竹内 まりや 子供。 竹内まりや・山下達郎の娘はイラストレーター「山下えり」さん?!作品はこちら

竹内まりやの出身と大学や経歴は?家族や子供の現在を調査した!【Music&Life】(20200324放送)

竹内 まりや 子供

Contents• 竹内まりやの子供は何人で年齢は?娘の名前は山下絵里? 出典: 竹内まりやさんは、1982年に 山下達郎さんと 結婚し、2年後の 1984年に 長女を出産しました。 長女を出産した後は、育児・家事を優先しながらも音楽活動を続け、1992年に発売したアルバム「Quiet Life」がミリオン・セラーを記録しました。 また、1994年に発売したベスト・アルバム「Impressions」300万枚を超える売り上げを記録し、一躍トップアーティストとなります。 そういった経緯もあり、竹内まりやさんの子供は、1984年に生まれた 長女1人だけです。 2019年時点での年齢は 35歳です。 長女に関する詳しい情報は出回っていないのですが、名前は 山下 絵理さんだそうです。 父親である山下達郎さんが、長女絵理さんについて以下のように語っていました。 これ、なかなか名言だと思いますよ」 引用元: 出典: 娘にウザいと言われてしまうほど、子供のことを大切にしているということでしょうし、竹内まりやさんや山下達郎さんがテレビなどに出演する機会が少ないのも、 子供のことを優先していたからだと言われています。 竹内まりやの子供 娘 の大学や学校はどこ? 出典: 竹内まりやさんの長女は、サザンオールスターズの 桑田佳祐さん・ 原由子さん夫妻の 息子さんと同じ学校に通っており、学年は1つ上だということです。 井上陽水の娘さんが、以前した話だけど、実は桑田佳祐・原由子の息子さん、山下達郎・竹内まりやの娘さんと同じ小学校で、運動会の大玉転がしでこの3人が一緒になって、親は紅白に出ないけど子供は紅白で盛り上がったって、話してた。 出典: 桑田祐宜さんは、父親と同じく青山学院に通っていましたので、竹内まりやさんの長女も 青山学院ということになります。 竹内まりやさんの長女と桑田祐宜さんは 小学校から同じ学校に通っていて、 現在も同じ学校に通っています。 竹内まりやさんの長女は 桑田祐宜さんとバンドを組んでおり、学園祭に出演したこともあり、当時は話題になりました。 どんな音楽を奏でていたのかがとても気になりますが、残念ながら当時の画像や音源は残っていないようです。 桑田祐宜さんは、父親である桑田佳祐さんの力を借りずに、父と同じロックの道を歩んでいるようです。 出典: 2012年夏にロックバンド『READ ALOUD』としてメジャーデビューしましたが、メンバーの音楽性の違いから、2015年10月9日に解散してしましました。 世間では、有名人2世として世に出ている人が多い中で、桑田佳祐さんは親としてではなく、同じ道を歩む先輩として厳しく桑田佳祐さんに接しているようです。 竹内まりやと山下達郎の娘えりは棋士?それとも歌手?画像あり 出典: 竹内まりやさんの娘の名前が絵理であることは先ほどもお伝えしましたが、青山学院に通っていた頃は、バンドを組んで音楽活動をしていました。 ところが、大学卒業後の進路については、 確定的な情報がないというのが実情です。 一部ネットでは、 棋士をしているのではないか?との情報もありました。 その情報の出どこはこちらの画像からでした。 この画像に写っている女性が、山下達郎さんに非常に似ているという理由から、山下達郎さんの娘なのではないか?とも言われましたが、この方は 室田伊緒さんという女流棋士で、山下達郎さんとは一切面識がなく、 無関係な人物のようです。 ということで、竹内まりやさんの娘が 棋士をしているというのは 完全なるデマだと言えます。 また、竹内まりやさんの娘は 歌手で、名前は山下絵理といい、すでに 音楽シーンで活躍しているとも言われています。 山下絵理さんは以前から話題になったこともあるシンガーソングライターだったのです!これまでに「ellie」名義で多くのミュージシャンとコラボし、90曲以上をリリースされているそうです。 芸能事務所「スマイルカンパニー」側も、山下絵理さんは、竹内まりやさんの娘ではないと言い切っています。 実際、達郎の所属事務所に話を聞くと、「(ellieは)今は所属していませんし、( 達郎とまりやの娘というのは)違うんです」とキッパリ…。 引用元: 苗字、(今は違うにしても)所属事務所、顔と、竹内まりやさんとの共通項がこれだけあれば、誰でも実の娘だと思ってしまいますよね・・・。 実は彼がTV出演しないのには他に理由があります。 「 家族との時間・プライベートを大切にしたい」からの理由です。 TV出演すれば顔も知れてしまう、家族とのプライベートな時間が台無しになってしまうのが嫌だという、 非常に家族を大切にする人です。 彼は娘さんが幼い頃、よくデパートの屋上にあるような小さな遊園地みたいな場所に連れて行ったりしたそうです。 また、ファミレスに行く等、ごく 普通の家族のように暮らしていきたいと。 顔が知れてしまったら「山下達郎だ!」と騒がれるでしょう、そういうのが嫌なのだそうです。 引用元: 竹内まりやさんも山下達郎さんと同じスタンスですので、娘の情報が一切外に出ないように配慮しているのだと思われます。 竹内まりやの娘は現在イラストレーターとして活躍中? 竹内まりやさんの娘さんは現在、 イラストレーターとして活躍されていることがわかりました。 富山の地酒老舗として有名な桝田酒造店の純米吟醸『満寿泉Pero』の ラベルデザインを担当したのが竹内まりやさんの娘さんでした。 出雲大社の竹野屋旅館に来させていただきました。 竹内まりやさんの娘さんがラベルデザインされた満寿泉のPeroを頂きながら、心と手のこもった桐原輝雄料理長のお料理を頂きました。 竹内まりやが娘の結婚式に出席? — 2019年 4月月11日午前5時23分PDT 現在は竹野屋旅館の経営を任されているため、 歌手活動はほとんど休業状態です。 これが原因で、ファンやマスコミの間では引退説がささやかれていますが、竹内まりやさん本人はもちろん、山下達郎さんも所属事務所も、 引退説を否定しています。 また、山下達郎さんが、竹野屋旅館の経営立て直し会議に同席したという情報もありますので、今後は 夫婦総出で旅館の経営に携わっていく可能性もあります。 もしかすると、今後、竹野屋旅館で、宿泊客限定のミニライブやトークショーが開かれることがあるかもしれません。 そうなれば、旅館の立て直しは一気に進みそうな気もしますね。 いずれにしても、今後の動向に注目です。 竹内まりやが38年ぶりに音楽番組 ミュージックフェア に出演!.

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竹内まりやさんの娘は山下絵理or将棋?画像・大学は?結婚は?

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Contents• 竹内まりやの子供は1人! 調べによると、竹内まりやさんと山下達郎さんの子供は1人(娘)であることが分かりました。 お二人が結婚したのは、1982年。 その2年後の 1984年に子供を出産されているので、現在はアラサーの女性なんですね!! その後も色々な情報に当たりましたが、他に子供がいらっしゃる事実は見当たりませんでしたので、おそらく子供は一人っ子になるかなと思います! ではその子供について、詳細を見ていきましょう! 【画像あり?】子供はなんとミュージシャン!大学や学歴など、現在までの経歴はこちら 竹内まりやさんと、山下達郎さん。 お二人から子供に関する詳細は語られていないので、正確な情報は無かったのですが、多くの情報を当たると、一名の女性がヒットしました。 それが・・・ シンガーソングライターとして活動されている、山下絵理さん。 ただ、、、これだと、年齢が合わないという事実、、orz そうなんです。 この山下絵理さんは子供ではないかと言われていますが、「 いや、違う!!」と事務所は答えており、正しい子供の情報は闇の中・・・って感じなんですよね涙 ちなみに、 この山下絵理さんはシンガーソングライターであり、ellieの名でも活動されています。 竹内まりやさんの曲に「エリ」ってタイトルがあること、それに同じミュージシャンであることから、子供の噂が広がったみたいですね!! う〜ん、謎ですww ま、顔は似てないかなぁ〜ww なので、子供の情報がなく、大学などの経歴もハッキリしないのですが、一部情報によると、 サザンオールスターの桑田佳祐さんの息子と信仰があるみたいで、学生時代は一緒にバンドを組んで披露していたこともあるみたいです! なので、大学に行っているとしたら、 青山学院大学が有力なのでは??なんて声も挙がっているんですね。 以上、竹内まりやさんの子供についての調査結果となります。 子供の大学や学歴、現在やその画像など、少し未知の部分が多くて残念ですが、また情報が入り次第追記して更新いたしますので、ぜひチェックしてくださいね! では、また会いましょう。

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山下絵理(ellie)は山下達郎と竹内まりやの娘?!年齢や大学がどこかが鍵?

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(歌手)• 出生名も同じ。 結婚後の本名は 山下 まりや(やました - )。 杵築南(現・大社町杵築南 )出身。 父親は(旅館経営者。 のちには大社町も務めた)。 現在所属するは。 略歴 [ ] 1950年代 [ ] まりやの父親は老舗旅館「竹野屋旅館」の4代目であったである。 母親はを目指す大学生であったが、父親と恋に落ち、竹野屋旅館のになった。 まりやはそのような夫婦の娘として、2男4女の6人兄弟の三女・第4子として、(昭和30年)に生まれた。 「」節も参照のこと。 まりや以外の兄弟の名前は全員日本的で、3人の姉妹はみな「〇〇子」という名前である。 まりやがただ一人例外になっているのは、1人くらいは自分の好みで名付けたいと思った父が、ならば世界中どこへ行っても呼びやすい名前にしようと考え、「 Marija, Mariya 」 から採って「 まりや」と命名した とのことである。 「」節も参照のこと。 父は歌が、母はが上手いという。 1960年代 [ ] (昭和36年)4月1日、のまりやは6歳に成りたてで、地元の大社町立大社小学校(現・出雲市立大社小学校 )に入学する。 (昭和42年)4月(12歳時)、大社町立大社中学校(現・ )へ進学。 1970年代前半 [ ] (昭和45年)4月(15歳時)、 へ進学する。 (昭和46年)、高校2年生の年、父がの町長に就任した。 父はこれより15年に亘って町長を務めることになる。 まりやはと言えば、高校2年生の9月からを控える3年生の8月まで、すなわち(昭和46年)9月から(昭和47年)の8月まで、交換制度を利用して、の () にある四年制公立高校「ロックフォールズ高等学校( ()、) 」で1年間の留学生活を送ることになった。 同校でのは Mako。 活動は部に入った。 初めて本気で男性を好きになったのもこの時期で、告白するも大に終わった。 この時の経験はをテーマにした曲作りに活かされており、失恋の曲などでは同じコーラス部で音楽センスが良く歌の上手かった年下のその男の子の面影を追って書いている、ようなことを言っている。 その後、将来の夫であるに出逢うまでに2人の男性を好きになったことも、この話題のなかでほのめかしている。 帰国してからは大学受験に向けて勉強の日々が始まったが、アメリカでは女子はみな、男子はみなで車を乗り回したりで、一方の日本では黒いに髪という、向こうとこっちでもの凄い落差があり、それがまた楽しくもあったという。 (昭和48年)4月(18歳時)、へ進学し、をする。 在学中、音楽「リアル・マッコイズ」に所属した。 がリーダーを務めるこのサークルで、竹内はの従妹らとともにバックを担当した。 また、杉の作った「ピープル」にも参加してとコーラスを担当した。 当時はプロのを目指していたわけではなく、将来はのになりたいと思っていた。 しかしサークルとバンドの活動に日々入れ込みすぎたため、大学のほうは1年目でのを落としてしまい、早々にしてしまう。 そのようなとき、杉のバンドで活動していてプロの業界人と繋がりができ、歌手にならないかと誘われた。 (昭和49年)9月7日、杉の率いるピープルは第8回関東・甲信越大会()に「踊りに行こう」という曲で出場している。 この大会には、別グループのメンバーとして、(バックレイン元春セクション)、、桐ヶ谷仁(フェードイン、のちにの経営する音楽学校講師を務める)も出場していた。 1970年代後半 [ ] (昭和53年)、より発売された『ロフト・セッションズ 1 』に参加し、「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」の2曲を録音する。 この「ハリウッド・カフェ」と「8分音符の詩」はプロモ・オンリーのでシングル・カットされた。 この時の竹内の名義は「竹内マリヤ」であった。 この時、22歳であった。 不在の時期と重なったため、当初はそのルックスも相まってアイドル歌手のような役割を担った。 (昭和54年)8月21日、3枚目のシングル「」を発売する。 この曲はトップ100圏内に半年近くチャートインし続け、同年12月31日に開催されたで新人賞を獲得するに到った。 1980年代前半 [ ] (昭和55年)には、の化粧品のとなったシングル曲「」などがヒットする。 当初は・夫妻やなどが提供する曲を歌っていた竹内であったが、これに飽き足らず、自らも作詞・作曲を手がけるようになった。 ところが、アイドル的活動には大きな不満を持っていた。 心ならずもやのやなどにも引く手数多のアイドル活動をやらされることになった竹内は、歌わせてさえもらえない仕事も数多くこなさざるを得なかった。 この辺りの出来事については「」節で詳説する。 与えられた仕事を懸命にこなしながらも根本的疑問を抱えていたこの時期の竹内の前にアレンジャー()として現れたのが、のちに公私に亘ってパートナーとなるであった。 山下が率いるや山下のライブをアマチュア時代から見に行っていた竹内は、特に自らのデビューライブの直前に見た山下のライブに大きなインパクトを受けていたという。 竹内のレコーディングにアレンジャーとして起用された山下は、その後、同じRVC所属のシンガーのレコーディングに際して双方がコーラスに起用されるなど、関わりを密にしていった。 アイドル歌手としての活動に深く思い悩んで行き詰まった自分に山下は親身になって相談に乗ってくれて、それが結婚に到るきっかけになったと竹内は語る。 二人は次第に懇意になり、やがて山下のマンションでするようになった。 『』の同年放送回に出演した竹内は司会者に問われて山下との交際を公表している(参照)。 なお、竹内の結婚前の作品は、山下達郎をはじめ、、、()、、、、、、といった作家が提供している。 (昭和56年)、先述したアイドル歌手としてオファーと自身の希望する活動とのギャップに原因するストレスと過酷なスケジュールが祟って竹内は喉を傷めて入院し、音楽活動に一旦整理をつける意味から一時休業を宣言した。 (昭和57年)4月、27歳で 山下達郎と結婚する。 これ以降メディア露出はほとんどなくなったが、同時に作詞家・作曲家として活動を開始し、に提供した「」「」などヒットを放つ。 しかし同1982年、山下の担当ディレクターがから独立し、を設立すると、山下も「役員兼所属ミュージシャン」として移籍する。 竹内は、「記念に一枚」のつもりで、(昭和59年)にシングル「」、そして全曲を竹内自身が作詞・作曲したアルバム『』をリリース。 このアルバムの構想段階では、以前のように外部作家を起用して制作する予定であったが、休業中に竹内が書きためたオリジナル曲のクオリティの高さに山下が驚き、結果、全曲を自作曲のアルバムとしてリリースすることとなった。 同作品は最終的に30万枚以上のヒットを記録することになる。 同年、娘が誕生する。 結果としてこの子が山下達郎・まりや夫婦のただ一人の子供となった。 1980年代後半 [ ] その後は家庭生活を優先したためにライブ活動からも遠のくが、アレンジャー・を務める夫のサポートを受けながら、シンガーソングライターとして活動を続けた。 アルバムのほうでも、1992年の『』が発売と同時にミリオン・セラーとなり、1994年のベスト・アルバム『』は売り上げ300万枚を超えるヒットを記録した。 なお、「元気を出して」は(昭和62年)に竹内がしているほか、カバー(とのいずれか)がとあるいは両地域で2005年までに4度発売されている。 日本におけるセルフ以外のカバーは早くも初年(1984年)に曲を出したや、(平成15年)にカバーしてヒットさせたばかりでなく、多くのカバー曲が生み出されてきた。 この件については当該記事を参照のこと。 1980年代半ばには歌唱力で売るアイドル歌手・のアルバム『』のためにテーマに副った楽曲群を提供し、アルバムは(昭和61年)に発売された。 男女の道ならぬ恋を竹内が題材にし始めたのには、この作品群を手掛けたことが大きかったという。 これ以降、竹内はの何気ない日常に焦点を当てた歌や、道ならぬ恋を題材にした曲を数多く世に送り出していった。 これらは高評価を得、竹内の音楽世界のパブリックイメージの一つとして定着する。 1990年代 [ ] (平成7年)11月発売のシングル曲でのキャンペーン用CMソングとして使用された「」では、当時たまたま観ていた系ドラマ『』に触発され、歌詞に「キムタク」のフレーズを入れたことから、・の起用をへ打診したところ、駄目元のチャレンジであったにもかかわらず快諾を得、コーラスと冒頭、間奏の台詞に木村が参加している。 (平成9年)には、人気アイドルが歌手としてデビューするに当たってシングル曲「」を提供し、これもヒットした。 眩いほどの希望に溢れた少女の心情を爽やかに謳った曲で、先述した大人の道ならぬ恋の歌を生み出す竹内の振り幅の大きさを改めて示す作品になった。 全体的には、1990年代の竹内は、縁故のあるミュージシャンのライブにサプライズゲストとして登場し、洋楽カバーを数曲ばかり歌うことはあっても 、表立った音楽活動を再開したりはしなかった。 2000年代 [ ] (平成12年)7月、約18年ぶりの本格的なライブを東京(11日、12日)と大阪(31日)で行う。 (平成16年)には山下のシングル「忘れないで」の作詞を担当など、音楽活動を着実に増やし続けていた。 (平成18年)になると、子育てが一段落したことにより、新譜リリースを精力的に行うようになる。 この頃(50歳ごろ)からは、歌手として曲を提供されて歌っていた当時のことも思い出して、他人の作った曲も積極的に歌ってゆこう考えるようになった。 (平成19年)には、6年ぶりの『』を発表した。 この作品でもオリコンチャート第1位を獲得し、健在ぶりを証明してみせた。 同年8月に発売したシングル「」には、のがゲストボーカルとして参加している。 続く(平成20年)5月のシングル「」では 、この曲が主題歌となった系ドラマ『』の主演女優・が竹内たっての希望でコーラスに参加し、にも出演した。 デビュー30年を迎えるこの年の9月には、竹内の曲のみで構成された『』が主演で初演された。 また、竹内の故郷である島根県を舞台とした『』がから放送開始されたが、「」とを竹内が担当し、また、を務めた(三倉茉奈と三倉佳奈)には劇中歌「」を提供している。 同には、今までの発表曲を集大成したCD3枚組(初回のみボーナスディスク入りの4枚組)のベストアルバム『』が発売された。 このベストアルバムの選曲にあたり、公式サイトで楽曲のファン投票を行い、NHK『』1周年記念特別番組にて発表している。 には、東京国際フォーラムで開かれた作・編曲家 の活動35周年記念のコンサートにサプライズゲストとして登場し、林が手がけた「September」「象牙海岸」の2曲を生披露した。 、で開かれた夫・山下達郎のフェスティバルホール最後の公演に、「私もフェスティバルホールにさよならをさせて欲しい」との意向でアンコールのサプライズゲストとして出演し、「人生の扉」「September」を披露したのに加えて、ダブルアンコールでは山下とのデュエットで「」を披露した。 (平成21年)、山下のコンサートツアー東京最終公演(追加公演を除く)にあたる中野サンプラザホールの公演にも、アンコールのサプライズゲストとして出演し、「September」を披露したうえで残り2曲のコーラス隊にも参加した。 2010年代前半 [ ] (平成22年)に北海道で行われた野外フェス『 2010 in EZO』に山下が出演した際、バックコーラスの一人として全曲に参加。 同年、10年ぶりの本格的なライブである『souvenir again』()の初日にピアノ弾き語りで「」を披露した。 これは『』において主題的な意味を持つ重要な曲で、「作詞 Miyabi、作曲 」ということになっているのであるが、実は「Miyabi」は竹内のであるということをその場で明かした。 (平成24年)、結婚30周年(真珠婚)を迎えた。 同年9月2日、『』に山下が出演した際、スペシャルゲストとして登場し、「家に帰ろう(マイ・スイート・ホーム)」「元気を出して」を披露した。 (平成25年)には出身地のからの依頼を受け、の60年に一度のが斎行されるこの年に、故郷への想いを歌った楽曲『愛しきわが出雲』を書き下ろし、同年8月に提供した。 出雲の市民コーラス隊と共に、地元でレコーディングしたには、デビュー35周年の記念企画として「リンダ」、「」、「」など他のアーティストへの提供楽曲を集めた2枚組『』を発売。 自ら監修・選曲を手がけ、楽曲解説も自ら執筆。 初回限定盤には自身が歌った提供楽曲のデモバージョンなどのレア音源も収録された。 (平成26年)、7月デビュー35周年アニバーサリイヤーを飾るシングル「静かな伝説(レジェンド)」リリース。 竹内自身の発案で桑田佳祐、原由子をコーラスに迎え、山下達郎も加えた4人での楽曲制作が「蒼氓」以来26年ぶりに実現した。 同年9月、7年ぶりのアルバム「TRAD」をリリース。 オリコンチャート2週連続で1位獲得。 第56回日本レコード大賞「最優秀アルバム賞」を受賞した。 また、同年11月から12月にかけて1981年以来33年ぶりに6都市9公演の全国ツアーも行う。 同年11月19日、ムーン移籍後最初のアルバムである『VARIETY』の30周年記念盤をリリース。 2010年代後半 [ ] (平成27年)3月、出雲市から特別功労者として表彰を受ける。 市に楽曲『愛しきわが出雲』を提供するなどしたことで地域への愛着醸成に貢献した功績による受賞であった。 同年5月、第6回を受賞。 (平成27年)2月、嵐のニューシングル「復活LOVE」の作詞を手掛ける。 作曲・編曲は山下達郎。 同年4月、テレビ東京系列経済ニュース番組「ワールドビジネスサテライト」のエンディングテーマを書き下ろす。 2017年3月までの1年間放送。 また、この年には実家の「竹野屋旅館」の経営が寸前にまで悪化し、地元で親族会議が毎週のように開かれる事態になり、達郎・まりや夫婦も参加していた。 旅館は親族一同からの経済支援を受けて存続する運びとなり、同年8月、大掛かりな改装が始まった。 改装費用のほとんどをまりやが買って出ることでそれは実現した。 そして、この時点でまりや(実名:山下まりや)が事実上のオーナーになった。 この件については参照。 (平成28年)7月15日には第三者の手でにの曲「」がされ、作品リリースの無い海外でも視聴され始める。 同年11月22日には『REQUEST』の30周年記念盤をリリースしている。 (平成29年)、デビュー40周年を迎える。 この年、上述した「プラスティック・ラブ」の動画再生回数が2400万回以上という驚異的な伸びを見せ、大きな話題となった。 それがこのブームの本流の動きであった。 往時の竹内まりやはシティーポップの第一人者というわけではなかったが、2017年発のブームの下では係る音楽ジャンルを代表する楽曲および人物と捉えられるまでになった。 火付け役となったYouTubeには数多くのシティーポップ集がアップロードされるが、「プラスティック・ラブ」と竹内まりやはその種のでは定番中の定番となった。 詳細は「」を参照 同年には、デビュー40周年を記念してシングル「小さな願い/今を生きよう」をリリースし、には初のファンミーティングを開催している。 からはデビューアルバム『BEGINNING』の40周年記念リマスター盤が発売されたことを皮切りに、RCA/RVC時代のカタログが最新リマスターとボーナストラック付きで順次発売された。 (平成31年)3月、(大衆芸能部門)を受賞。 39年ぶりにNHKスタジオにて歌唱。 映画『』(監督)にて日本版エンディングソング『ベイビー・マイン』を歌唱。 同年5月、「関ジャム完全燃SHOW(テレビ朝日系列)にて竹内まりや特集がオンエア。 同2019年(令和元年)9月、40周年記念アルバム『Turntable』をリリース。 オリコンチャート1位を記録し、これにより「昭和・平成・令和3時代で1位を獲得した初の女性アーティスト」となると同時に、「女性最年長1位獲得アーティスト」(64歳6ヶ月)となった。 10月、映画「最高の人生の見つけ方」(犬童一心監督・吉永小百合・天海祐希共演)主題歌「旅のつづき」を書き下ろし、シングル・リリースする。 11月、『第61回輝く! 日本レコード大賞』にて「特別賞」を受賞。 2020年代 [ ] (令和2年)1月1日発売の「いのちの歌」(スペシャル・エディション)が13日付オリコン週間シングルランキングで第1位獲得。 64歳10か月での1位獲得は歴代最年長記録となった。 これにより、「カムフラージュ」以来21年1か月ぶりの1位インターバル記録を樹立した。 公演は3番目のとして出演。 約1時間半の公演時間で14曲を歌唱した。 山下達郎もバックメンバーとして参加し 、最後には二人のデュエット曲「」も披露している。 この模様は『Souvenir〜Mariya Takeuchi Live』としてアルバム化された。 これ以降も、(平成19年)10月13日に開催された、などが出演した野外ライブ『風に吹かれて』で、シークレットゲストとしてサプライズ登場し、「」を、などの出演者とともに披露し 、また、長年の音楽仲間であるセンチメンタル・シティ・ロマンスのコンサートのサプライズゲストで持ち歌を披露するなど、必ずしもライブに否定的ではなく、竹内本人も(平成21年)以降のライブ活動に対して意欲を見せていた。 また、同2008年12月5日に厚木市民文化会館で行われた夫・山下達郎のコンサートで、「まりやのコンサートもこのメンバーでやる」との山下の発言があり、ライブへの本格復帰が期待されていたが、その年に実現することは無かった。 その後、(平成22年)8月29日にゲスト出演したラジオ番組『』と公式サイトにおいて、12月3日・4日の日本武道館と12月21日・22日の大阪城ホールで、10年ぶりの本格的ライブである『souvenir again』を行うと発表した。 このコンサートのライブ音源の一部は前述した番組の(平成23年)2月27日放送回で「夫婦放談番外編」として披露されている。 (平成26年)には、11月22日から12月21日にかけて、33年ぶりとなる全国ツアー『souvenir 2014』を全国6都市で9公演を行った。 (平成30年)には、デビュー40周年を記念して過去3度に亘って開催されたコンサートの模様を『souvenir the movie~Mariya Takeuchi Theater Live~』と題し、の配給で映画館上映された。 2018年11月23日公開。 上映時間 94分。 好評を博したことにより、(平成31年)5月17日から2週間、全国8都市・8劇場でアンコール上映された。 加えて、同作品は内容などが評価され、平成30年度(第69回)芸術選奨 (大衆芸能部門)を受賞した。 また、アンコール上映の際は、2012年に公開されて話題を呼んだ山下達郎の『山下達郎シアター・ライヴ PERFORMANCE 1984-2012』も同時アンコール上映された。 (共演:)、(共演:松たか子、コブクロ、、)を披露した。 ゲスト出演 作曲家35周年記念 スペシャルサンクスコンサート ~Hit Song File 1か所、1公演 林哲司の記念コンサートに、シークレットゲストとして出演。 林が作曲した、を披露した。 2008年 - ゲスト出演 山下達郎 PERFORMANCE 2008-2009 2か所、2公演 2008年 2009年 山下達郎のフェスティバルホール解体前の最終公演に「私も、フェスティバルホールに、さよならを言わせて欲しい」との意向で、アンコールにゲスト出演。 、、ダブルアンコールでは、山下と共にを披露した。 またツアー最終公演となる中野公演では、アンコールにを披露した。 ジョイントライブ 1か所、2公演 ・ 日本武道館 10月31日に出演することが発表され、「元気を出して」、「人生の扉」を披露。 30日は山下達郎とサプライズ出演し、「レット・イット・ビー・ミー」を披露した。 ゲスト出演 山下達郎 PERFORMANCE 2013 1か所、1公演 中野サンプラザ 山下達郎のライブアンコールに、サプライズ出演。 山下と共に「レット・イット・ビー・ミー」を披露した。 ゲスト出演 SPACE SHOWER TV 25TH ANNIVERSARY SPACE SHOWER SWEET LOVE SHOWER 2014 1か所、1公演 山中湖交流プラザきらら 山下達郎が出演した夏フェス「SWEET LOVE SHOWER 2014」に、サプライズ出演し、「プラスティック・ラブ」を披露した。 ファンミーティング MARIYA TAKEUCHI ファンミーティング(プレミアム・ミニライブ&トーク) 2か所、3公演 竹内まりやデビュー40周年を記念し、シングル「」と、シアターライブ「souvenir the movie 〜 MARIYA TAKEUCHI Theater Live〜」のムビチケカードの両方を購入した応募者の中から、抽選で2,500人を招待した初のファンミーティング。 人物 [ ] 曲作り [ ] (平成26年)におけるの「竹内まりや スペシャルサイト」では、の際はまたはを使う と言っている。 しかし、実際のところ、ピアノはほとんど使わない らしい。 夫・は自宅の地下に専用の音楽室を持っていて、そこで曲作りをするが、まりやにはそういったものは無く、大抵はダイニングテーブルの上でミニキーボードを使って曲作りをする。 シングル曲「」を書いたときは、まだ娘がだったので、寝かしつけた後で起こさないよう辺りへ移動しては小さな音で作っていたが、すぐに目を醒ましてしまうので、行ったり来たりを繰り返していたという。 しかし、曲が書けなくなるとや業に逃げ、子育てや主婦業で煮詰まると曲作りに逃げることができたため、上手くバランスが取れていて楽しかったと振り返る。 ファンがもどかしく感じるくらい新作アルバムの発表が遅いのは、アルバムと収録曲のと()を全て達郎が担当しているため、コンサートツアーやアルバム製作など自身の音楽活動に忙しい彼の体が空いたタイミングを見計らって「そろそろこれやりたいんですけど」と言ってを渡し、1曲ずつレコーディングすることになる都合上(しかも、途中でツアーなどが始まって中断することもある)、アルバム分の曲数が溜まるのに何年もかかるからだという。 シンガーソング専業主婦 [ ] 「シンガーソング」とも呼ばれる ようになったのは、夫の山下達郎がそのように名付けたからで、業をこなしつつ在宅のまま音楽活動を続けていたことによる。 竹内は在宅のままでの主婦と音楽活動の兼業によって「作家的視点が養われた」と語っている。 影響を受けた音楽 [ ] 音楽的な原点は、のやなどの欧米ポップスの作品を、や、など日本人歌手が訳詞して歌っていたである。 しかし、何と言っても人生で最も大きな影響を受けたのはであった。 (昭和59年)発売のアルバム『』( のちの別表記:ヴァラエティ)の収録曲でもされた「」は、彼らへの想いを表したソングになっており、少女だったあの頃は話している言葉も分からないのに夢中で追いかけていたと謳っている。 また、大学時代には、などのシンガーソングライター、、、などを好んで聴いていた。 ライブをやらない理由 [ ] をやらない理由については、基本的に「子育てや家庭を優先するため」と語っており、夫・山下達郎から制限を受けていたり、遠慮・気遣いがあってのことではないと明言している。 実際、子育てが落ち着いた(平成12年)以降には、「souvenir」(2000年、 東京・大阪)、「souvenir again」(、 東京・大阪)、「souvenir 2014」(、 東京・大阪・札幌・仙台・広島・福岡)と銘打ったライブを行っている。 とは言え、(平成25年)のインタビューでは、で歌うよりもで緻密に音楽作りをするほうが好きだと述べている。 アイドル的活動 [ ] (昭和55年)、山下達郎とまだ出逢っていない頃(あるいは、まだ密に逢うようにはなっていない頃)の竹内は、不本意な的活動を強いられてを募らせる日々を送っていた。 が引退し、とはデビューしたばかりという、この頃はわずかに生まれた隙間のようにアイドルが不在の時期で、竹内は自分と同じような境遇に置かれた歌手としてと越美晴(のちの)を挙げている。 なお、歌手としての竹内まりやを高く評価し、彼女がアイドル扱いされているのを批判的に見ているファンも、当時から既にいるにはいた。 (昭和54年)放送の(スポーツ)『第16回 』に 所属事務所RCAの代表 として駆り出された時は、出るからには精いっぱい頑張ってで第2位になったものの 、帰宅して冷静になってからで振り返っていると、「一日何も歌わせてもらえずに私は何をしていたんだろう」と酷く悲しい気持ちになった。 また、1980年7月21日に発売される5作目のシングル曲「二人のバカンス」を歌う予定でのバラエティ番組『』に出演した竹内は、大口コンテストというコーナーで天突き棒を使って一般人男性の口の中に大量のを押し出す役を急遽させられる。 男の子達の口の中にところてんを流し込みながら、「私の人生、こんなことでいいのだろうか。 」という疑問が湧いてきたという。 そのようなことを何度も経験していた。 やや冗談めかしてではあるが、この頃の思いがになっていて、何十年経ってもバラエティ番組には出演できないと語る。 後述してもいるが、音楽界の頼れる先輩であった達郎にもこの件でよく相談に乗ってもらっていた。 達郎もその先に君が望むような未来は無いと言っていた。 そういうこともあって、まりやはへの出演を段階的に減らしていったが、完全に踏ん切りを付けることはできないで活動し続けていたところ、遂に体調を崩して入院する事態に陥った。 結局、倒れたのを機に考えを切り替え、まりやは一旦芸能活動をリセットした。 そうして、結婚相手と決めた達郎の伴侶であることを第一とし 、楽曲は提供する側に回ることになっていった。 つまり、ここから「」へと道を切り拓いていった。 楽曲を提供する側になったまりやにとっては、アイドル的活動を通して経験した悲喜こもごもは大きな財産になった。 作曲者・竹内まりやにはアイドル達への深いシンパシーがあり、それが数々のヒット曲をアイドル歌手達に提供できる素地になっている。 達郎とのこと [ ] 第一印象は互いに良くなかったという。 達郎はまりやのことを、何だかちゃらちゃらした軽薄な女子大生みたいだと思ったらしい。 まりやはまりやで、達郎の無愛想な態度を冷たく感じたという。 その出逢いというのは、よく言われている1980年ではなく、もっと以前かも知れない。 それと言うのも、結婚したのは「出逢ってから7、8年後」だと竹内本人が言っている からで、出逢いが1980年では結婚まで2年しか時間が無いのである。 竹内が言った「出逢い」は、アマチュア時代にファンとしてコンサートを観に行っただけのことを指してはいないであろうから、どこかの局面で早くに顔を合わせていたということかも知れない。 それはともかくとして、仕事上の密な付き合いは、(昭和54年)の下半期か、遅くとも(昭和55年)の前期前半に始まっている。 互いに話してみると第一印象とは違って、考え方がよく理解でき、フィーリングがよく合うと気付いた二人であった。 当初、まりやにとっての達郎は、音楽を音楽としてやっていきたいのにやらせてもらえない自分がこれからどうしたらいいのか相談したい、そのような頼り甲斐のあるであった。 また、仕事と音楽に対する誠実さを知ることで、特別な存在へと変わっていった。 具体的には、周りからは技術的に無理だと言われていた新曲用のに、忙しい仕事の合間を縫ってひとり徹夜で取り組んでくれていたのを見たときが、気持ちの切り替わった瞬間だったという。 の『』の1980年放送回にシングル曲「二人のバカンス」で出演した竹内は、歌唱後に司会のとに詰め寄られた。 既に双方の親に報告していたし、隠す必要も無かったので、「(噂どおり、山下達郎さんと)お付き合いしています」と答え、交際宣言をした。 結婚に際して達郎からのの言葉は「結婚しようか」の一言くらいで、特別なことは無かったという。 まりやは夫のことを表立っては「 達郎」と呼んでいる。 ほかに、砕けた場面では「 たっつぁん(達っつぁん)」と呼ぶことも多い。 これは、が(昭和55年)4月発売のシングル曲「リンダ」を製作していた時に呼び始めたもので、それを気に入ってまりやも使いだしたのが始まりであった。 『』「納涼夫婦放談 Part2」(SSB 1401。 2019年〈令和元年〉8月25日放送)で夫婦共演した際、達郎は「周りに人が多いと『たっつぁん』になる」と分析してみせたが、まりやは特に法則は無いと答えた。 もっとも、家での呼び名は全然違っていて、それは秘密だと言う。 少なくとも「たっちー」ではない とのこと。 まりやの楽曲で達郎が一番好きなのは「」であるという。 家にいる時の達郎とまりやは、音楽のことや雑多な日々の事柄などを一日中話している。 達郎がを飲まない人なので、山下家では大体を飲んでいる。 家族 [ ] (平成25年)ので語ったところによれば、夫・山下達郎と娘と、ずっと3人で暮らしている。 それと、を1匹飼っている(2013年頃は)。 娘は、中学・高校ではに入って音楽活動をしていたが、社会人になってからはあくまで趣味として楽しんでいて、それに、音楽よりのほうが好きだという。 娘が小学生・中学生の頃は活動も普通にやっており、山下達郎・竹内まりや夫妻と・夫妻が出揃う場面もよくあったという。 まりや [ ] まりやが子供の頃、当時としては極めて珍しい名前であった。 芸能界に入った時も同じで、変な名前だと言われた。 しかし、竹内まりやが人気のある著名人になったことで「まりや」と名付けられる子供が増え、それほど珍しくない名前になっていったといわれている。 下の世代での「まりや」の例として、竹内まりやは「」「」「」の3名を挙げている。 なかでも山田まりやは、父親だったか母親だったかが自分・竹内まりやのファンであったことから命名されているのだと説明した。 竹野屋 [ ] 「」は竹野屋の当主が代々してきたで、まりやの父親は「四代目当主」として「四代目竹内繁蔵」を名乗った。 を15年に亘って務めた人物でもある。 (昭和26年)からはまりやの兄である長男・が後を継いだが 、接客業に全く向かないこの五代目の下で旅館の質も評判も低下し、経営は傾いていった。 (平成29年)2月には 、まりやの長姉の娘婿・が 新社長にしている。 ただし、前年に廃業案と売却案が取り沙汰される事態となり、親族の経済支援で何とか持ち堪えたというのが実際で 、特にまりやは施設改装費用のほとんどを請け負った。 それによって事実上のになったまりやは、しばらくは経営に直接関わらざるを得ず、忙殺されて音楽活動に全く携われなくなっていた。 さらには同年10月、旅館は総・ と宿泊支配人を外部から迎え 、これと入れ替わる形で前社長は辞任・退社した。 新体制が整うのを見届けて、まりやはようやく仕事に復帰することができた。 当該記事「竹内繁蔵」の「」以降では、まりやがそこまでして実家を支援した理由や、山下達郎と所属事務所社長・の反応なども含め、詳しく解説している。 1~フィーチャーリング・フィメール・ヴォーカリスツ」 8分音符の詩(作詞:/作曲:/編曲:) Various Artists「ロフト・セッションズ VOL. 『グランデーヌ ルクサージュ』CMソング たそがれダイアリー テレビ朝日系ドラマ『』主題歌 Dear Angie〜あなたは負けない TBS系『』エンディングテーマ(2013年度 - ) Your Eyes TBS系ドラマ『』主題歌 静かな伝説(レジェンド) フジテレビ系『』エンディングテーマ アロハ式恋愛指南 映画『』主題歌 プラスティック・ラブ 開局15周年記念特別ドラマ『』主題歌 Let It Be Me フジテレビ系ドラマ『』劇中歌 今日の想い 系『(WBS)』エンディングテーマ 小さな願い 映画『』主題歌 今を生きよう Seize the Day NHK『』主題歌 旅のつづき 映画『』主題歌 受賞歴 [ ]• 1998年(平成10年) - 第19回 主題歌賞(『カムフラージュ』、ドラマ『』主題歌)• 2015年(平成27年)• 第7回CDショップ大賞「マエストロ賞」• 特別功労者として出雲市より表彰• 第6回岩谷時子賞• 第69回芸術選奨 文部科学大臣賞(大衆芸能部門• 「みんなのハッピーバースデイ」• 「」(作詞のみ)• アンジュネッツ「LOVE GAME」• 「パジャマ・パーティ」• ・・「うわさのSUPER GIRL」(作詞のみ)• 「恋人たち」• 愛しきわが出雲市民合唱団、岩谷ホタル『愛しきわが出雲』• 「My Darling」(作曲のみ)• KINYA「涙のデイト」「夏の記憶」• 「Sweet Rain」「Heart Beat」• 「イブの告白」(作詞のみ)• 「目抜き通りの6月」(作詞のみ)• JIVE「Smile Again」(作曲のみ)• 「僕達の日々」(作詞のみ)• 「Guilty」(作詞のみ)「Misty Mauve」(作詞のみ)• 「」(日本語詞)• 「今夜だけナルシスト」(作詞のみ)• 「You&I」(作詞のみ)• 「浮気なルナ」• 「」「新しい朝」• 「」「公園通りの日曜日」「遥か1000マイルの彼方」(作詞のみ)• 「らせん階段」「55ページの悲しみ」• 「Subject: さようなら」• 「5月生まれ」「AFTER SCHOOL」• 「Whisky Boy」(作詞のみ)「想いは風に」(補作詞)「幻影(イリュージョン)」(作詞のみ)「ニコニコ・ワイン」(作詞のみ)「SEE YOU AGAIN」(作詞のみ)• 「月夜のタンゴ」(作詞のみ)「残り香」(作詞のみ)• 「寒い夏」(作詞のみ)「Mighty Smile(魔法の微笑み)」(作詞のみ)「忘れないで」(作詞のみ) メディア出演 [ ] デビュー直後は多くの音楽番組へ出演したが、1981年に活動を一時休止した後はメディア露出が非常に少ない。 ただ夫のと異なり、テレビ番組やでは顔を見せている。 ラジオ [ ]• 『Pom Pop White Pop』(文化放送• 『竹内まりやのおしゃれフロック』(文化放送:1981年まで約1年間)平日深夜24時代に帯番組で放送。 『』(系列):毎年8月・12月の後半に2週連続で出演。 「夫婦放談」と称し、夫婦ならではの喋りを披露している。 現時点で唯一のレギュラー出演番組といえる。 テレビ [ ]• 『』(1978年12月11日・1979年9月3日・1980年1月28日・3月3日・ ・1980年9月1日・1980年12月8日、)• 『』(1979年1月22日、)• 『』(1979年2月22日・1979年9月6日・11月29日・1980年3月27日、)• 『』(1979年6月17日・11月11日・1980年3月9日、NHK総合)• 『』(1979年9月3日、)• 『』(1979年9月25日、)• 『』(1979年10月8日)• 『』(1979年10月11日)• 『』(1979年10月24日)• 『第10回』(1979年11月23日、)• 『』(1979年11月29日、フジテレビ)• 『第8回』(1979年12月18日、フジテレビ)• 『』(1979年12月26日、NHK総合)• 『』(1979年12月31日、TBS)• 『スーパージャム'79-'80』(1979年12月31日、フジテレビ)• 『』(1980年3月20日 - 5月15日・1989年9月28日(電話の声のみ出演)、TBS)• 『なつかしのヒットポップス』(1980年6月7日、NHK総合)• 『』(1980年10月4日 - 1981年3月27日、フジテレビ) - と司会を担当。 『』(1980年6月17日・1980年9月16日・1981年2月17日・1981年10月15日・2019年8月17日、フジテレビ) - ・・・・と共演。 『』(1981年4月2日、NHK総合)• 『』(1993年12月31日(電話の声のみ出演。 同時にアルバム『』がこの年のベストアルバム賞を受賞し、この日のために制作された「」の歌唱シーンをフルサイズで収録したビデオクリップが放送された。 このビデオクリップがフルサイズで放送されたのは、この時ただ一度だけである。 『』第1回 ・第42回(2007年4月11日・2008年4月2日、NHK総合)• 『』(2008年6月20日、TBS) - 最終回ゲスト• 『』(2008年9月29日 - 2009年3月28日、NHK総合) - ナレーション• (2019年5月12日、テレビ朝日) - スチール写真のみ出演。 (番組独占インタビューを行い、インタビュー時のスチール写真に合わせて、テレビ朝日アナウンサーのがインタビュー内容を話すという形で出演した。 (2019年12月31日、NHK総合) - 特別企画で初出場 自著 [ ]• 竹内まりや『』、1980年5月1日、192頁。 :、:。 竹内まりや『インプレッションズ』、1994年10月1日、173頁。 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 『』2013年7月10日放送回( cf. 動画検索キーワード[安住紳一郎の日曜天国 2013. 07特別編「竹内まりあさん」])にて、家庭での様子を尋ねられる場面で、から「食事は、竹内まりやさんから?」と話を持ち掛けられ、「(家族といるときは) 山下まりやです」と答えている。 公式ウェブサイトの「ロビー」の項にも「実家」であることが明記されている• グループ化しただけであるため、現存する。 東京都港区元赤坂に所在するミュージック・ハーヴェスト(法人番号:401040106312)とは別の企業。 有限会社ミュージック・ハーヴェストも、山下側の企業「株式会社テンダベリーミュージック Tenderberry Music Inc. 」も、楽曲の管理を主目的とする。 検索キーワード[安住紳一郎の日曜天国 2013. 07特別編「竹内まりあさん」])。 姉が2人、兄が1人(5代目当主の信夫)、弟が1人、末っ子の妹が1人。 まりやは第4子。 竹内まりやの本項におけるは、 保護者がいる年齢では「まりや」を、 親族の話題でも「まりや」を用いることとする。 それ以外は「竹内」を用いる。 同期留学生には、のちに国際となるがいた。 専攻は異なるも同じ文学部の同期生にはでの(歌手・の長男)がいる。 豊和は一時期歌手活動も行っており、竹内とも共演している。 のちにまりやの夫となるは三波春夫のファンで、洋楽の傍ら「」もよく歌っているという。 最終的に大学をするが、その時期については情報未確認である。 『』での「」の曲解説によれば、「本人はあくまでもアンチ派」であるとのこと。 ライブ・アルバム『』に収録されている。 投票結果は『』を参照のこと。 東京都にあるCT102スタジオからの歌唱。 山下はライブ会場としては日本武道館を否定的に捉えているため、自身のライブで使用することはない。 竹内の野外ライブへの出演は27年ぶりのことで、このライブの模様は(平成20年)4月9日の『』にてフルサイズで放送された。 2008年11月27日のNHK『』でのインタビュー。 1999年6月2日再発。 6枚目のアルバム『』からのシングルカットで、リミックスした2曲を収録した12インチ・シングル仕様。 1989年(平成元年)9月10日シングルとしての「夢の続き」は再発売であるが、ミックスとカップリングを変更している。 再発盤のタイトルは「夢の続き '89 Remix 」。 この出演時にとの交際を正式に公表した(参照)。 Googleマップ• 竹内まりや 公式ウェブサイト. 2020年7月8日閲覧。 2020年7月8日閲覧。 公式ウェブサイト. 竹野屋旅館. 2020年7月8日閲覧。 西日本のすてきな宿「高枕」. オフィスガンボ. 2020年7月8日閲覧。 奥には、歌手・竹内まりやの実家のため、グッズコーナーを設けております。 2020年7月10日閲覧。 竹野屋旅館. 2020年7月8日閲覧。 Mapion電話帳. 2020年7月8日閲覧。 Zink Media, Inc.. 2020年7月8日閲覧。 [ ]• on the WEB. 2020年7月10日閲覧。 2020年7月10日閲覧。 公式ウェブサイト. miyearnZZ Labo. 2020年7月14日閲覧。 Smart FLASH. 2019年9月11日. 2020年7月14日閲覧。 Reddit Inc.. 2020年1月21日閲覧。 三波豊和の『こんな話あんな話』 2011年3月2日. 2013年12月24日閲覧。 , pp. 103, 108, 「竹内まりやインタビュー」内. 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