ドリフターズ。 ドリフターズアニメ2期はいつ放送?原作から続編を大胆予想

ドリフターズ(漫画)

ドリフターズ

詳細は「」を参照 1952-11-14 (67歳) 本名: 諏訪園 親治(すわぞの ちかはる)• 元・見習い。 幻のドリフ第六の男。 でのドリフ公演では、すわを含めた6人構成のコントが披露された。 1970年頃、加藤の運転手として採用される。 1972年頃、付き人に昇格。 『(荒井時代の)全員集合』に志村より先に出演し、「奇声を上げながらやたら走りまくったあげく加藤のクシャミでズッコケるブルース・リー」役で笑いを取る。 グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。 結果としては、先輩に当たる志村がドリフに加入することとなった。 その後、正メンバーになることなく1985年に脱退。 いかりやは、メンバー昇格を延ばし延ばしにした結果すわを脱退に追い込んでしまったと悔やみ、その才能を惜しんでいた。 脱退後は、一時サラリーマン生活を送る。 1990年に政治風刺コント集団「」に参加し、中心的な存在となるが脱退。 その後は、ソロライブや松崎菊也、石倉直樹とコント公演「はだかの王様」や主演の音楽劇に出演するなど、地道ながら精力的に活動を続けている。 2001年での『』にドリフターズが出演した際、ゴーウェストの曲目の際に「馬」の扮装でコーナー出演(本名の諏訪園親治名義での出演)。 伏線は後述する「主な出演番組」の項目の「飛べ! 孫悟空」を参照。 いかりやの葬儀のときには、残された4人の現メンバーとともにいかりやの棺を運んでいた。 前期バンド時代のメンバー ドリフターズは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。 (1931年1月3日 - 2019年2月11日)(88歳没) 初代リーダー。 ギター担当。 元・東京ウエスタンボーイスの出身。 1959年の春頃に脱退。 1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。 1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り脱退して渡辺プロマネージャーとなる。 その後「」社長を歴任したが第一プロは2017年9月に業績の悪化と岸部の高齢化もあり解散。 (MPA)副会長、の名誉理事を兼任。 2019年2月11日、肺ガンにより死去。 大野義夫(1931年9月9日 - )(88歳) 結成当時のメンバーで、元・マウンテンボーイズの出身。 1957年2月に脱退。 現在も芸能活動をしているが、メディアへの露出は殆どなく、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度。 結成当時の元メンバーで現在もシンガーもしくは器楽奏者として音楽関係に携わっていることが判明している唯一の人物である。 やとの親交が深く、元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中ではと親交がある。 (1939年2月22日 - 2011年1月5日)(71歳没) ボーカル担当。 1957年11月脱退。 ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。 、と並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。 実父はでの。 本人はコメディの分野には進んでいないが、『』に 1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。 2011年1月5日、胆管ガンによる腎不全のため死去。 吉田博久 結成当時のメンバー。 1959年の末に脱退。 鈴木修 結成当時のメンバー。 ベース担当。 1959年の末に脱退。 (1931年1月- )(88歳) 2代目リーダー。 ギター、ボーカル担当。 1965年の夏頃に脱退。 1959年の末に岸部リーダー時のメンバーが小野以外全員脱退した後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木、高橋一を誘って4人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。 ドリフをロカビリーからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘッドハンティング。 一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木・仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)。 1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年にドリフの管理を渡辺プロダクションへ譲渡して脱退。 系バラエティ番組『』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。 (1941年8月23日 - 1985年9月19日)(44歳没) ボーカル担当。 1959年11月に脱退。 、と並んで「三人ひろし」と呼ばれる歌手。 山下の脱退後、ドリフのバンドボーイから昇格。 長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。 映画「青春を賭けろ」にも出演。 代表曲は「雨に咲く花」。 ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが、急性心筋梗塞のため44歳という若さで死去。 (1941年12月10日 - 1985年8月12日)(44歳没) ボーカル・ギター担当。 1958年11月脱退。 雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズのボーヤとして加入し8月に正メンバーとなってボーカルをやっていた。 同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月にに移籍の形で脱退。 「8時だョ! 全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。 1985年にに遭い死去。 (1940年2月11日 - 2012年6月28日)(72歳没) 元・正メンバー(1959年 - 1964年)。 コンガ、ボーカル担当。 1964年の秋に脱退。 井上ひろしとザ・ドリフターズの最末期に加入。 加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。 1964年の夏にいかりやと対立してドリフを脱退。 後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。 小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだったことを知っている者は少ない。 脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にを結成。 1970年よりソロ活動となり、バラエティー番組で活躍。 ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。 2012年、腎盂ガンのため都内の病院で死去。 ポン青木 1960年に桜井輝夫とザ・ドリフターズにメンバー入り。 1962年に脱退。 いかりやがドリフに加入して暫くの後にスクラップサウンズに移籍の形で脱退。 いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。 脱退原因は不明で 、脱退後は1970年代にはのマネージャーを務めていた が、白血病により40代の若さで他界した。 高橋一 桜井輝夫に誘われてポン青木とともにメンバー入りし、解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当楽器やいつごろ脱退したのかなどの詳細については資料がなく不明である。 田中良夫 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。 テナー・サックス担当。 1962年に脱退。 加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発して脱退。 三好明 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。 ピアノ担当。 1962年に脱退。 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発して脱退。 小山威 エレキギター担当。 1964年の末に脱退。 彼が脱退する代わりのギターが仲本となる。 いかりやが正式なリーダーとなって音楽コント色が強まったこと及び体調不良により脱退。 高松秀晴(1942年3月16日 - )(77歳) 正式なメンバーではなく専属シンガー。 1960年5月、(ドリフターズの初代リーダーとされるが現在社長を務める芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。 桜井輝夫とザ・ドリフターズにボーカルがいなかったことから抜擢され1960年〜1962年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。 高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得たほどの実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可が得られなかったため、実際には出場していない)。 現在の動向は不明。 (1946年7月11日 - 、本名 池田鞠子)(73歳) 正式なメンバーではなく専属シンガー。 しかし、高木の証言によれば元メンバー。 本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。 1961年〜1962年の初頭頃、専属シンガーだった。 彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。 ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )(83歳) ギター担当。 1964年の秋に脱退。 元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われて1962年にドリフ入り。 しかし、そのいかりやのワンマンぶりに愛想を尽かし、1964年に小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退し、ドンキーカルテットを結成。 現在は芸能界の他、催眠術師として、執筆活動や催眠法のクリニックなどで活躍している。 大野義夫と親交があり、2017年2月22日に高木ブーや大野義夫らが出演するライブのMCを行う。 飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日)(62歳没) 担当。 1964年の秋に脱退。 小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退。 ドンキーカルテットを結成するがこちらも結成後に暫くして脱退。 後に11PMの水曜日のレポーターとして活躍。 元々カントリー&ウェスタンに精通しており、本人はドリフやドンキーの音楽コントには向いていない感じで存在感を出すことにとても苦労したとのこと。 2003年に死去。 猪熊虎五郎(1932年- 2001年11月4日)(69歳没) キーボード担当。 1964年の秋に脱退。 長身で眼鏡が特徴。 ドンキーカルテットに移籍。 ドンキーのメンバーでは最後にドリフに加入。 後に声優もこなしたが、後に芸能界から引退。 2001年に死去。 関係者 ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされた経験のあるを紹介する。 (1932年9月10日 - 1995年3月19日)(62歳没) 『全員集合』が開始された頃に、山田から演技指導を受けていた事があり、それが縁で『』の収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演したという。 また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。 山田の追悼本においてが、『ルパン三世』のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。 (1948年1月7日 - )(71歳) 1964年の16歳の時ジャズ喫茶へ入り浸っておりそこで知り合ったのが桜井輝夫とドリフターズ。 知り合った縁からなし崩し的に約1年間付き人に近いことをやっていた。 その際、当時ドリフターズのリーダーである桜井にジャズ喫茶のオーディションを紹介されて応募し、「僕のマシュマロちゃん」という曲を歌って見事に優勝を果たす。 その後は作曲家の和田香苗の門下生となりドリフの付け人からは離れた。 (いやま淳) 1945年 - 74歳 元付き人。 1972年に志村が結成したの最初の相方。 志村と共に冠番組の『』に出演していた。 また1969年、ドリフの映画『ドリフターズですよ! 全員突撃』にガードマン役として出演。 やや強引な売り込みが祟ってのネタ切れによる人気低迷で『ぎんぎら! ボンボン! 』のリニューアル番組『』が打ち切りになった後、志村の才能を目の当たりにしているうちに自信を失った事もあって失踪し、解雇処分となってそのまま芸能界を引退。 2019年7月31日放送の『』で、芸能界を去った後は様々な職を転々とした事と現在は交通安全指導員をやっている事が明らかにされ、この番組で志村は約50年ぶりにかつての相方の姿を確認した。 福田正夫 元付き人。 志村が結成したマックボンボンの井山失踪後の相方。 自衛隊出身であり、「自分は芸能界でなくてもやっていける」と強気でコンビ結成後の練習に身が入らず、芸能界を引退。 マックボンボンは自然消滅的な形で解散の道を辿る。 (1956年2月26日 - )(63歳) は、デビュー当時コミックバンドと思われていた。 いかりやは桑田に目を付け、TBSプロデューサー居作昌果を通して高木が辞めそうになった時に桑田にドリフ加入を打診していた。 後にサザンで出した曲「」のジャケットでは加藤茶を真似たハゲヅラを被った格好で、ライブでその曲を歌う時はその格好をすることが多い。 サザンのデビュー曲「」の名前は、1977年9月に志村がギャグで使用していた。 (いづくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)(71歳没) 元TBSテレビプロデューサーで、独立後テレビ制作会社「」を設立、同社の代表取締役社長を務めた。 『』や前枠番組の『』、『』をプロデュースした。 (1935年9月9日 - )(84歳) ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。 いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、「影のドリフメンバー」と呼んでいたほどドリフに貢献した人物。 現在ドリフの所属するプロダクション「」。 (1935年4月19日 - 2006年3月2日)(70歳没) 元TBSテレビプロデューサーで、作家・演出家。 演出面でいかりやのコントに感心し、いかりやの弟子となった。 荒井の芸能界復帰に力を尽くした。 『』や『』、『』、『』などののプロデュース・演出を手掛けたことで知られる。 (1943年5月24日 - 2016年10月16日)(73歳没 音楽面のブレーン的存在。 ドリフ及び志村の冠番組の大半で作曲を担当。 『全員集合』の少年少女合唱隊コーナーではピアノ伴奏者として出演もしていた。 ( - 2016年6月5日)(73歳没) 全員集合のコントの仕掛けを作っていた美術スタッフ。 後に番組の回顧として『8時だョ! 来日公演の際にドリフが前座をつとめた。 演奏曲は「」。 当時テレビでドリフの演奏が見られることはなかったが、近年になり日本テレビ『』にいかりや、加藤、高木らがそれぞれ出演した際にその一部が放映された。 ( - )(67歳) コメディアン、放送作家。 自身が司会を務めた『小柳ルミ子ショー』にマックボンボンがコントで出演していた。 いかりややドリフのマネージャーから、マックボンボンやドリフのメンバー候補に挙げられた事がある(自身のブログの記事 より )。 (7月10日 - )(41歳) いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。 そのときの父・のコメントは「力をつけてもらわないと…」だった。 いかりやとは「」枠で放送されたドラマ(『』など〉や映画『』で共演している。 ドリフと同じイザワオフィス所属。 (5月29日 - 11月30日)(82歳没) ドリフが歌唱するときにバックで演奏していた豊岡豊とスイング・フェイスのリーダー。 加藤茶の証言によると、荒井注脱退時にいかりや長介が後釜としてメンバー入りさせようと検討していた(最終的に加藤の推薦により志村けんが加入することとなった)。 シングル「ドリフのツーレロ節」のみ。 『』1999年10月6日号(No. 430)、60頁。 ただし、『8時だョ! 全員集合』の前半コント冒頭で「オイッス! 」をしなかった観客に対していかりやがツッコミを入れることはあった。 また『ドリフのドパンチ! 学園』は視聴者参加番組であり、番組の性質上、コント中にドリフと素人の絡みも見られた。 高木ブー『第5の男』p. 100-101• web. archive. org 2020年3月30日. 2020年3月31日閲覧。 ただしこれは本人の意志ではなく、復帰作となった『』を手掛けたが荒井のカムバックを執拗に要求して引かなかったための止むを得ない措置であったと久世とTBS時代の同僚で『8時だョ! 全員集合』プロデューサーだったが著書『8時だョ! 全員集合伝説』で述懐している。 に扮していた。 高木ブー『第5の男』p. 99-101• AERA. dot2018. 21 2019. 11access• 「朝日年鑑1986」p. 331。 これによると、いかりやが『全員集合』終了後の活動を個別に行うコメントを出したことで「実質的な解散」としている。 この頃、ドリフターズとして出演していたのは『ドリフ大爆笑』だけだったが、この時期からの同番組はそれぞれ個々のスケジュールの合間に個別に撮影してひとつの番組として放送していて、オープニング映像も1983年に撮影されたものをずっと使用している為、余計に5人が揃う事は無くなっていた。 1994年辺りから5人揃ってのコントが復活したりして5人での出演が増えている。 サンケイスポーツ. 2017年3月5日. 2017年3月5日閲覧。 お笑いナタリー. 2017年3月14日. 2017年3月15日閲覧。 「ドリフの全員集合のテーマ(北海盆唄)」「誰かさんと誰かさん」「ドリフのズンドコ節」「志村けんの全員集合 東村山音頭」「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「ドリフのビバノン音頭」のメドレー。 後に作曲:とされる• 平尾のオリジナル・バージョンでは「作詞・作曲:平尾昌章、補作詞:、補作曲:津々美洋」とクレジットされている。 j-lyric. net• ジャケット記載ママ。 説明を参照。 補作詞:いかりや長介となっているが、補作であるのは口伝され続けているも歌詞に含まれていることからである。

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ザ・ドリフターズ

ドリフターズ

詳細は「」を参照 1952-11-14 (67歳) 本名: 諏訪園 親治(すわぞの ちかはる)• 元・見習い。 幻のドリフ第六の男。 でのドリフ公演では、すわを含めた6人構成のコントが披露された。 1970年頃、加藤の運転手として採用される。 1972年頃、付き人に昇格。 『(荒井時代の)全員集合』に志村より先に出演し、「奇声を上げながらやたら走りまくったあげく加藤のクシャミでズッコケるブルース・リー」役で笑いを取る。 グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。 結果としては、先輩に当たる志村がドリフに加入することとなった。 その後、正メンバーになることなく1985年に脱退。 いかりやは、メンバー昇格を延ばし延ばしにした結果すわを脱退に追い込んでしまったと悔やみ、その才能を惜しんでいた。 脱退後は、一時サラリーマン生活を送る。 1990年に政治風刺コント集団「」に参加し、中心的な存在となるが脱退。 その後は、ソロライブや松崎菊也、石倉直樹とコント公演「はだかの王様」や主演の音楽劇に出演するなど、地道ながら精力的に活動を続けている。 2001年での『』にドリフターズが出演した際、ゴーウェストの曲目の際に「馬」の扮装でコーナー出演(本名の諏訪園親治名義での出演)。 伏線は後述する「主な出演番組」の項目の「飛べ! 孫悟空」を参照。 いかりやの葬儀のときには、残された4人の現メンバーとともにいかりやの棺を運んでいた。 前期バンド時代のメンバー ドリフターズは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。 (1931年1月3日 - 2019年2月11日)(88歳没) 初代リーダー。 ギター担当。 元・東京ウエスタンボーイスの出身。 1959年の春頃に脱退。 1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。 1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り脱退して渡辺プロマネージャーとなる。 その後「」社長を歴任したが第一プロは2017年9月に業績の悪化と岸部の高齢化もあり解散。 (MPA)副会長、の名誉理事を兼任。 2019年2月11日、肺ガンにより死去。 大野義夫(1931年9月9日 - )(88歳) 結成当時のメンバーで、元・マウンテンボーイズの出身。 1957年2月に脱退。 現在も芸能活動をしているが、メディアへの露出は殆どなく、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度。 結成当時の元メンバーで現在もシンガーもしくは器楽奏者として音楽関係に携わっていることが判明している唯一の人物である。 やとの親交が深く、元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中ではと親交がある。 (1939年2月22日 - 2011年1月5日)(71歳没) ボーカル担当。 1957年11月脱退。 ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。 、と並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。 実父はでの。 本人はコメディの分野には進んでいないが、『』に 1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。 2011年1月5日、胆管ガンによる腎不全のため死去。 吉田博久 結成当時のメンバー。 1959年の末に脱退。 鈴木修 結成当時のメンバー。 ベース担当。 1959年の末に脱退。 (1931年1月- )(88歳) 2代目リーダー。 ギター、ボーカル担当。 1965年の夏頃に脱退。 1959年の末に岸部リーダー時のメンバーが小野以外全員脱退した後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木、高橋一を誘って4人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。 ドリフをロカビリーからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘッドハンティング。 一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木・仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)。 1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年にドリフの管理を渡辺プロダクションへ譲渡して脱退。 系バラエティ番組『』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。 (1941年8月23日 - 1985年9月19日)(44歳没) ボーカル担当。 1959年11月に脱退。 、と並んで「三人ひろし」と呼ばれる歌手。 山下の脱退後、ドリフのバンドボーイから昇格。 長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。 映画「青春を賭けろ」にも出演。 代表曲は「雨に咲く花」。 ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが、急性心筋梗塞のため44歳という若さで死去。 (1941年12月10日 - 1985年8月12日)(44歳没) ボーカル・ギター担当。 1958年11月脱退。 雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズのボーヤとして加入し8月に正メンバーとなってボーカルをやっていた。 同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月にに移籍の形で脱退。 「8時だョ! 全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。 1985年にに遭い死去。 (1940年2月11日 - 2012年6月28日)(72歳没) 元・正メンバー(1959年 - 1964年)。 コンガ、ボーカル担当。 1964年の秋に脱退。 井上ひろしとザ・ドリフターズの最末期に加入。 加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。 1964年の夏にいかりやと対立してドリフを脱退。 後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。 小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだったことを知っている者は少ない。 脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にを結成。 1970年よりソロ活動となり、バラエティー番組で活躍。 ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。 2012年、腎盂ガンのため都内の病院で死去。 ポン青木 1960年に桜井輝夫とザ・ドリフターズにメンバー入り。 1962年に脱退。 いかりやがドリフに加入して暫くの後にスクラップサウンズに移籍の形で脱退。 いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。 脱退原因は不明で 、脱退後は1970年代にはのマネージャーを務めていた が、白血病により40代の若さで他界した。 高橋一 桜井輝夫に誘われてポン青木とともにメンバー入りし、解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当楽器やいつごろ脱退したのかなどの詳細については資料がなく不明である。 田中良夫 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。 テナー・サックス担当。 1962年に脱退。 加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発して脱退。 三好明 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。 ピアノ担当。 1962年に脱退。 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発して脱退。 小山威 エレキギター担当。 1964年の末に脱退。 彼が脱退する代わりのギターが仲本となる。 いかりやが正式なリーダーとなって音楽コント色が強まったこと及び体調不良により脱退。 高松秀晴(1942年3月16日 - )(77歳) 正式なメンバーではなく専属シンガー。 1960年5月、(ドリフターズの初代リーダーとされるが現在社長を務める芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。 桜井輝夫とザ・ドリフターズにボーカルがいなかったことから抜擢され1960年〜1962年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。 高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得たほどの実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可が得られなかったため、実際には出場していない)。 現在の動向は不明。 (1946年7月11日 - 、本名 池田鞠子)(73歳) 正式なメンバーではなく専属シンガー。 しかし、高木の証言によれば元メンバー。 本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。 1961年〜1962年の初頭頃、専属シンガーだった。 彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。 ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )(83歳) ギター担当。 1964年の秋に脱退。 元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われて1962年にドリフ入り。 しかし、そのいかりやのワンマンぶりに愛想を尽かし、1964年に小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退し、ドンキーカルテットを結成。 現在は芸能界の他、催眠術師として、執筆活動や催眠法のクリニックなどで活躍している。 大野義夫と親交があり、2017年2月22日に高木ブーや大野義夫らが出演するライブのMCを行う。 飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日)(62歳没) 担当。 1964年の秋に脱退。 小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退。 ドンキーカルテットを結成するがこちらも結成後に暫くして脱退。 後に11PMの水曜日のレポーターとして活躍。 元々カントリー&ウェスタンに精通しており、本人はドリフやドンキーの音楽コントには向いていない感じで存在感を出すことにとても苦労したとのこと。 2003年に死去。 猪熊虎五郎(1932年- 2001年11月4日)(69歳没) キーボード担当。 1964年の秋に脱退。 長身で眼鏡が特徴。 ドンキーカルテットに移籍。 ドンキーのメンバーでは最後にドリフに加入。 後に声優もこなしたが、後に芸能界から引退。 2001年に死去。 関係者 ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされた経験のあるを紹介する。 (1932年9月10日 - 1995年3月19日)(62歳没) 『全員集合』が開始された頃に、山田から演技指導を受けていた事があり、それが縁で『』の収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演したという。 また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。 山田の追悼本においてが、『ルパン三世』のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。 (1948年1月7日 - )(71歳) 1964年の16歳の時ジャズ喫茶へ入り浸っておりそこで知り合ったのが桜井輝夫とドリフターズ。 知り合った縁からなし崩し的に約1年間付き人に近いことをやっていた。 その際、当時ドリフターズのリーダーである桜井にジャズ喫茶のオーディションを紹介されて応募し、「僕のマシュマロちゃん」という曲を歌って見事に優勝を果たす。 その後は作曲家の和田香苗の門下生となりドリフの付け人からは離れた。 (いやま淳) 1945年 - 74歳 元付き人。 1972年に志村が結成したの最初の相方。 志村と共に冠番組の『』に出演していた。 また1969年、ドリフの映画『ドリフターズですよ! 全員突撃』にガードマン役として出演。 やや強引な売り込みが祟ってのネタ切れによる人気低迷で『ぎんぎら! ボンボン! 』のリニューアル番組『』が打ち切りになった後、志村の才能を目の当たりにしているうちに自信を失った事もあって失踪し、解雇処分となってそのまま芸能界を引退。 2019年7月31日放送の『』で、芸能界を去った後は様々な職を転々とした事と現在は交通安全指導員をやっている事が明らかにされ、この番組で志村は約50年ぶりにかつての相方の姿を確認した。 福田正夫 元付き人。 志村が結成したマックボンボンの井山失踪後の相方。 自衛隊出身であり、「自分は芸能界でなくてもやっていける」と強気でコンビ結成後の練習に身が入らず、芸能界を引退。 マックボンボンは自然消滅的な形で解散の道を辿る。 (1956年2月26日 - )(63歳) は、デビュー当時コミックバンドと思われていた。 いかりやは桑田に目を付け、TBSプロデューサー居作昌果を通して高木が辞めそうになった時に桑田にドリフ加入を打診していた。 後にサザンで出した曲「」のジャケットでは加藤茶を真似たハゲヅラを被った格好で、ライブでその曲を歌う時はその格好をすることが多い。 サザンのデビュー曲「」の名前は、1977年9月に志村がギャグで使用していた。 (いづくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)(71歳没) 元TBSテレビプロデューサーで、独立後テレビ制作会社「」を設立、同社の代表取締役社長を務めた。 『』や前枠番組の『』、『』をプロデュースした。 (1935年9月9日 - )(84歳) ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。 いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、「影のドリフメンバー」と呼んでいたほどドリフに貢献した人物。 現在ドリフの所属するプロダクション「」。 (1935年4月19日 - 2006年3月2日)(70歳没) 元TBSテレビプロデューサーで、作家・演出家。 演出面でいかりやのコントに感心し、いかりやの弟子となった。 荒井の芸能界復帰に力を尽くした。 『』や『』、『』、『』などののプロデュース・演出を手掛けたことで知られる。 (1943年5月24日 - 2016年10月16日)(73歳没 音楽面のブレーン的存在。 ドリフ及び志村の冠番組の大半で作曲を担当。 『全員集合』の少年少女合唱隊コーナーではピアノ伴奏者として出演もしていた。 ( - 2016年6月5日)(73歳没) 全員集合のコントの仕掛けを作っていた美術スタッフ。 後に番組の回顧として『8時だョ! 来日公演の際にドリフが前座をつとめた。 演奏曲は「」。 当時テレビでドリフの演奏が見られることはなかったが、近年になり日本テレビ『』にいかりや、加藤、高木らがそれぞれ出演した際にその一部が放映された。 ( - )(67歳) コメディアン、放送作家。 自身が司会を務めた『小柳ルミ子ショー』にマックボンボンがコントで出演していた。 いかりややドリフのマネージャーから、マックボンボンやドリフのメンバー候補に挙げられた事がある(自身のブログの記事 より )。 (7月10日 - )(41歳) いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。 そのときの父・のコメントは「力をつけてもらわないと…」だった。 いかりやとは「」枠で放送されたドラマ(『』など〉や映画『』で共演している。 ドリフと同じイザワオフィス所属。 (5月29日 - 11月30日)(82歳没) ドリフが歌唱するときにバックで演奏していた豊岡豊とスイング・フェイスのリーダー。 加藤茶の証言によると、荒井注脱退時にいかりや長介が後釜としてメンバー入りさせようと検討していた(最終的に加藤の推薦により志村けんが加入することとなった)。 シングル「ドリフのツーレロ節」のみ。 『』1999年10月6日号(No. 430)、60頁。 ただし、『8時だョ! 全員集合』の前半コント冒頭で「オイッス! 」をしなかった観客に対していかりやがツッコミを入れることはあった。 また『ドリフのドパンチ! 学園』は視聴者参加番組であり、番組の性質上、コント中にドリフと素人の絡みも見られた。 高木ブー『第5の男』p. 100-101• web. archive. org 2020年3月30日. 2020年3月31日閲覧。 ただしこれは本人の意志ではなく、復帰作となった『』を手掛けたが荒井のカムバックを執拗に要求して引かなかったための止むを得ない措置であったと久世とTBS時代の同僚で『8時だョ! 全員集合』プロデューサーだったが著書『8時だョ! 全員集合伝説』で述懐している。 に扮していた。 高木ブー『第5の男』p. 99-101• AERA. dot2018. 21 2019. 11access• 「朝日年鑑1986」p. 331。 これによると、いかりやが『全員集合』終了後の活動を個別に行うコメントを出したことで「実質的な解散」としている。 この頃、ドリフターズとして出演していたのは『ドリフ大爆笑』だけだったが、この時期からの同番組はそれぞれ個々のスケジュールの合間に個別に撮影してひとつの番組として放送していて、オープニング映像も1983年に撮影されたものをずっと使用している為、余計に5人が揃う事は無くなっていた。 1994年辺りから5人揃ってのコントが復活したりして5人での出演が増えている。 サンケイスポーツ. 2017年3月5日. 2017年3月5日閲覧。 お笑いナタリー. 2017年3月14日. 2017年3月15日閲覧。 「ドリフの全員集合のテーマ(北海盆唄)」「誰かさんと誰かさん」「ドリフのズンドコ節」「志村けんの全員集合 東村山音頭」「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「ドリフのビバノン音頭」のメドレー。 後に作曲:とされる• 平尾のオリジナル・バージョンでは「作詞・作曲:平尾昌章、補作詞:、補作曲:津々美洋」とクレジットされている。 j-lyric. net• ジャケット記載ママ。 説明を参照。 補作詞:いかりや長介となっているが、補作であるのは口伝され続けているも歌詞に含まれていることからである。

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ドリフターズ(漫画) ネタバレあり 最新 第74話 感想 【島津豊久&菅野直、新選組・土方歳三との戦いに決着!?】

ドリフターズ

詳細は「」を参照 1952-11-14 (67歳) 本名: 諏訪園 親治(すわぞの ちかはる)• 元・見習い。 幻のドリフ第六の男。 でのドリフ公演では、すわを含めた6人構成のコントが披露された。 1970年頃、加藤の運転手として採用される。 1972年頃、付き人に昇格。 『(荒井時代の)全員集合』に志村より先に出演し、「奇声を上げながらやたら走りまくったあげく加藤のクシャミでズッコケるブルース・リー」役で笑いを取る。 グループ内の音楽では、ドラムを担当することもあった。 結果としては、先輩に当たる志村がドリフに加入することとなった。 その後、正メンバーになることなく1985年に脱退。 いかりやは、メンバー昇格を延ばし延ばしにした結果すわを脱退に追い込んでしまったと悔やみ、その才能を惜しんでいた。 脱退後は、一時サラリーマン生活を送る。 1990年に政治風刺コント集団「」に参加し、中心的な存在となるが脱退。 その後は、ソロライブや松崎菊也、石倉直樹とコント公演「はだかの王様」や主演の音楽劇に出演するなど、地道ながら精力的に活動を続けている。 2001年での『』にドリフターズが出演した際、ゴーウェストの曲目の際に「馬」の扮装でコーナー出演(本名の諏訪園親治名義での出演)。 伏線は後述する「主な出演番組」の項目の「飛べ! 孫悟空」を参照。 いかりやの葬儀のときには、残された4人の現メンバーとともにいかりやの棺を運んでいた。 前期バンド時代のメンバー ドリフターズは元々バンドであり、コントを行っていたわけでなく、前期バンド時代には大御所ミュージシャンが在籍していた。 (1931年1月3日 - 2019年2月11日)(88歳没) 初代リーダー。 ギター担当。 元・東京ウエスタンボーイスの出身。 1959年の春頃に脱退。 1956年秋マウンテンボーイズとの合併により、サンズ・オブ・ドリフターズのリーダーとなる。 1959年桜井輝夫にリーダーの座を譲り脱退して渡辺プロマネージャーとなる。 その後「」社長を歴任したが第一プロは2017年9月に業績の悪化と岸部の高齢化もあり解散。 (MPA)副会長、の名誉理事を兼任。 2019年2月11日、肺ガンにより死去。 大野義夫(1931年9月9日 - )(88歳) 結成当時のメンバーで、元・マウンテンボーイズの出身。 1957年2月に脱退。 現在も芸能活動をしているが、メディアへの露出は殆どなく、稀にラジオ番組などにゲスト出演する程度。 結成当時の元メンバーで現在もシンガーもしくは器楽奏者として音楽関係に携わっていることが判明している唯一の人物である。 やとの親交が深く、元メンバーではジャイアント吉田、現ドリフメンバーの中ではと親交がある。 (1939年2月22日 - 2011年1月5日)(71歳没) ボーカル担当。 1957年11月脱退。 ドリフ脱退後に人気が爆発し、一世を風靡したロカビリー歌手。 、と並んで「ロカビリー三人衆」と呼ばれる。 実父はでの。 本人はコメディの分野には進んでいないが、『』に 1977年ブームでロカビリーブームのコントに出演している。 2011年1月5日、胆管ガンによる腎不全のため死去。 吉田博久 結成当時のメンバー。 1959年の末に脱退。 鈴木修 結成当時のメンバー。 ベース担当。 1959年の末に脱退。 (1931年1月- )(88歳) 2代目リーダー。 ギター、ボーカル担当。 1965年の夏頃に脱退。 1959年の末に岸部リーダー時のメンバーが小野以外全員脱退した後、脱退しなかった小野ヤスシ、新加入のポン青木、高橋一を誘って4人で解散寸前のドリフターズを再結成させる。 ドリフをロカビリーからコミックバンドに転向させる際、桜井はコミックに精通していなかったため、ジミー時田とマウンテンプレイボーイズより碇矢長一をヘッドハンティング。 一般的に知られている5人のメンバーになったドリフメンバーの中では、いかりやと加藤のみが桜井リーダー時のメンバーとして在籍(荒井・高木・仲本の3人も居るには居たが、3人は桜井がオーナーの立場になってからの加入)。 1964年の秋、リーダーの座を正式にいかりやに譲り、1965年にドリフの管理を渡辺プロダクションへ譲渡して脱退。 系バラエティ番組『』の2001年10月7日放送分において、加藤茶がゲスト出演した際に、加藤の芸能界の恩師として登場したことがある。 (1941年8月23日 - 1985年9月19日)(44歳没) ボーカル担当。 1959年11月に脱退。 、と並んで「三人ひろし」と呼ばれる歌手。 山下の脱退後、ドリフのバンドボーイから昇格。 長身と甘いマスクで女性ファンを魅了した。 映画「青春を賭けろ」にも出演。 代表曲は「雨に咲く花」。 ドリフ脱退後も暫くは売れていたものの、その後は鳴かず飛ばずで料理人になるための勉強を始めるが、急性心筋梗塞のため44歳という若さで死去。 (1941年12月10日 - 1985年8月12日)(44歳没) ボーカル・ギター担当。 1958年11月脱退。 雑誌「ミュージックライフ」1958年10月号によれば、1958年5月に井上ひろしとドリフターズのボーヤとして加入し8月に正メンバーとなってボーカルをやっていた。 同年8月、第3回日劇ウエスタンカーニバルにメンバーとして出演したが、ドリフターズではメインボーカルになることが出来ないという理由により12月にに移籍の形で脱退。 「8時だョ! 全員集合」の第1回放送にゲスト出演している。 1985年にに遭い死去。 (1940年2月11日 - 2012年6月28日)(72歳没) 元・正メンバー(1959年 - 1964年)。 コンガ、ボーカル担当。 1964年の秋に脱退。 井上ひろしとザ・ドリフターズの最末期に加入。 加入直後はメンバーの小山仁義の家に居候していたという。 1964年の夏にいかりやと対立してドリフを脱退。 後述するクーデターにより、ドリフが現在のメンバー構成となるきっかけを作った人物である。 小野脱退以後のメンバー構成が世間では「ドリフターズ」と認知されているためか、彼がドリフメンバーだったことを知っている者は少ない。 脱退後、後述する他のドリフ脱退メンバーと共にを結成。 1970年よりソロ活動となり、バラエティー番組で活躍。 ドリフ脱退後も加藤との交友関係は続き、1993年には加藤、仲本と共に「加トちゃんBAND」を結成している。 2012年、腎盂ガンのため都内の病院で死去。 ポン青木 1960年に桜井輝夫とザ・ドリフターズにメンバー入り。 1962年に脱退。 いかりやがドリフに加入して暫くの後にスクラップサウンズに移籍の形で脱退。 いかりやの著書では、青木はコミックに前向きだったと述べている。 脱退原因は不明で 、脱退後は1970年代にはのマネージャーを務めていた が、白血病により40代の若さで他界した。 高橋一 桜井輝夫に誘われてポン青木とともにメンバー入りし、解散寸前だったドリフの復活に尽力したが、担当楽器やいつごろ脱退したのかなどの詳細については資料がなく不明である。 田中良夫 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。 テナー・サックス担当。 1962年に脱退。 加藤をドリフターズに加入するよう誘い、メンバーに加入させている。 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発して脱退。 三好明 桜井輝夫とザ・ドリフターズ時代のメンバー。 ピアノ担当。 1962年に脱退。 桜井がいかりやに形式的にリーダーを譲り、コミックの比重が強まった頃に完全なコミックバンド化に反発して脱退。 小山威 エレキギター担当。 1964年の末に脱退。 彼が脱退する代わりのギターが仲本となる。 いかりやが正式なリーダーとなって音楽コント色が強まったこと及び体調不良により脱退。 高松秀晴(1942年3月16日 - )(77歳) 正式なメンバーではなく専属シンガー。 1960年5月、(ドリフターズの初代リーダーとされるが現在社長を務める芸能事務所)主催の新人ロック歌手コンテストに入賞して芸能界入り。 桜井輝夫とザ・ドリフターズにボーカルがいなかったことから抜擢され1960年〜1962年頃、木の実ナナと共にドリフターズの専属シンガーだった。 高校生でウェスタンカーニバルの出場資格を得たほどの実力者だった(ただし、当時在籍していた高校から出場許可が得られなかったため、実際には出場していない)。 現在の動向は不明。 (1946年7月11日 - 、本名 池田鞠子)(73歳) 正式なメンバーではなく専属シンガー。 しかし、高木の証言によれば元メンバー。 本人の証言、いかりやの著書、加藤の証言では、前歌を歌っていたという。 1961年〜1962年の初頭頃、専属シンガーだった。 彼女はいかりや、加藤らのバックミュージックの下で歌っており、いかりやからは「ナナすけ」と呼ばれていた。 ジャイアント吉田(1936年1月25日 - )(83歳) ギター担当。 1964年の秋に脱退。 元々いかりやが在籍していた「ジミー時田とマウンテン・プレイボーイズ」のメンバーであったが、いかりやに誘われて1962年にドリフ入り。 しかし、そのいかりやのワンマンぶりに愛想を尽かし、1964年に小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退し、ドンキーカルテットを結成。 現在は芸能界の他、催眠術師として、執筆活動や催眠法のクリニックなどで活躍している。 大野義夫と親交があり、2017年2月22日に高木ブーや大野義夫らが出演するライブのMCを行う。 飯塚文雄(1940年11月23日 - 2003年3月27日)(62歳没) 担当。 1964年の秋に脱退。 小野ヤスシと共にクーデターを起こして脱退。 ドンキーカルテットを結成するがこちらも結成後に暫くして脱退。 後に11PMの水曜日のレポーターとして活躍。 元々カントリー&ウェスタンに精通しており、本人はドリフやドンキーの音楽コントには向いていない感じで存在感を出すことにとても苦労したとのこと。 2003年に死去。 猪熊虎五郎(1932年- 2001年11月4日)(69歳没) キーボード担当。 1964年の秋に脱退。 長身で眼鏡が特徴。 ドンキーカルテットに移籍。 ドンキーのメンバーでは最後にドリフに加入。 後に声優もこなしたが、後に芸能界から引退。 2001年に死去。 関係者 ここでは、ドリフと関係の深い番組スタッフ、プロダクションマネージャー、新生ドリフから派生したコメディアン(すわ親冶を除く)、および新生ドリフにスカウトされた経験のあるを紹介する。 (1932年9月10日 - 1995年3月19日)(62歳没) 『全員集合』が開始された頃に、山田から演技指導を受けていた事があり、それが縁で『』の収録スタジオへ挨拶に行ったり、山田が『全員集合』の冒頭のコントに出演したという。 また、プライベートで山田と飲みに行くこともしばしばあったという。 山田の追悼本においてが、『ルパン三世』のアフレコ中のスタジオに、当時小林の子供もテレビで夢中になっていたというドリフのメンバーが入ってきて、山田に丁重に挨拶するのを見て驚いたと語っている。 (1948年1月7日 - )(71歳) 1964年の16歳の時ジャズ喫茶へ入り浸っておりそこで知り合ったのが桜井輝夫とドリフターズ。 知り合った縁からなし崩し的に約1年間付き人に近いことをやっていた。 その際、当時ドリフターズのリーダーである桜井にジャズ喫茶のオーディションを紹介されて応募し、「僕のマシュマロちゃん」という曲を歌って見事に優勝を果たす。 その後は作曲家の和田香苗の門下生となりドリフの付け人からは離れた。 (いやま淳) 1945年 - 74歳 元付き人。 1972年に志村が結成したの最初の相方。 志村と共に冠番組の『』に出演していた。 また1969年、ドリフの映画『ドリフターズですよ! 全員突撃』にガードマン役として出演。 やや強引な売り込みが祟ってのネタ切れによる人気低迷で『ぎんぎら! ボンボン! 』のリニューアル番組『』が打ち切りになった後、志村の才能を目の当たりにしているうちに自信を失った事もあって失踪し、解雇処分となってそのまま芸能界を引退。 2019年7月31日放送の『』で、芸能界を去った後は様々な職を転々とした事と現在は交通安全指導員をやっている事が明らかにされ、この番組で志村は約50年ぶりにかつての相方の姿を確認した。 福田正夫 元付き人。 志村が結成したマックボンボンの井山失踪後の相方。 自衛隊出身であり、「自分は芸能界でなくてもやっていける」と強気でコンビ結成後の練習に身が入らず、芸能界を引退。 マックボンボンは自然消滅的な形で解散の道を辿る。 (1956年2月26日 - )(63歳) は、デビュー当時コミックバンドと思われていた。 いかりやは桑田に目を付け、TBSプロデューサー居作昌果を通して高木が辞めそうになった時に桑田にドリフ加入を打診していた。 後にサザンで出した曲「」のジャケットでは加藤茶を真似たハゲヅラを被った格好で、ライブでその曲を歌う時はその格好をすることが多い。 サザンのデビュー曲「」の名前は、1977年9月に志村がギャグで使用していた。 (いづくり よしみ、1934年3月31日 - 2005年4月10日)(71歳没) 元TBSテレビプロデューサーで、独立後テレビ制作会社「」を設立、同社の代表取締役社長を務めた。 『』や前枠番組の『』、『』をプロデュースした。 (1935年9月9日 - )(84歳) ドリフが渡辺プロに在籍していた時のマネージャー。 いかりやによれば、ドリフの営業面をサポートし、「影のドリフメンバー」と呼んでいたほどドリフに貢献した人物。 現在ドリフの所属するプロダクション「」。 (1935年4月19日 - 2006年3月2日)(70歳没) 元TBSテレビプロデューサーで、作家・演出家。 演出面でいかりやのコントに感心し、いかりやの弟子となった。 荒井の芸能界復帰に力を尽くした。 『』や『』、『』、『』などののプロデュース・演出を手掛けたことで知られる。 (1943年5月24日 - 2016年10月16日)(73歳没 音楽面のブレーン的存在。 ドリフ及び志村の冠番組の大半で作曲を担当。 『全員集合』の少年少女合唱隊コーナーではピアノ伴奏者として出演もしていた。 ( - 2016年6月5日)(73歳没) 全員集合のコントの仕掛けを作っていた美術スタッフ。 後に番組の回顧として『8時だョ! 来日公演の際にドリフが前座をつとめた。 演奏曲は「」。 当時テレビでドリフの演奏が見られることはなかったが、近年になり日本テレビ『』にいかりや、加藤、高木らがそれぞれ出演した際にその一部が放映された。 ( - )(67歳) コメディアン、放送作家。 自身が司会を務めた『小柳ルミ子ショー』にマックボンボンがコントで出演していた。 いかりややドリフのマネージャーから、マックボンボンやドリフのメンバー候補に挙げられた事がある(自身のブログの記事 より )。 (7月10日 - )(41歳) いかりや長介に弟子入りし、ドリフの6番目のメンバー入りも計画されていた。 そのときの父・のコメントは「力をつけてもらわないと…」だった。 いかりやとは「」枠で放送されたドラマ(『』など〉や映画『』で共演している。 ドリフと同じイザワオフィス所属。 (5月29日 - 11月30日)(82歳没) ドリフが歌唱するときにバックで演奏していた豊岡豊とスイング・フェイスのリーダー。 加藤茶の証言によると、荒井注脱退時にいかりや長介が後釜としてメンバー入りさせようと検討していた(最終的に加藤の推薦により志村けんが加入することとなった)。 シングル「ドリフのツーレロ節」のみ。 『』1999年10月6日号(No. 430)、60頁。 ただし、『8時だョ! 全員集合』の前半コント冒頭で「オイッス! 」をしなかった観客に対していかりやがツッコミを入れることはあった。 また『ドリフのドパンチ! 学園』は視聴者参加番組であり、番組の性質上、コント中にドリフと素人の絡みも見られた。 高木ブー『第5の男』p. 100-101• web. archive. org 2020年3月30日. 2020年3月31日閲覧。 ただしこれは本人の意志ではなく、復帰作となった『』を手掛けたが荒井のカムバックを執拗に要求して引かなかったための止むを得ない措置であったと久世とTBS時代の同僚で『8時だョ! 全員集合』プロデューサーだったが著書『8時だョ! 全員集合伝説』で述懐している。 に扮していた。 高木ブー『第5の男』p. 99-101• AERA. dot2018. 21 2019. 11access• 「朝日年鑑1986」p. 331。 これによると、いかりやが『全員集合』終了後の活動を個別に行うコメントを出したことで「実質的な解散」としている。 この頃、ドリフターズとして出演していたのは『ドリフ大爆笑』だけだったが、この時期からの同番組はそれぞれ個々のスケジュールの合間に個別に撮影してひとつの番組として放送していて、オープニング映像も1983年に撮影されたものをずっと使用している為、余計に5人が揃う事は無くなっていた。 1994年辺りから5人揃ってのコントが復活したりして5人での出演が増えている。 サンケイスポーツ. 2017年3月5日. 2017年3月5日閲覧。 お笑いナタリー. 2017年3月14日. 2017年3月15日閲覧。 「ドリフの全員集合のテーマ(北海盆唄)」「誰かさんと誰かさん」「ドリフのズンドコ節」「志村けんの全員集合 東村山音頭」「ドリフのほんとにほんとにご苦労さん」「ドリフのビバノン音頭」のメドレー。 後に作曲:とされる• 平尾のオリジナル・バージョンでは「作詞・作曲:平尾昌章、補作詞:、補作曲:津々美洋」とクレジットされている。 j-lyric. net• ジャケット記載ママ。 説明を参照。 補作詞:いかりや長介となっているが、補作であるのは口伝され続けているも歌詞に含まれていることからである。

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