早稲田 大学 応援 歌 作曲 家。 古関裕而

巨人や阪神、早稲田と慶應の応援歌を作った古関裕而とは?次の朝ドラに

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NHK連続テレビ小説『エール』が3月30日から放送されています。 主演の窪田正孝さんが演じる昭和の作曲家・古山裕一のモデルとなった人物がとても偉大な方なのでご紹介します! 昨日の でしげーさんとアシトリオが一堂に会した奇跡の回を見せてもらったのですが、窪田正孝くん演じる次期朝ドラの主人公 さんの本が今月発売になっております。 中公新書です。 — まなみ@鎌倉殿の13人 絶賛待機中。 manamiiz その人物とは『古関裕而』(こせき ゆうじ) 朝ドラのモデルになるほどの人物ですので、どれだけの偉業を成しとけた人物なのでしょうか? 古関裕而さんのプロフィールをはじめ、小関裕而さんが手がけた有名曲をご紹介したいと思います。 古関裕而さんのプロフィールや経歴 幼少期 1909年 明治42年 8月11日、福島県福島市大町にあった呉服屋「喜多三 きたさん 」に長男として生まれ、幼い頃から音楽好きだった父親の影響でレコードを聴き、音楽のなかで育ちました。 幼い頃から独学で作曲をしていたそうです。 1916年 大正5年 、7歳のときに福島県師範学校附属小学校へ入学。 担任の遠藤喜美治さんが音楽の指導に力を入れていたこともあり、古関裕而さんは10歳頃には楽譜が読めるようになり、自ら市販の妹尾楽譜などを買い、ますます作曲に夢中になっていきました。 クラスメイトも詩を持って古関裕而さんに作曲を依頼してきたそうです。 古関裕而さん、幼い頃から作曲に関してズバ抜けた才能を持っていたんですね。 この時も妹尾 せおの 楽譜や山田耕筰著の「作曲法」等本を読み作曲を独学で学んでいます。 校内弁論大会では古関裕而さんがハーモニカで音楽をつけることになり、書き溜めていた曲を合奏用に編曲して大勢で演奏。 初めて古関裕而さん作品が披露された瞬間でした。 現代にこんな中学生が存在するのでしょうか? しかし家庭では、古関裕而さんが在学中に家業の呉服店が倒産してしまいます。 家計は大丈夫だったのでしょうか?その辺りは朝ドラ『エール』で見てみることにしましょう。 学校を卒業する頃から、日本でも有数のハーモニカバンド「福島ハーモニカーソサエティー」に入団。 古関裕而さんは作曲・編曲・指揮を担当。 卒業後は川俣銀行 現東邦銀行川俣支店 に勤務しています。 銀行に就職できるくらいですので頭も良かったんですね。 この頃に学生時代から憧れていた作曲家・山田耕筰さんの事務所へ楽譜を郵送し、手紙のやり取りを行っていたそうです。 これは日本人初の国際的作曲コンクールにおける入賞という快挙で、当時の新聞でも大々的に報道されました。 このことがきっかけで結婚へとつながっていきます。 この報道をみた声楽家志望の愛知県豊橋市在住の内山金子 きんこ さんが、古関裕而さんにファンレターを送り、熱烈な文通を経て1930年、古関裕而さん20歳、金子さん18歳でスピード結婚。 古関裕而さんはとても愛妻家で、晩年までおしどり夫婦だったそうです。 素晴らしいですね。 1930年9月にレコード会社・コロムビアの顧問山田耕筰さんの推薦でコロムビア専属の作曲家に迎え入れられ、夫婦で上京しました。 しかし、コロムビア入社は主に生活費のためであったと考えられており、古関裕而さん本人は作曲の勉強のための洋行を希望していましたが、それは叶いませんでした。 その後、戦時中は戦時歌謡で数々の名作を残しており、戦後も暗く不安な日本を音楽によって明るくするための活動に力を注ぎました。 長崎だけにとどまらず日本全体に向けた壮大な鎮魂歌「長崎の鐘」。 戦災孤児の救済がテーマのラジオドラマ『鐘の鳴る丘』の主題歌「とんがり帽子」。 戦後日本の発展の象徴でもある1964年開催の東京オリンピックの開会式に鳴り響いた「オリンピック・マーチ」。 現在も毎年夏の甲子園に流れている高校野球大会歌「栄冠は君に輝く」など、数々の名曲を作り続けました。 その後も数々の歌謡曲、応援歌、校歌などを作り続けた古関裕而さん、1989年 平成元年 8月18日、脳梗塞のため聖マリアンナ医科大学病院で亡くなりました。 享年80歳。 その功績が称えられ、生前1969年 昭和44年 に紫綬褒章受章、1979年 昭和54年 に勲三等瑞宝章を受章しています。 更には古関裕而さんの亡くなった後、国民栄誉賞の授与が遺族に打診されましたが、長男の「元気に活動しているときならともかく、亡くなったあとに授与することに意味があるのか」という没後追贈の疑問から、辞退したといわれています。 そして2020年、古関裕而さんの半生をモデルにしたNHK連続テレビ小説『エール』が放送されることになりました。

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古関裕而の代表曲を6つのテーマ別に紹介!校歌や応援歌も?!

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昭和8年頃の古関夫妻と長女・雅子(写真提供:古関裕而の長男・古関正裕さん) NHK連続テレビ小説『エール』で、さんが演じる主人公・古山裕一のモデルは、名作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)だ。 今週月曜日には「六甲おろし」こと、「大阪タイガースの歌」が取り上げられた。 遺族にも取材して古関の評伝を書いた刑部芳則さん(日本大学准教授)によると、古関裕而はタイガースのライバル、読売巨人軍の歌も作曲していたという。 昭和8年、前年にポリドールから「忘られぬ花」(作詞・西岡水朗)を出した江口夜詩(えぐち・よし)が、コロムビアの新たな専属作曲家として加わった。 コロムビアの文芸部長和田竜雄は、江口を「仕事のうえではライバル、人間としては親友ということでやってくれ」と、作曲家たちに紹介した。 ところが、コロムビアは古関と再契約せず、解雇する方針を取ろうとした。 デビューから2年間、ヒット曲を出せない古関を捨て、他社でヒット曲を生んだ江口に期待したのである。 この噂を耳にした古賀政男(さん演じる木枯正人のモデル)は憤慨し、和田に「芸術家にはスランプはつきものである」、「それを理由に、契約を左右されたのでは、作曲家は全く立つ瀬がない」と抗議している。 また古関夫婦は、米山正の自宅を訪れ、長女雅子が生まれたばかりであり、再契約してもらえないと路頭に迷うことを説明した。 そして金子(さん演じる古山音のモデル)は、「ヒットを必ず生むから」、「必ずコロムビアに恩返しします」と懇願している。 金子の熱意が伝わり契約終了は免れたが、給料は半額に減らされた。 専属作曲家を解雇されるという危機一髪は逃れたが、会社は古関に期待しなかったようだ。 そのことは、昭和8年に古関が作曲した曲のほとんどが、地方のある特定の地域を対象とした歌であることにあらわれている。 昭和8年1月の「日本アルプス行進曲」と、五月の「青森市民歌」は、東京日日新聞社の当選歌である。 同年7月の「山形県スキー小唄」と「郷土の唄」は、前者が山形新聞社、後者が室蘭毎日新聞社の当選歌であり、いずれも新民謡ブームに乗って作られた。 同年8月の「麗しの瀬戸内海」は、翌9年3月に最初の国立公園となった場所を題材にしている。 昭和8年4月の「外務省警察歌」などは、タイトルだけ見てもヒットする気配のないことがわかる。 「船頭可愛いや」は、そのような針の筵の状況下で、4年8ヵ月をかけてようやくつかんだ大ヒットであった。 『エール』の風俗考証を務める、刑部芳則日本大学准教授 200枚しか作られなかった「六甲おろし」 古関が昭和6年に作曲した早稲田大学の応援歌「紺碧の空」は評判がよかった。 そのため、昭和6年10月に「日米野球行進曲」、昭和9年8月に「都市対抗野球行進曲」を作曲している。 そして、昭和11年2月には通称「六甲おろし」で現在も愛唱される「大阪タイガースの歌」が作られた。 中野忠晴が吹き込んだオリジナル盤は、関係者に配布する200枚しか作られなかった。 しかし、アジア・太平洋戦争後の昭和20年代からは、タイガースファンの間で歌われ、関西では知られるようになっていた。 古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル 昭和36年にチーム名が阪神タイガースに変わると、歌詞の最後のリフレインで「オウ、オウ、オウ、オウ、オーサカタイガース」のところが、「阪神タイガース」へと変更された。 古関の長男正裕によれば、昭和60年(1985年)に阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝し、さらに初制覇することになる日本シリーズでそれがよく流されたときには「父も忘れていたくらいです」という。 昭和6年11月2日、米国野球選手歓迎会の場で、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮して、「日米野球行進曲」を演奏。 古関にとって、オーケストラを指揮する初の経験となった。 自伝によると、燕尾服で指揮と言われたが、仕立てても間に合わないということで叔父のものを借りたという したがって、翌61年1月のインタビューで古関が「大阪タイガースの歌はボクの曲の中でもとりわけ気に入ってるんです。 今聞いても若々しく、力強い気分になれるでしょ」というのは、リップサービスの感じがする。 古関自身が忘れていた「大阪タイガースの歌」は、半世紀の時を経て認知されるようになったのである。 一方で古関は、阪神のライバル、読売巨人軍の応援歌も作曲している。 昭和14年2月に作られた「野球の王者」である。 古関に作曲の依頼がきたのは、「紺碧の空」と「露営の歌」を作曲し、「その豪快勇壮な作曲」方法を買われたことによる。 伊藤久男(さん演じる佐藤久志のモデル)が吹き込んだ「野球の王者」は、昭和14年3月に発売された。 新聞では「王者にふさはし、巨人軍の歌、古関氏の見事な作曲」と題し、「古関氏の独創的天分が遺憾なく発揮されてゐる」と高評価している。 「野球の王者」は忘れられてしまったが、今でも歌われている「巨人軍の歌」(歌い出しから「闘魂こめて」の愛称で知られている)も古関による作曲である。 「巨人軍の歌」は、昭和38年に読売巨人軍の創設30周年を記念して作られた。

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朝ドラ『エール』モデル・古関裕而が作曲した「六甲おろし」と「闘魂こめて」秘話(2020年6月23日)|BIGLOBEニュース

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昭和8年頃の古関夫妻と長女・雅子(写真提供:古関裕而の長男・古関正裕さん) NHK連続テレビ小説『エール』で、さんが演じる主人公・古山裕一のモデルは、名作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)だ。 今週月曜日には「六甲おろし」こと、「大阪タイガースの歌」が取り上げられた。 遺族にも取材して古関の評伝を書いた刑部芳則さん(日本大学准教授)によると、古関裕而はタイガースのライバル、読売巨人軍の歌も作曲していたという。 昭和8年、前年にポリドールから「忘られぬ花」(作詞・西岡水朗)を出した江口夜詩(えぐち・よし)が、コロムビアの新たな専属作曲家として加わった。 コロムビアの文芸部長和田竜雄は、江口を「仕事のうえではライバル、人間としては親友ということでやってくれ」と、作曲家たちに紹介した。 ところが、コロムビアは古関と再契約せず、解雇する方針を取ろうとした。 デビューから2年間、ヒット曲を出せない古関を捨て、他社でヒット曲を生んだ江口に期待したのである。 この噂を耳にした古賀政男(さん演じる木枯正人のモデル)は憤慨し、和田に「芸術家にはスランプはつきものである」、「それを理由に、契約を左右されたのでは、作曲家は全く立つ瀬がない」と抗議している。 また古関夫婦は、米山正の自宅を訪れ、長女雅子が生まれたばかりであり、再契約してもらえないと路頭に迷うことを説明した。 そして金子(さん演じる古山音のモデル)は、「ヒットを必ず生むから」、「必ずコロムビアに恩返しします」と懇願している。 金子の熱意が伝わり契約終了は免れたが、給料は半額に減らされた。 専属作曲家を解雇されるという危機一髪は逃れたが、会社は古関に期待しなかったようだ。 そのことは、昭和8年に古関が作曲した曲のほとんどが、地方のある特定の地域を対象とした歌であることにあらわれている。 昭和8年1月の「日本アルプス行進曲」と、五月の「青森市民歌」は、東京日日新聞社の当選歌である。 同年7月の「山形県スキー小唄」と「郷土の唄」は、前者が山形新聞社、後者が室蘭毎日新聞社の当選歌であり、いずれも新民謡ブームに乗って作られた。 同年8月の「麗しの瀬戸内海」は、翌9年3月に最初の国立公園となった場所を題材にしている。 昭和8年4月の「外務省警察歌」などは、タイトルだけ見てもヒットする気配のないことがわかる。 「船頭可愛いや」は、そのような針の筵の状況下で、4年8ヵ月をかけてようやくつかんだ大ヒットであった。 『エール』の風俗考証を務める、刑部芳則日本大学准教授 200枚しか作られなかった「六甲おろし」 古関が昭和6年に作曲した早稲田大学の応援歌「紺碧の空」は評判がよかった。 そのため、昭和6年10月に「日米野球行進曲」、昭和9年8月に「都市対抗野球行進曲」を作曲している。 そして、昭和11年2月には通称「六甲おろし」で現在も愛唱される「大阪タイガースの歌」が作られた。 中野忠晴が吹き込んだオリジナル盤は、関係者に配布する200枚しか作られなかった。 しかし、アジア・太平洋戦争後の昭和20年代からは、タイガースファンの間で歌われ、関西では知られるようになっていた。 古関夫妻の長男・古関正裕さんの著書『君はるか 古関裕而と金子の恋』集英社インターナショナル 昭和36年にチーム名が阪神タイガースに変わると、歌詞の最後のリフレインで「オウ、オウ、オウ、オウ、オーサカタイガース」のところが、「阪神タイガース」へと変更された。 古関の長男正裕によれば、昭和60年(1985年)に阪神タイガースが21年ぶりにリーグ優勝し、さらに初制覇することになる日本シリーズでそれがよく流されたときには「父も忘れていたくらいです」という。 昭和6年11月2日、米国野球選手歓迎会の場で、新交響楽団(NHK交響楽団の前身)を指揮して、「日米野球行進曲」を演奏。 古関にとって、オーケストラを指揮する初の経験となった。 自伝によると、燕尾服で指揮と言われたが、仕立てても間に合わないということで叔父のものを借りたという したがって、翌61年1月のインタビューで古関が「大阪タイガースの歌はボクの曲の中でもとりわけ気に入ってるんです。 今聞いても若々しく、力強い気分になれるでしょ」というのは、リップサービスの感じがする。 古関自身が忘れていた「大阪タイガースの歌」は、半世紀の時を経て認知されるようになったのである。 一方で古関は、阪神のライバル、読売巨人軍の応援歌も作曲している。 昭和14年2月に作られた「野球の王者」である。 古関に作曲の依頼がきたのは、「紺碧の空」と「露営の歌」を作曲し、「その豪快勇壮な作曲」方法を買われたことによる。 伊藤久男(さん演じる佐藤久志のモデル)が吹き込んだ「野球の王者」は、昭和14年3月に発売された。 新聞では「王者にふさはし、巨人軍の歌、古関氏の見事な作曲」と題し、「古関氏の独創的天分が遺憾なく発揮されてゐる」と高評価している。 「野球の王者」は忘れられてしまったが、今でも歌われている「巨人軍の歌」(歌い出しから「闘魂こめて」の愛称で知られている)も古関による作曲である。 「巨人軍の歌」は、昭和38年に読売巨人軍の創設30周年を記念して作られた。

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