縁起 仏教。 縁起の意味や由来をわかりやすく教えて!仏教での意味は?

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縁起 仏教

目次 縁起の道理 縁起とは、その字の通りすべてのことが 「何かに縁って起こる」ということです。 縁とは、原因やその他の条件のことをいいます。 つまり、ざっくりと簡単に言ってしまえば、 今現在起こっているすべての現象や物は、必ず原因や条件があって起こっているんだという事実です。 このことを釈尊は発見しました。 考え出したのではなく、世の理として縁起があるんだということです。 そして 仏教の考え方の大本には、すべて「縁起」があります。 例えば、縁起によってあらゆる物事がお互いに関係し合っているのだから、常に同じ状態は無く絶えず移り変わっていくという「無常」という考え方にも繋がっていきます。 無常については以下のページでも詳しく解説しています。 さらに、常に移り変わっていくという「無常」という考え方は、魂や自我といったものが無いという「無我」という考え方にも繋がっていきます。 ここでは無我についてなぜそうなるのかということには深く触れませんが、 魂や自我というものの性質は「変わらないこと」です。 変わってしまったら、それがその人の魂と言えなくなってしまいますからね。 しかし、すべてのことが移り変わっていくというのなら、永遠に変わらない魂といったものの存在が自動的に否定されてしまいます。 苦しみも無くすことができる この縁起によって何が言いたいかと言うと、 すべてのことに原因や条件があるのなら、苦しみということにも原因や条件があるということです。 原因と条件をはっきりすることができたら、苦しみの原因を取り除き、苦しみを無くすことができるんだということです。 釈尊が苦行を行ったのも、苦を取り除く方法を見つけ出そうとしたからなので、この縁起の道理を見つけたのは大発見だったのですね。 この縁起の道理によって苦しみには原因があると知り、釈尊はその原因を深く深く掘り下げていきました。 縁が整えば、どんなことでもしてしまう私たち 縁起というのには、もう一つ重要な意味があります。 浄土真宗の開祖である親鸞聖人は次のような言葉を残されています。 さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし 『歎異抄』 「縁って起こる」ということは、原因や様々な条件が重なってしまえばどんなことでもやってしまうという意味です。 テレビのニュース等で、ひどい事件を見ることがありますよね。 なんであんな人がこんなことをしたんだろうと思うこともあるかもしれません。 それを見ている私たちは他人事で、自分は絶対こんなことをしないと思っています。 しかし、 縁が整ってしまうといかなるふるまいもしてしまう私たちなのです。 そのことを自覚するのは非常に難しいです。 釈尊の悟りは不可思議 縁起を完全に理解し、自分のこととして自覚するのは非常に難しいです。 そのように釈尊の悟った縁起は不可思議と言われています。 不可思議とは不思議であり「思議できない」ということで、「思議」とは言葉で考え理解し受け止めることです。 不思議なことって上手く言葉で説明できないですし、たとえ説明されてもよくわかりませんよね。 つまり、私たちが普段使っている言葉を縁起を完全に理解することはできないということです。 先ほどの、縁が整えばどんなことでもしてしまう私たちということは、言葉で言えば簡単ですが自分のこととして受け止められないのじゃないでしょうか。 自分は絶対にあんなひどいことはしないと思って生きているのが現実です。 そのようにお釈迦さまも縁起を悟られた時、この縁起を他の人が理解し受け止めることは不可能だから誰にも教えないでおこうと思われたくらいです。 しかし、なんとか言葉を尽くして語ってきたのが仏教の歴史でもあり、その語られた内容が経典として今も残っているんですね。 悟ったらどうなる? もしも悟りを開くことができたらどうなるのでしょうか。 悟りを開いたら目覚めた人、ブッダになります。 成仏ですね。 悟りを開くことができれば、 苦しみから完全に解放されると言われています。 しかし、今の時代は釈尊が亡くなってからもう長い時が経っており、 たとえ厳しい修行を積んだとしても悟ることができないと言われているんですね。 悟れないんだったら仏教を教えを聞く意味ないじゃんと思われるかもしれません。 しかし、仏教の教えを聞く意味はあります。 その一つが、 どんな境遇にあっても、どんな苦しい環境であっても前を向いて安心して歩いていくことができるということです。 苦しみの原因が全く分からなかったり、または見当違いのところに原因を見ていたら解決するものも解決しませんからね。 そして、苦しい時はどうしても立ち止まってしまいます。 前向きな考え方ができなくなってしまいますよね。 苦しみの原因を知るということは、解決する道筋が少しわかるということです。 たとえ、完全に苦しみから解放されなくても、その道筋に従って歩いていくことはできるのです。 まとめ ブッダが悟った縁起を解説してきました。 縁起は、すべてのことに原因と条件があって起こってくるということでしたね。 しかし仏教が苦しい時に前を向いて歩ける力となってくれるのは間違いないです。

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縁起の意味とは|由来は仏教用語.縁起を担ぐ/縁起が悪い等は仏教の教えではない

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縁起の意味や由来をわかりやすく解説 縁起とは 仏教用語であり由来も仏教にあります。 しかし、大衆に広がることで本来の使われ方ではなくなってしまった言葉でもあるのです。 辞書で意味を調べると、縁起は 「物事の吉凶の前兆」という文章が最初にくるようになっており、いわゆる縁起を担ぐとか縁起が悪いという言葉に繋がると解説しているのです。 それ以外にも縁起には寺社仏閣の起源や由来を意味することもあり、それを記した「信貴山縁起」なども縁起に当てはまるようです。 そして、仏教的には縁起とは 「因縁生起を略したモノ」となります。 仏教における縁起とは「すべてのモノは因縁により生起する」という意味があり、経典にも「一切法は因縁生なり」と記載されているのです。 もっとかみ砕いて説明してしまうと、縁起とは「因縁生起を略したモノ」で万物はすべて因縁で成り立っているのだから、 「よい結果がほしければ、よい行いをするべきで、悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめるべき」という教えに繋がる言葉となっていると考えてください。 もっと本格的に記載すると、仏教用語だらけになってしまい理解するのが困難になってしまいますので、よくわからなかったという人は仏教用語における縁起は「物事の吉凶の前兆」ではなく「よい結果がほしければ、よい行いをするべきで、悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめるべき」教えに基づく言葉と覚えておきましょう。 仏教での縁起の意味 仏教的における縁起とは 「因縁生起を略したモノであり、すべてのモノは因縁により生起する」という意味になるでしょう。 仏教用語における縁起とは万物すべてのものが因縁によって生じており、どんなモノでも因と縁がそろってはじめて結果が生じると考えられています。 また、仏教における「因」は「直接的な原因」を表し、「縁」は「間接的な原因」という意味があるのです。 仏教の世界ではこの「因縁」の考え方に基づいて「縁起」という言葉を用いており、その真理は 「良い行いをすれば良い結果が帰ってきて、悪い行いをすれば悪い結果が帰ってくる」となり、大切な仏教の教えの一つとなり、この因縁の考え方がこの世の真理としてとらえているのです。 仏教では廃悪修善という言葉があり、これは 「よい結果がほしければ、よい行いをするべきで、悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめるべき」という意味があり、大切な教えとなっているのです。 万物すべてモノが因縁によって生じているという考え方を仏教では「因縁果(いんねんか)の道理」と表現し、この因縁果の道理こそが「縁起」という意味になるのです。 十二縁起や十二因縁の意味 縁起をわかりやすく解説すると因縁果の道理に繋がるのですが、この縁起をより掘り下げて言ったものも長い仏教の歴史の中には多数存在します。 その中でも有名なのが十二縁起改め十二因縁です。 十二縁起 十二縁起とはが発生するメカニズムを表したモノです。 仏教における煩悩とはこの世の苦しみの原因と考えており、十二縁起はこの苦しみの原因が 「身体の感覚器官と心理作用を12に分解して表したモノ」となります。 具体的に記載すると、それらは無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死の12個であり、これらがグルグルとサイクルすることで因果関係が発生して苦しみが生じると考えられています。 かみ砕いて説明すると、無意識のうちに識別する心と体によって煩悩が形成され、それに五感が加わって煩悩が明確に発生してしまい、心理作用が輪っかのように連鎖して煩悩の発生するというメカニズムとなります。 十二因縁 十二因縁は十二縁起の別名であり、意味は一緒です。 他にも、十二縁起は十二有支や十二支縁起や十二支因縁と表現されることもありますが、基本的には意味は一緒なので区別する必要は無いでしょう。 それらをひっくるめてすべてが煩悩が発生するメカニズムであり、苦悩の根源を絶つために12の条件を系列化したものとなります。 関連記事: 「縁起を担ぐ」の意味 縁起を担ぐという言葉は現代での縁起の使われ方において代表的なもので、現代的な縁起の意味である「物事の吉凶の前兆」とか「前ぶれ」とか「きざし」という言葉から発生しております。 「縁起を担ぐ」の意味は 「良い結果につながるための準備」となるでしょう。 昨今でわかりやすいのはスポーツ選手がルーティンを色々と取り入れて実戦しているところで、これが一種の「縁起を担ぐ」行動として扱われているのです。 フィギュアスケートの羽生結弦選手が演技を始める前にする十字を切るポーズもこのルーティンに該当しますし、ラグビーが大人気になる先駆けとなった五郎丸選手のキック前に行う特徴的な指を揃えるポーズも有名でしょう。 これらも一種の縁起を担ぐ行動となります。 良い結果を得るために行われる準備なのです。 「縁起がいい」「縁起が悪い」の意味 「縁起がいい」とか「縁起が悪い」という言葉も、現代的な縁起の意味である「物事の吉凶の前兆」とか「前ぶれ」とか「きざし」という言葉から発生しているのです。 つまり、「縁起がいい」という言葉の意味は「何か良いことが発生しそうな様子」となりますし、「縁起が悪い」という言葉の意味は「何か悪いことが発生しそうな様子」となるでしょう。 仏教の縁起は因縁果の道理に基づいたモノであり、 「よい結果がほしければ、よい行いをするべきで、悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめるべき」という廃悪修善の教えが重視されているので、現代の縁起の使い方とは異なっています。 仏教における縁起は「良い結果を得るための準備」ではなく、「良い結果を得るために良い行いをする」という考え方になりますので、その違いは理解しておきましょう。 仏教に対する理解が深い人達は、その日の吉兆を表すとか選日を否定的にとらえている人も多いので注意しましょう。 仏滅などは仏教用語ではありませんし、仏教宗派の浄土真宗の開祖である親鸞も残された著書において「日の吉凶を見ることは良くない」ときっぱり否定しているという情報もあるので、日の吉凶には否定的な見方がされてしまうようです。 まとめ 以上、いかがだったでしょうか。 今回は縁起とは何かを記載しました。 縁起とは仏教用語では「よい結果がほしければ、よい行いをするべきで、悪い結果が嫌ならば、悪い行いをやめるべき」という考え方が根本にあるので、昨今の縁起の使われ方と大きく異なっています。 個人的にはこの考え方はかなり納得できますので、因縁果の道理をしっかりと把握した上で心に留めて生きていきたいと思います。

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法話「縁起 ~生かされているいのち~」: 臨済・黄檗 禅の公式サイト

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書き下ろし 京都府 ・興雲庵住職 坂井田泰仙 昨今は若い世代の方が「縁結び」の御利益があるといわれる寺社へ参拝されることが一種のブームとなっており、良縁を結ぼうと建仁寺にほど近い安井金比羅宮には連日多くの方がお参りされています。 この「縁」というものですが、私たちは自らにとって都合の良い縁を良縁、都合の悪い縁を悪縁という使い方をすることが多いのではないでしょうか。 すなわち自らのものさしや価値観だけで「縁」を判断しているといえます。 「縁」とはお釈迦様がお説きになられた「縁起の法」からきています。 「縁起」とは「縁(よ)りて起こる」と読むことができ、この世で起こる全ての事柄には、それが生じる原因があり、そこに無数の縁(条件)が重なり、最終的に結果が生じています。 例えば花の種を蒔けば芽は出ますが、そこから大輪の花を咲かせるためには水、肥料、太陽光など様々な縁が良い方向に重ならなければなりません。 私たちのいのちも単独で存在しているのではなく、縁が重なることによって奇跡的に生まれ、お互いに関係し合いながら支え合い「生かされている」ということがいえます。 また人生の中で起こる全ての出来事は自らの言動や行ないに対して無数の縁が重なった結果、生み出されることであり、覚悟を決めてその全てを受け入れ、そこで精一杯生きていかなければなりません。 渡部成俊(わたべ しげとし)さんをご存知でしょうか? 渡部さんは1945年生まれ。 10歳で父親を亡くし、家計を助けるために中学卒業後は様々な職に就きながら、26歳で婦人服のプレス業を開業。 また会社経営の傍ら教育支援事業にも携わり、地域活動にも精力的に参加。 多忙でありながらも充実した日々を送っておられました。 そんな最中、渡部さんは受診した健康診断ですい臓ガンが発見され、翌年大手術を受けられます。 その後仕事復帰を果たされるも、転移性肺ガンを再発、医師より余命1年半の宣告を受けられます。 まさに絶望の淵に立たされた渡部さんは何度も自殺を考えられましたが、そんな時に心の支えとなったのが長年連れ添った奥様の存在でした。 そして、その後の闘病生活の中で自らを静かに見つめた時、がむしゃらに生きてきた過去には見えなかった「生きる意味」を自覚されたのです。 渡部さんは限られた時間の中で、地域の子供たちに自らの思いを伝えるため、講演活動「いのちの授業」を始められます。 その中で「生きていく上で決して忘れてはならないのは、全てのものに感謝し、人のために尽くすことである」と強く訴えておられます。 渡部さんは今回の病を契機に、網の目のように無数の縁が重なり合い、支え合って奇跡的に自らのいのちが存在していることを自然と感じられました。 そして、今まで多くのお蔭様によって生きてこられたことへの感謝の気持ちが湧き起こってきたのです。 その後渡部さんは、惜しまれながらも63歳という若さでお亡くなりになりますが、氏が残された魂のメッセージは多くの子供たちの心に刻み込まれたことでしょう。 私たちも慌ただしい生活を送る中で、つい見失いがちな、「縁によって生かされている奇跡、有難さ」を今一度かみしめながら、日々を大切に過ごしてまいりたいものです。

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