怖い歌。 パプリカの歌が怖いし不安になる?理由は4つ!米津玄師のMVも怖い? | Voyage of Life 21

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1912年に日本からアメリカへ桜を贈った際、そのお返しとしてハナミズキが贈られてきたそうです。 この時贈った桜は、今でもアメリカの観光名所になっていて、日本とアメリカの友好の証になっています。 この事からハナミズキの花言葉に「返礼」が加わりました。 一青窈がテロの映像を見て作った曲なので、 この曲もアメリカへの「返礼」と言えるでしょう。 この「君」とは、息子のことなのでしょう。 これは後に 「母の日」という言葉が出てくることからわかります。 死のイメージ この歌詞にはさりげなく死のイメージが織り交ぜられています。 それが 「水際」という単語です。 日本ではあの世のことを彼岸 ひがん と言いますが、これは「向こう側の岸」を指す言葉です。 ちなみにこの世は此岸 しがん と書いて、「こちら側の岸」という意味になります。 そして あの世とこの世の間には三途の川が流れているということになっているのです。 その岸までやってきて、どうか姿を見せてほしい。 でもこちら側には来ないで欲しい。 死んだ母から息子への切実な想いが語られているのです。 死後に川を渡るという考えは日本的なように感じます。 しかしギリシャ神話を始めとして、死後に川を渡ることになっているお話は数多く見られます。 人類に共通する死の感覚なのかもしれません。 でも一青窈がこの曲に平和への祈りを込めたことを考えれば、そのニュアンスが変わってきます。 「果てない夢」は恋に使うには大げさな言葉ですよね。 これは テロによって起こった憎しみの連鎖、その終わりを願う夢なのです。 ハナミズキに例えられる「君」は、テロで母親を亡くしているのです。 その根絶を願うようになったのでしょう。 その結果訪れた平和な世の中で、初めて 「君と好きな人」は長く暮らしていけるのです。 ハナミズキのもう一つの花言葉 ハナミズキのもう一つの花言葉は 「永続性」です。 一青窈はこの木に、永遠に続く平和への祈りを込めたのでしょう。 その平和の花が咲くためには、蕾をつけなければなりません。 その蕾とは、 テロを受けて広がっていく平和への祈りなのです。 11が起こったあの夏。 複雑な思いを抱え、多くの人が死んでいきました。 船のイメージは、命を懸けた譲り合いについて書いているのです。 映画『タイタニック』や『ダンケルク』を思い出されるとわかりやすいのですが、人が船に乗り切れないとき、取り残された側は死のリスクに晒されます。 それでも息子である 「君と好きな人」を優先的に乗せてあげるような、未来への希望を繋げていく気持ちがあれば、きっと世界からテロは無くなる。 そういう想いが込められた歌詞なのです。 映画『タイタニック』ではパニックの中で誰が救命ボートに乗るか、争いになっていました。 しかし 実際のタイタニック号沈没事件では、女性や子供を優先的に救命ボートに乗せて、男たちは死の覚悟を決めていたそうですよ。 ここで使われているのは、そういった譲り合いのイメージなのです。 それ無くして世界に平和は訪れません。 今世界には、 復讐の波が広がっています。 誰かが誰かを傷つけて、その復讐で誰かがまた誰かを殺して、あの国では未だに戦争が続いていて…。 誰かがこの復讐の連鎖を止めないと、百年恋人たちが暮らせるような平和は続かないのです。 このテロの連鎖と報復を「果てない波」に例えているのです。 思いやりで世の中が満たせたら…という一青窈の儚い想いが、2回目のサビに綴られています。 そしてここで出てくる「母の日」という言葉なのですが、 死んだ母から息子への言葉だと考えればしっくりきませんか? ハナミズキが「永遠に続く平和」のイメージで使われていることを思えば、母の犠牲と息子の祈りで、平和になっていく世の中が見えてきますよね。 なぜ葉なのか ここで注目したいのは、なぜ「花」ではなく「葉」なのかということです。 花はいつか実に変わるので、「平和」の例えであるとわかります。 「ハナミズキ」「もらい泣き」等の名曲と、初回限定版にのみ付けられたDVDがセットになったベストアルバムがリリースされています。 追記:なぜ母なのか 多くのサイトでは『ハナミズキ』が父親から息子に送られた歌として紹介されています。 それは一人称が「僕」であることが大きな理由になっています。 「母の日」というフレーズは、亡くなった父親が自分の代わりに妻に感謝を伝えてほしい、というニュアンスで解釈されているのです。 そして、その解釈は恐らく正しい。 ハナミズキの3番目の花言葉は「私の想いを受けてください」であり、感謝を伝えるための花なのです。 しかし産経新聞の上記リンクを見ればわかるように、一青窈はこの曲に母の面影を見ています。 このすれ違いは何なのでしょうか。 一青窈は幼くして父を亡くしている 彼女は台湾人の父と日本人の母の間に生まれますが、幼稚園の卒園を機に、父を台湾に残して日本へとやってきます。 そして8歳の時に父親を亡くし、以降母の手によって育てられました。 彼女の内なる親のイメージが、自身の母親から強い影響を受けていることが伺えます。 恐らくこの曲のモデルになった方は父親を亡くしています。 しかし、一青窈が『ハナミズキ』に描けたのは、 自分と姉を女手一つで育てた母の姿だったのではないでしょうか。 その母も彼女が16歳の時に癌で亡くなります。 彼女にとって母は、自分に無償の愛を注ぎ続ける庇護者の象徴なのです。 であれば「僕」という一人称に囚われてはいけません。 ここに描かれているのは、一青窈に注がれた母の愛なのですから。 この曲もそうだと思います。 それを誤解・曲解するのは大げさに言えば作品に対する冒涜とも言えます。 歌詞の解釈もそうですが、もっと研鑽を積んで作品を読み解き、味わえるようになってくださいね。 一青窈さんがこの作品で表現したかったこととは、「相手を思いやる気持ちを、次の世代へ 親から子へ つないでいけば、憎しみの心 具体的には9. 11に代表されるテロ は無くなるよね」という、一つの思いです。 どうかその思いを、間違えて世に広めないようにお願いします。 しかし、深く的確に捉えてらっしゃるなと思う部分が沢山ありました。 更に、「待たなくていい」「知らなくていい」とは何をだろうかという疑問は残ります。

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ひな祭りの歌が実は怖い!歌詞に間違いがある?本当の意味は?

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夏休みのあなたも、そうでないあなたも、こんにちは。 初谷むい(短歌をやっている北海道の大学生)です。 この記事では、『こわい短歌特集』ということで、短歌の魅力を『怖い』という観点から味わっていきたいと思います。 わたしはかなり怖い話が好きで、(いま、Wordで[怖い話]と打ったところ予測変換に[怖い話機械朗読]と出てきて怖かった……)ちょくちょく2chの「洒落怖」を調べたり、テレビ番組を楽しみにしたりしている。 でもそもそも『怖い』という感覚自体はとても苦手で、お化け屋敷では目も開けられない。 それでもなぜ『怖い』に魅せられているのかというと、そもそも『怖い』がなぜ起きているのか、『怖い』の発生源はなんなのか、たとえば、『日常的な光景が一瞬で非日常へと変化すること』や『念などの、みえない力を感じること』『「死」を意識すること』なんかが挙げられると思うんだけどどうやらその辺の理由をおもしろいと感じているような気がする。 みたいなことを考えながら、先日、書肆侃侃房の短歌ムック『ねむらない樹』を読んでいたら、『新世代がいま届けたい現代短歌100』というコーナーにこんな短歌が掲載されていた。 夏の井戸(それから彼と彼女にはしあわせな日はあまりなかった)/我妻俊樹 怖い。 とても上品な、底の深い恐怖感がある。 以前から大好きな歌だったけれど、改めて怖い。 そして決意する。 怖い短歌の文章を書くことを決める。 ということで、まず、この歌から鑑賞していこうと思う。 さらに、『夏の井戸』はもっと怖い。 おそらくわたしたちの共通認識みたいなものとして映画『リング』の貞子が出てくるのは井戸である、ということもあるし、深い水の入った穴、という時点で井戸はめちゃめちゃに怖い。 後半については個人的なものかもしれないけれど、夏の井戸は、「そこだけひんやりしてそうな感じ」がして、嫌だ。 冬であれば、井戸の特別性は薄れてしまう。 日常の穴、としての井戸は、やはり夏がよく似合う。 このモチーフがめちゃめちゃ怖い。 そのあとの文が()の中にあるのも、視覚的に井戸を覗いているような感じがして、上手い。 冒頭で述べた怖さ要因にはなかったのだけど、『理解できないこと』はめちゃめちゃこわいとおもう。 こちらの世界のルールでは理解できないつながりでものごとが連鎖することに対する恐怖。 歌の中に登場する登場人物は『彼』『彼女』の二人である。 彼らには『それから』『しあわせな日はあまりな』い。 『夏の井戸』が冒頭に存在するせいで、二人のそれからに、井戸が影響を与えているような気がするのだけど、そんなことは一言も書かれていない。 ヒントは『それ』である。 それってなんだ。 例えば、井戸につなげて考えると、「ふたりで井戸に死体を棄てた」と妄想することもできるし、単純に「ふたりで井戸を覗いてみた」かもしれない。 ここで気が付く。 登場人物は『彼』『彼女』であり、「ふたり」ではない。 それでは、この歌のは誰なのだろう? その人は『それ』を知っている。 そして、もしかしたら『彼』も『彼女』も知り得ない、『それから』の原因を知っていることになる。 この物語のであるこの人(あるいは『井戸』そのものであるという読みもできる)の存在、そして謎に気づいたとき、背筋がすっと寒くなる。 『しあわせな日』が『あまりない』このことは、遠くからみたとき「不幸」とかなり似た景色に見えるのだけど、当人たちは、おそらくそのことに気づかない。 そこに恐怖が生まれる。 いや、不幸ではないのかもしれない。 平凡な日常が淡々と続いていく。 しあわせであることは少なくなったが、不幸でもない。 ふたりはそのことに気づかない。 それが怖いのだ。 『それ』によってふたりの人生は決定的に変えられた、はずなのに、それに気づかない。 どうしようもなく不安になる。 絶妙な言葉選びだと思う。 ずいぶん熱くなってしまって、逆に怖さが減ってしまったような気がする。 『恐怖』には余白が必要なのだ。 これからはもうちょっと簡単にいければな、と、わたしは文章を書きながら思っている。 次の歌は、もう少し物理的な恐怖だ。 ここで水をぜんぶ抜くのね、そ う す る と ! おたまじゃくしは全部死にます/米田一央 何が怖いって、『そ う す る と !』に他ならない。 テンションが異常なのだ。 水を抜き始めて、『そ う す る と !』まで笑っている。 ともすれば爆笑である。 『のね』というもテンションと相まって不気味である。 水を抜き終わり、おたまじゃくしが身もだえる。 いきものは黒いグネグネになる。 それを見つめる主体は、真顔である。 急に真顔になる。 その落差が、『そ う す る と !』によって生まれる。 見事だと思う。 もちろん、やっていること自体の残酷さや、『おたまじゃくし』というモチーフの使い方も怖いのだけど。 (金魚とかとかよりも、生き物感が少ない感じが良い。 ) 続いて、人間の「念」についての恐怖だ。 先の歌を知ったのは、短歌結社「なんたる星」の2017年8月号の「戦評トーナメント」におよばれしたときで、その時のテーマの一つに「こわい」があった。 迂回さんが挙げていたものが先の歌になる。 (みなさんが挙げられていた歌を改めて読み直すと、どれもこわい……。 末尾にURLを載せるので、ぜひ読んでみてください。 )わたしが挙げた歌が、これから挙げるものだ。 あえる夜は月がかがやくぼくたちはふたりでひとつの太陽である/イソカツミ この歌は、一見すると甘い相聞歌(恋の歌のこと)だが、それだけではない。 昼間、少なくとも「ぼく」にとっては、いくらほんとうの太陽が照らしていたとしても、暗闇が続いていく。 月は見えない。 さらに、「あえる夜」があるということは「あえない夜」が日常的に存在している。 あえない間、夜は終わらない。 そして、怖いのは、このふたりは「夜しか会えない」ことである。 太陽はふたつ同時に存在することはできない。 ほんとうの太陽が存在する昼間、おそらくふたりは会えないのだ。 そしてあえる夜だけひかりは訪れ、まもなく、また深い暗闇が『ぼく』を包む。 そのことを『ぼく』は「あなた」に伝えないのだろう。 そして屈託なく笑う。 深くほの暗い「念」が、平易な言葉で描かれたかわいらしい無邪気な『ぼく』のうしろに見える。 こういった効果を歌に見たとき、わたしはたまらなく興奮する。 『ぼく』が必死に隠している暗闇が、透けて見えてしまう。 これが短歌の面白いところだと思う。 歌単体以外の文脈を持ち込むのはよくないが、余談として、この歌が収録されている(はず)イソカツミさんの歌集『カツミズリズム』は大きなテーマとして「不倫の恋」を扱っているらしい。 この『ぼく』は決してちいさな子供ではない。 計算か、いや、おそらくそうなってしまうのだろう無邪気さが、たまらなく切なく、同時に恐ろしい。 わたしたちは恐怖に魅せられる。 この世ならざるもののパワーや、理屈の通用しない世界を畏怖する。 そのことをとても愛おしく思う。 最後に、最近読んだ小説、『淵の王』のはなしを少ししようと思う。 『ホラー長編』と銘打たれているが、微妙なニュアンスの問題で、ホラー、よりも、恐怖だな、と思う。 同じ意味なんだけど。 簡単に内容を説明すると、三つの章にそれぞれ人名が付けられていて、その人を見守る「誰か」の目線で物語が語られる。 「誰か」はその人につきっきりである。 自我があるが、肉体はない。 いわば守護霊的立ち位置にいる。 この三人がそれぞれ恐ろしいめにあう、という話である。 なるべく話したくない。 話したところで読んだ感動がそれを大いに上回ることは絶対そうなんだけど、でもなるべく多く感動してほしいので、多くは説明しないでおくことにする。 一か所だけ引用する。 怖い想像が悪い影響を持つって、まさしく堀江さんに起こってると思う。 /『淵の王』 作品に「」というキーワードがよく出てくる。 は言葉であり、言葉は物語をつくる。 わたしはまさにこういうことが大好きで、怖かったのだ、と思う。 ある種のが怖いものを生んだり、人を守ったりする。 そういうことをじっくり書いている小説である(と、今現在の私は思っている)。 未知のエネルギーやテレパシーや、その他もろもろ何かの力、光に触れたいときにおすすめの一冊である。 (もちろん恐怖要素もすばらしい。 ) 結局、ホラー、というよりもわたしがだいぶ暑苦しく語ってしまい、怖い感じがなくなってしまった気もするが、この文章が、あなたの短歌ライフをすこしでも盛り上げられたらいいな、と思う。 どうかみなさま良い夏を。 初谷むい なんたる星2017年8月号 余談だが、この号に収められている加賀田優子さんの「すこやか」という連作がとても怖い。 ぜひ読んでみて下さい。

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いろは歌の本当の意味が怖い!実は作者不明の「呪いの歌」だった

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石川県 会社員 石井香織(29)(仮名) それは、今から3年ほど前の出来事です。 私は3歳の息子を持つ、シングルマザーです。 離婚の原因はさておき、子供との生活を少しでも安定させるため、私は離婚後すぐに県営住宅への入居を申請しました。 ちょうどその頃、同じ市内で大規模な県営アパートが完成し、母子家庭の優遇措置があったおかげで、幸運にもすぐに入居することができました。 元々その土地は小学校の跡地で、戦前から続いてきた歴史ある小学校だったのですが、少子化の影響で廃校になったのだそうです。 私達の入居から数日後、お隣りと真上の部屋に、それぞれ引っ越して来たというご家族が、ご挨拶にいらっしゃいました。 聞く所によると、偶然にも2家族とも、同じ3歳の子供を持つシングルマザーで、これから通う保育園も一緒だということで、私達はすぐに意気投合しました。 これが偶然なのか、役所の割り振りのおかげなのかは分かりませんが、シングルマザーにとって、境遇の似たママ友はとても心強く、私はまるで『戦友』に出会ったような気分でした。 隣の部屋のYさんは、男の子と一緒に住む、私より4つ年下の若いお母さんです。 上の部屋のFさんは私より少し年上で、かわいい女の子と暮らす、とてもしっかりしたお母さんでした。 それから1週間ほど経ったある日のことです。 この日は息子の「慣らし保育」の最終日で、夕方6時のお迎えまで、初めて親の付き添い無しで過ごしました。 もともと物怖じしない性格の息子は、私が迎えに行くまで上機嫌で、「お友達とも楽しく遊んでいましたよ」と言う保育士さんの報告に、ホッと胸をなでおろしました。 何日か遅れて慣らし保育を終了したYさんの息子さんと、Fさんの娘さんも仕上がりは上々で、まずは第1段階の試練を皆んなで乗り越えた、といったところでした。 それからまた、3ヶ月ほど経った頃です。 保育園から連れて帰った息子が、居間で何かの歌を歌っています。 「テレビでも見ながら一緒に歌っているのかな?」 それにしては、テレビの音が聞こえてきません。 キッチンから居間の奥にいる息子の方に首を伸ばしてみると、背筋と指先をピンと伸ばし、気をつけの姿勢でやや上を見上げながら何かの歌を一生懸命歌っています。 「おーにのー・・めにたぁたたったぁー えーたぁしゃんのぉー おたででしゅー」 何の歌だかは分かりませんでしたが、直立不動で一心不乱に歌っている姿がとても可愛かったので、思わず携帯で動画を撮影しました。 歌い終わって満足気にしている息子に、 「それ何のお歌? 保育園で習ったの?」 と聞いてみたのですが、息子は照れくさそうにもじもじ体をよじるだけで、その時は答えてくれませんでした。 それから数日後、休みの日に私の家で、Yさん、Fさんと、最近定例化しつつあるママ会をすることになっていました。

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