の西岸の岩を砕き、小石にして川に流しいれ水をあふれさせ、荒地に水を引き、葵葉(あおいば)と桂(かつら)によって 鳴る神(雷)を別け鎮め、軻遇突智神(かぐつちのかみ)と罔象女神(みずはめのかみ)をお生みになった。 (参考)罔象女神はで祀られ、軻遇突智神はで祀られている。 この功績によって、瓊々杵尊は「別雷(わけいかづち)」という称号を天照神から賜った。 貴船神社の創建は、瓊々杵尊が 罔象女神と 軻遇突智神を別けたことに由来するのかもしれない。 『秀真伝(ほつまつたゑ)』御機の二十四「コヱ国原見山の紋」(鳥居礼編著、八幡書店、下巻P27-29 ) 原治君(はらをきみ) 伊豆崎宮(ゐづさきみや)に 瓊々杵尊 箱根神(はこねかみ) 三年祭りて 天之忍穂耳尊を箱根神として。 瀛壺(おきつぼ)の 峰より眺(なが)め 瀛壺とは近江(滋賀県)のこと 勅(みことのり) 「汝(なんじ)山咋命(やまくひ) 山背(やまうしろ) 野お堀り土お 山背、山城は京都府南部のこと こゝに上げ 大日(おおひ)の山お 大日山とは富士山のこと。 遷(うつ)すべし」 一枝(ひとゑだ)に足り 一枝(ひとゑだ)は60年。 一枝(ひゑ)の山 その池水(いけみず) 比叡山 田のゾロに 乗りて稔れば ミゾロ池 まゝあり池の 京都市北区上賀茂狭間町の 深泥池(みどろいけ)のこと 西岩屋(にしいわや) 実(み)食(は)む礫(ゐしな)お 稜威(ゐつ)別(わ)けて 流す石川(ゐしかわ) 塞(せ)き入れて 荒地(あれわ)お生(い)けて 鳴る神お 別(わ)けて鎮(しづ)むる 軻遇突智神(かぐつち)と 罔象女神(みづはめ)お生(う)む 貴船神社を 罔象女宮といった。 (PP103-105) 愛宕山の 愛宕神社若宮の祭神に、 雷神と 軻遇突智神がいる。 葵葉(あおいば)と 桂(かつら)に伊勢の 勅(みことのり) 「天(あめ)は降り照り 全(まつた)きは 雷(いかづち)別(わ)けて 神(かみ)を生(う)む これ国常立尊(とこたち)の 新(さら)の稜威(ゐづ) 別雷(わけいかづち)の 天君(あまきみ)」と 璽(をしで)賜(たま)わる 広沢お 太田命(おおた)に掘らせ 京都市右京区嵯峨広沢町に 広沢池があるが何らかの関係があるか? 国となす 黄泉国の 鳴る神(雷)の影響は第二次天孫降臨の時代にも認められていたのでしょう。 瓊々杵尊は、比叡山を造成され、その結果ができ、 鳴る神(雷)を葵葉と桂によって罔象女神と軻遇突智神を別けたのです。 罔象女神はで祀られ、軻遇突智神はで祀られたのでしょう。 ところが、瓊々杵尊が 鳴る神(雷)を別けて、に罔象女神を祀ったものが、現在のの祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)に置き換えられている。 罔象女神の水としての本姓から水の部分が蒸発し、問題の核心部分が残された、とみることもできそうです。 ここに歴史という時の推移の面白さがある。 『秀真伝』では罔象女宮であったのだが、現在では祭神が高龗神になっている 祭神が高龗神である 前項では、【迦具土神(かぐつちのかみ)の検証】の結果、高龗神(たかおかみのかみ)・罔象女神(みずはのめのかみ)・大山祗神(おおやまずみのかみ)に問題の所在があることを示し、全て高龗神(たかおかみのかみ)に収斂していくことを指摘しました。 さらに、の相殿神として大雷大神が祀られていることから、黄泉国においても高龗神(たかおかみのかみ)の影響があることを指摘しました。 奈良県吉野では、迦具土神(かぐつちのかみ)がテーマであったのに対し、京都府貴船では罔象女神(みずはのめかみ)がテーマになっているようだ。 迦具土神(かぐつちのかみ)というフィルターで高龗神(たかおかみのかみ)をみて、罔象女神(みずはのめかみ)というフィルターで高龗神(たかおかみのかみ)をみて、ようやくはじめて、高龗神(たかおかみのかみ)の影響が徹頭徹尾あったことが理解できる。 なぜ、九頭龍に関連して高龗神を調べる必要が出てきたか・・ 九頭龍の由来を調べているとき、「 越前名蹟考」の由来書きを目にしました。 すると九つの頭を持った竜が現れ、尊像を頂くようにして川を流れ下り、黒竜大明神の対岸に泳ぎ着きました。 以来、この川を「九頭竜川」と呼ぶようになったということです。 > - - - - - - - 「 越前名蹟考」の伝承の背後には、周辺で九頭龍が子胤を得た可能性があることを指摘しました。 黒龍大明神の祭神は、 高龗神(たかおかみのかみ)と 闇龗神(くらおかみのかみ)です。 闇龗神(くらおかみのかみ)は、伊邪那岐命が迦具土神(かぐつちのかみ)を斬った御刀(みはかし)の手上(たかみ)の血になった神ですので神の出自が明らかなのですが、 高龗神(たかおかみのかみ)の出自はここでも不明なままです。 黒龍大明神に所縁があるは足羽山(あすわやま)の麓にあります。 黒龍大明神をおって足羽山(あすわやま)を調べていると、「」という池があることを知りました。 足羽山(あすわやま)とは、継体天皇を祀るがある山です。 しかも、後醍醐天皇の建武の中興を支えた新田義貞を祀るもあり、極めて由緒正しい山なのです。 「」はその足羽山(あすわやま)にあります。 「福井市商工労働部歴史のみち整備推進課」の方に質問してみました(2009年1月19日 17:22の質問メール)。 返答は次のようでした。 しかし問題は・・ 何故「空に天蓋がかかっていた」のかにあります。 現在「」と呼ばれているように、 「天魔」が出てくる場所だから「 天魔」が出てこないように「空に天蓋がかかっていた」と解するほうが自然です。 越前(福井県)では「 天魔」という存在が自覚されていたのかもしれません。 「 天魔」と 高龗神(たかおかみのかみ)の何らかの関係があると直感しました。 高龗神(たかおかみのかみ)と「天魔」に何らかの関係があるとすると・・ その「十拳の剱」を洗ったときも迦具土神(かぐつちのかみ)に属さない神がでてきた。 その神を伊邪那岐命は、 高龗神(たかおかみのかみ)として祀ったのではないか? 国常立命と並んで祀られているところみると、国常立命の御神政が崩壊する原因になった神であるようにも思えてきます。 しかし、残念ながら 高龗神(たかおかみのかみ)の由来は残されていません。 国常立命に繋がる神々は、天の側に属する「 天魔」の動きを地の側で 高龗神(たかおかみのかみ)として各地で祀ってきた、と推論できるのではないかと思います。 だから、「 天魔」の近くには、 高龗神(たかおかみのかみ)が必ずといっていいほど祀られているのかもしれません。 この作用は日本においてはお馴染みのものです。 スサノオ命が八岐大蛇を退治したあとに、八岐大蛇を安潟神として祀られたのでコノハナサクヤ姫神の姉・磐長姫神として転生できました。 同じように、 は九頭龍を悔い改めさせるために神として祀ったし、箱根のは九頭龍を調伏し、神として祀ったのです。 日本とはそういう国です。 悪でも悔い改めれば神の立場に戻れたのです。 国常立尊の時代に、国常立尊の御神政を転覆させた天の側に属する「 天魔」の動きを、地の側で 高龗神(たかおかみのかみ)として祀ってきたのだと思えるようになりました。 「天魔」について語る前に、火の国とは何かについて・・ 火の国の歓喜の結果、周辺に黒煙が生じました。 いわゆる火の国の燃えカス、ススといえるものです。 次の発展段階である物質界は、この火の国の燃えカス、ススがないと誕生しません。 火の国の燃えカスである黒煙は、 熱の世界に留め置かれ、 熱の中で物質界の素子へと成長するときを待っていました。 ところが、火の国(永遠の楽園)の住人は、この黒煙の発生とその必要性についての無知でした。 そのため、火の国(永遠の楽園)のなかに「黒煙を忌み嫌う心」が生じてしまいます。 「火の国(永遠の楽園)の住人の黒煙を忌み嫌う心」は、火の国(永遠の楽園)では「 光」によって浄化しえていました。 ところが、「火の国(永遠の楽園)の住人の黒煙を忌み嫌う心」は、 熱の世界に留め置かれ物質界への成長のときを待っていた黒煙の領域にまで到達してしまいます。 火の国(永遠の楽園)側は、 熱の世界にも「 光」を届け、「火の国(永遠の楽園)の住人の黒煙を忌み嫌う心」を浄化しようと試みたのです。 光が行き届く熱の世界においては、「黒煙を忌み嫌う心」は浄化しえるのですが、 光が行き届かない熱の世界では「黒煙を忌み嫌う心」は浄化し切れなかったのです。 大山津見神と野椎神の神生みの神名の中に、火の国(永遠の楽園)の当時の混乱が歌いこまれているような気がします。 生みましき、 光が届く熱の領域の天使アロン、光の届かない熱の領域の天使ベルゼブブ・・ 熱の領域は2つの領域に分かれていました。 火の国(永遠の楽園)から 光が届く熱の領域と 光が届かない熱の領域です。 熱の表裏という表現が妥当かも知れません。 光が届く熱の領域を受け持たれたのは アロンという天使でした。 アロンは 情熱や 生きる力を司る天使です。 そして、 光が届かない熱の領域を受け持たれたのは ベルゼブブという天使でした。 ベルゼブブは 慈しみとか 慈愛を司る天使でした。 火の国(永遠の楽園)の歓喜の燃えカスである黒煙は、熱の世界に留め置かれ、次の発展段階である物質界の素子になるときを待っていました。 光が届く熱の領域と 光が届かない熱の領域を交互に循環する中で成長しつつあったのです。 アロンと ベルゼブブの良き協力関係があった時代でした。 火の国(永遠の楽園)の多くの住人は、「火の国(永遠の楽園)の燃えカスである黒煙」が、成長していく「存在」であることに気づいていませんでした。 火の国(永遠の楽園)の多くの住人は、「火の国(永遠の楽園)の燃えカスである黒煙」を全く価値のない自分たちの輝きと光を脅かす存在であると捉えてしまったのです。 こうして火の国(永遠の楽園)の多くの住人に、「火の国(永遠の楽園)の燃えカスである黒煙」を「忌み嫌う気持ち」が生じてしまった。 火の国(永遠の楽園)のこの「忌み嫌う気持ち」は、 熱の世界に届くことになりました。 光が届く熱の領域では 光の作用によって「忌み嫌う気持ち」を浄化できたのですが、 光が届かない熱の領域では浄化に用いる 光がありません。 そのため、 光が届かない熱の領域に「忌み嫌う気持ち」が沈殿していきました。 光が届かない熱の領域に「忌み嫌う気持ち」が沈殿していく事態が進行していったとき、 ベルゼブブは、 アロンと光の天使の関係を羨ましく妬ましく思ってしまったのです。 このとき、 光が届かない熱の領域に沈殿していった「忌み嫌う気持ち」が ベルゼブブの「羨ましく妬ましく思った」気持ちを利用し、そして熱の中で育まれていた物質の素子である黒煙の物質力をも利用し、 九頭龍となって現れてしまったのです。 火の国(永遠の楽園)の多くの住人の「黒煙を忌み嫌う気持ち」が「 天魔」に転じた瞬間でした。 こうして、「 天魔」と「 九頭龍」は火の国(永遠の楽園)を破壊しにかかりました。 というのは、「忌み嫌う気持ち」が昂じると「忌み嫌う」対象物を亡き物にしようという属性があるからです。 慈愛の天使ベルゼブブは、 アロンと光の天使の関係を壊しにかかりました。 その結果、ベルゼブブは慈愛の天使から転落していきます。 光が届かない熱の領域を司る天使がいなくなった熱の領域が崩壊していくのに時間はかかりませんでした。 アロンが情熱や生きる力を司る天使から転落し、最後に光の天使までもが転落していったのでした。 全てが、火の国(永遠の楽園)の多くの住人が物質の発展法則を理解し得ず、火の国(永遠の楽園)の歓喜の燃えカスである黒煙を「忌み嫌った」ことから始まったのです。 言葉の原義からいって、「 天魔」と「 九頭龍」とは、同時に発生したものです。 だから福井県に「」というふうに「天魔」を伝えるところがあるとすれば、同時に九頭龍を伝えていなければならない、という理屈になっているはずです。 「 天魔」と「 九頭龍」は、ビックバーン宇宙以前にも存在していたものなので、どの宇宙においても歴史貫通的に現れて来ているものです。 宇宙は、「 天魔」と「 九頭龍」の影響を克服しなければなりませんし、克服できる段階にきています。 そう主張できる理由は2点あります。 (1)九頭龍の中に取り込まれ、火の国(永遠の楽園)を破壊する物質力になっていた火の国の燃えカスが、次の時代の物質界の素子になる水準まで成長したこと。 つまり、火の国の燃えカスが自力でも九頭龍の影響から脱却できるところまで成長した、ということです。 まずこれが一番大きい。 (2)火の国の住人の多くが、「忌み嫌う気持ち」を持つとどうなるのかを太陽系宇宙の変遷過程のなかで学んだこと。 これが二番目に大きい。 - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - 火の国(永遠の楽園)からの 光が届く熱の領域として奈良県の吉野は象徴できる気がします。 祭神が高龗神である 火の国(永遠の楽園)からの 光が届かない熱の領域として奈良県の宇陀は象徴できる気がします。 祭神が高龗神である 「 天魔」とは、火の国(永遠の楽園)の「黒煙を忌み嫌う心」でした。 火、動いて水、中心が歓喜。 天の火の国(永遠の楽園)の「黒煙を忌み嫌う心」は、地の側では水の動きとなって現れます。 水の動きとなって現れた火の国(永遠の楽園)の「黒煙を忌み嫌う心」のことを 高龗神(たかおかみのかみ)と呼んだのでしょう。 天の動きに対して、地の側では絶対服従。 秩序とはそういうものです。 「 天魔」は天の側で対処されるべき問題で、地の側の問題ではありません。 天の問題に地の側が関与しようとすると秩序が崩れる。 しかし、いったん地の側の動きに現れてきたものを「善」なるものに転換していくのは地の側の問題です。 「天魔」としての火の国の「黒煙を忌み嫌う心」を地の側で、 高龗神(たかおかみのかみ)として祀って、時が来るのを待ったのです。 神代に九頭龍は持子という女性に転生させられ、子を産んでいる・・ 神社名 住 所 参 考 奈良県橿原市南浦町326 天香久山の頂上で国常立命と並んで高龗神(たかおかみのかみ)を祀る。 天香久山の重要性はで触れている。 奈良県天理市新泉町星山 大和神社の摂社に 高龗神社がある。 祈雨神祭について 全国総本社。 祭神は雨師大神即ち水神様で、崇神天皇のとき渟名城入姫命をして穂積長柄岬(現親泉星山)に創祀される。 古来6月1日、10年に一度の大祭には、和歌山・吉野・宇陀その他近在邑々から千人余りも参拝者の列が続いたとある。 先頭に丹生川上神社、中・下社が金御幣を持ち後尾は末社の狭井神社が勤めた。 茅原上つ道を経て箸墓裾で休憩。 大倭柳本邑に入り長岡岬、大市坐皇女渟名城入姫斎持御前の井戸で祓い清める。 神職は輿と共に神橋を渡り大和神社に入る。 一般の人達は宿から一番鶏が鳴くと倭市磯池に体を清め笠縫邑から神社へ向かう。 社は古代伊勢神宮と同じ建築様式で江戸時代の建立になる。 奈良県宇陀市室生区室生1297 祭神は、高龗神 で、竜神または竜王と称する司雨神である。 当社の背後の山中の、室生川に注ぐ渓流沿いに約七百メートル登ると、岩窟があり、竜王の籠る洞窟として竜穴と呼ばれて古くから請雨祭祀の行われた所である。 奈良県吉野郡川上村大字迫 大和神社(おおやまと)の摂社・高龗神社が高龗神の総本宮 ・・.

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